「レイク・ウォビゴン」・・・プチ洪水を引き起こした賭け。
『レイク・ウォビゴン』
私は迷っていた。
日頃使い慣れた装置が、もしかすると恐ろしい牙を剥いて
襲ってくるかもしれないのだ。
「絶対うまくいく。大丈夫だ」
ただレバーを引くという簡単な動作が、今の私にとっては
人生を左右するほどの重要な行為になっていた。
「今まで2回やったがうまくいかなかった。３度目の正直だ。まだやれる。だが、念の為に小にしておいた方が良いだろう」
水面を見つめながら、私は意を決してレバーを引いた。
ザザ～っという音とともに水が流れ、３秒も経たないうちに、私は悲鳴を上げた！
「うわあああ～。しまった～」
水洗トイレの便器の淵を越えて、大量の水が溢れ出てきたのだ。
「ごめ～ん。雑巾持ってきて～」
私はキッチンで料理をしている陽子を呼んだ。
彼女はすでに悲鳴を聞きつけて後ろに立っていた。
「何やってんの！」
「猫のウンチ掃除してて、トイレに猫砂流したんだけど
流れて行かないから、もう一度流したら溢れちゃったんだよ。
キッチンの隅に吊ってある雑巾取ってくれるかな」
「もう！ １回にたくさん流し過ぎたんでしょう。少量ずつ流すの常識でしょ。どうしてちゃんとしないのよ」
陽子は怒りの声を上げながら、流しに雑巾を取りに行った。
私は激流を止めることもできず、わずかでも溢れ出る水を減らそうと、
猫トイレ用の手桶で、水をすくった。
そこへ大量の古いタオルと雑巾を持って陽子が戻ってきた。
「ほら。これ。もう捨てるっていってたバスタオル。
先週捨てなくて良かったわ。もう勘弁してよね」
「すみません」
私はタオルを受け取り、床を拭きながら素直に頭を下げた。
下げた頭の中には、後悔しかなかった。
「絶対大丈夫だと思ったんだけどな・・・」
呟く後ろ姿に陽子が声を掛けた。
「いきなり溢れたわけじゃないでしょ。２回？３回？」
「３回です・・・」
「じゃあ２回目で一杯になってたんじゃないの？」
「いや。まだやれると思ったんだよ。
それに３回目ともなれば、水の勢いも違うだろうし」
「ふん。下手なギャンブラーの言い訳ね。
失敗する可能性があるのに、自分は他人より優れているから
絶対に成功する、と考えてしまうのよね。
そういうの、レイク・ウォビゴン効果って言うんだって、
夢見る人なのよ。理想の世界に住んでるのよ。あなたは」
私の頭にふと昨日会社で聞いた話を思い出した。
今会社では、開発部の伊野課長が始めた新事業が頓挫し、問題になっている。
伊野課長が新しい婚活ビジネスを独断で進めたのだが
コロナでイベント自体が開けず、会員からクレームが殺到した。
イケイケで強気だった伊野課長は、可愛そうなくらい気落ちしていた。
『伊野部長も、きっと上手くいく事だけ考えていたんだろうな』
全く中身の知らない仕事なのに、その顛末を誰よりも深く理解したような気分になった。
「ほら。ボーっとしてないで手を動かしてよ」
陽子がすぐ横にしゃがんで一緒に床を拭き始めた。
ふくよかな温もりが伝わってくる。
「ありがとう」
「いいから。あ、そこ。まだ濡れてるわよ」
「う、うん」
「ねえ。ズッポンってやる奴ある？ パイプ詰まり取る道具」
「ああ。あれ、あれね。うん。玄関の物入にあったと思う」
「分かった」
物入れに向かう後ろ姿を見ながら私は考えた。
「あのズッポンってやる奴、何て名前なんだろう」
床を拭きながら頭が無駄な方向に回っていても
私は不思議な充実感に包まれていた。
リビングのソファーで無邪気な猫がひと声泣いた。
おわり
ちなみに、あの『ズッポンってやる奴』は、ラバーカップと言うそうです。
効果抜群。私の家でも長い針金が付いたブラシと一緒に備えてあります。
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