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『表現』と『捉えられ方』

私はテクニカルエリアでのビエルサ監督の振る舞いが大好きだ。テクニカルエリアギリギリにしゃがんで戦況を見つめているかと思えば、急にテクニカルエリアを行ったり来たりする。何を考えているのか全く読めないビエルサ監督の振る舞いはまさに"表現者"である。

先日、J2のファジアーノ岡山がオフィシャルで『選手の身だしなみについて』という声明文を発表した。

日本では文化や風習、習慣的な観点から『身だしなみ』には非常に厳しい。近年はだいぶ世間の身だしなみに関する価値観も変わってきているではないかと思うが、まだ身だしなみについて厳しい姿勢を貫いている組織はあるのではないだろうか。

例えば、学校では頭髪検査があったり、スカートの長さや制服をしっかり着ているか(ボタンが上まで止まっているか、ネクタイを緩めてないか)など生徒の身だしなみについて厳しく対応しているところも未だに多いだろう。

これはサッカークラブの同様で髪を染めるのは禁止、ピアスを開けるのは禁止、サンダルで試合に来るのは禁止といった身だしなみに対するルールを定めているクラブもあるだろう。

『表現』すること

選手はピッチ上で自分を表現しなければいけない。ピッチに立つ価値を示すために「自分は何ができるのか」ということを魅せる"表現者"にならなくてはいけない。

個々が自分の個性を表現し、それがチームとして1つにまとまった時に美しい魅力的なパフォーマンスが見られると思う。それ故に、私は選手たちにパフォーマンスとして感情も含めた自分の特徴を表現してほしいと思っている。

だから、私はスパイクの色であったり、髪の毛の色、ヘアスタイルや腕にテーピングをしたりといった『自分自身の表現』は大切だと思っている。これは指導者も同様で、指導者がどういう人物なのかということを表現するためにファッションに拘ることも大切だと思っている。

現にプロの世界を見ればナーゲルスマンやペップ、シメオネやデゼルビといった名将も様々なファッションを1つの表現として着こなしている。

選手たちにピッチで個性を表現することを求められているのにも関わらず、個性を表現するような身だしなみに関して厳しいルールを定めているのは矛盾しているのではないだろうか。そして、ファジアーノ岡山の声明文にも載っていたが、昔からの暗黙の了解や文化や習慣的な部分からくる「誰も何のためにやっているのかわからないが、昔からそうだったから」というくだらない理由で、しょうもないルールがある組織は多いのではないだろうか。

私がジュニアユースでサッカーをしていた時にとある対戦相手の中学校のサッカー部は全員坊主だった。そこのサッカー部は入部したら坊主にしなければならないらしく、いまだによくわからない伝統があるようだ。部員が全員坊主だからといってサッカーが上手くなるのだろうか。きっと「何で坊主にしなければいけないんですか?」と聞いたら、「そういう伝統だから」、「みんなそうしている」、「坊主にしたくないなら辞めていい」といった理不尽な回答がもらえるはずだ。

「髪の色は黒でなきゃダメ」というルールは大概が「日本人は黒い髪であるべきだ」というステレオタイプからくるものではないだろうか。世界に出れば茶髪や金髪は当たり前にいる訳で、社会に出れば髪を染める人も多ければピアスが開いている人も多い。髪を染めているからといって、その人が真面目じゃないと判断することはできない。また、髪が黒いからといってその人が真面目だと判断することもできない。選手が坊主にすれば誠実にサッカーに打ち込める性格に変わるのだろうか。要は見た目だけでその人の性格や人格を判断することはできないのだ。

だから私はもし選手が容姿で何か強調したいものがあるのであれば、自分を表現するためにもやるのはありだと思う。それで個性を表現しやすくなり、ピッチ上で躍動することができるのであれば、身だしなみを指定して選手が縮こまるよりかは良いのではないだろうか。

他人からの『捉えられ方』

サッカーでは個性を表現することが大切だと思うが、それと同時に「他人からどう捉えられるか」という視点も大切だ。

選手はフットボーラーであると同時に1人の人間でもある。だから、人としての振る舞いについても考える必要がある。極端な例をあげるとするならば、お葬式の場に礼服ではなくTシャツに短パン、サンダルで出席するのは正しい振る舞いではないだろう。

練習ではチームの一員として指定された練習着を着るということや、指導者もクラブから指定されたスタッフ用の服を着用するといったことは人としての振る舞いを考えた時に重要である。

頭髪にしても、まだ髪型や髪の色によってはネガティブな印象を持つ人がいるということも考えなければならない。自分のことを表現する一方で他人がどう捉えるかというバランス感覚も大事にしてほしいと思っている。それで選手やチーム、クラブに何か不利益なことが起こらないでほしいからだ。

Jの監督経験を持つ人は「指導者は選手に尊敬されるような振る舞いや身だしなみをする必要がある」と言っていた。ボサボサの髪に、ヨレヨレの服を着て、泥々のスパイクやトレシューで指導していたら選手は何を感じるだろうか。また、筋肉質でアスリート体型のコーチに「もっと体力をつけて走れるようにならなきゃいけない」と言われるのと、お腹が出ていてブヨブヨの体型のコーチに同じことを言われるのではどちらの方が説得力があるだろうか。

私は高校を卒業してから20歳くらいまでの間に様々な髪型、髪色をしてきた。今でこそ一定の髪型、地毛の黒髪に落ち着いたが、すごい時は髪の色を全然似合ってもいないのに緑や青、銀髪などに染めたこともあった。若気の至りというやつだ。その当時からサッカーの指導者をしていたが、クラブの代表から「流石にその髪の色は直してほしい」と言われたことを覚えている。選手が髪色を見てどう思うか、その選手の親御さんがどう思うか、対戦相手の指導者の方々や大会の関係者、サッカーに関わる関係者の方々が私の髪色を見てどう捉えるかということを考えた時に、緑色の髪の指導者に対してあまり良い印象を受けないことは必然だろう。

『表現』することは大事だが、『行き過ぎた表現』や『環境に相応しくない表現』は嫌悪感に繋がりネガティブな印象を与える可能性が高い。だからその環境にあった適切な振る舞いや身だしなみがあるということも認識しておくことは大切である。

指導者も"表現者"

前述したように指導者も"表現者"として自分の個性を表現することが徐々に文化として定着しつつある。近年では監督がクラブの顔になるケースも多くあり、監督のマッチデイの身だしなみや振る舞いが話題になることもよくある。

個人的には指導者も身だしなみを1つの表現の方法として活用するのは大切なのではないか考えている。例えば、「選手に過度なスポットライトが当たらないために、敢えて監督が目立った格好をする」や「自身のサッカーの哲学とリンクさせた格好をする」、「戦闘服のように試合に勝つためのゲン担ぎという意味を込めた格好をする」という表現があると面白いのではないだろうか。

現札幌の指揮官であるミハイロ・ペトロヴィッチ監督が浦和レッズを率いてた時に胸ポケットに赤い薔薇を入れていたことがあった。確かあれは、ゲン担ぎ的な要素でやっていたはずだ。

日本代表の森保監督はスーツをしっかりと着込んでいて、それはそれで森保監督の真面目さ誠実さを表現されているのではないだろうか。

最近で言えばガンバ大阪で指揮を取っていた宮本監督はJリーグの監督の中でもファッションには拘っていた。

カンボジアで指揮を取る時の本田監督もスタイリッシュな格好で目立っている。

監督自身のアイデンティティを作るという意味で戦略的な身だしなみが増えてくると、もっと面白くなるのではないだろうか。また、監督や指導者もフットボールというエンターテイメントを創る『表現者』として捉えた時に身だしなみに拘ることで、もっと盛り上げることができるのであれば、ファッションを表現のツールで活用することは悪くないのではないだろうか。

いずれにしてもピッチ上では選手や監督には"表現者"としての振る舞いが求められ、ピッチの内外で『人』としての振る舞いが求められる。『表現』と『捉えられ方』の両方をしっかりと意識して、フットボールというエンターテイメントを盛り上げていきたい。

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