火星人と花の色【7】

 7
 次の日の朝は、ガーリック・チャーハンみたいにからっと晴れたいい日だった。僕と彼女は二人で水族館に行き、いつかの冬の日みたいに蟹を眺めた。飽きた振りをして動物園に行き、話をする振りをしてライオンの檻の前まで来た。
「君たちは何を考えているの?」と僕は雄のライオンの一匹に尋ねてみた。ライオンは、つまらなそうな顔をして、僕たちの前を横切り、奥の方に下がってしまった。僕はもう一度だけ小さな声で聞いてみた。
 君たちは何を考えているの?
 返事はなかった。
 家に帰って、エアコンのスイッチを入れた。僕と彼女はシャワールームでキスをし、お互いに愛撫をし、体を拭かないままベッドに倒れて二人で時間をかけて性交した。それは、長い性交だった。鳥の声が聞こえ始めていた。鳥の甲高い鳴き声が、僕の勃起を勇気付けた。鳩の声は僕に不安を与えるけれども、キジもカラスもスズメも、次の朝のことを教えてくれる。彼らはみんな太陽を見ている。

 「ねえ、何を考えているの?」僕は尋ねた。
「火星人たちのことよ」
「ふうん、面白そうだな」
「素敵な気分よ」
 夜が明けた頃に、彼女はベッドで眠りについていた。僕は彼女の頬に軽く口づけし、ベッドから起きて服を着た。彼女のコーヒーメーカーを借りて時間をかけてコーヒーを淹れた。コーヒーの気分だったのだ。僕は、コーヒーを淹れるのが苦手なのを忘れていた。まずいコーヒーが胃に降りていくのを確かめカップをテーブルに置いて、僕は彼女の方を見た。次にカップを持った時、僕は手が震えていることに気づいた。それから空腹と、眠気が同時に襲ってきた。僕は焦ってコーヒーを飲み干し冷蔵庫に残っていたクラッカーを噛み砕き、シャワーを浴びた。彼女の使っていたシャンプーのかおりを感じながら熱いシャワーで髪の毛を流すと、僕は二年前(僕が十七歳でまだ何一つ理解していなかった頃)の恋人のことを思い出していた。
 沙羅(恋人だった女の名だ)は、真っ黒でまっすぐな長い髪をしていて、淡い色のシュシュがよく似合った。僕が沙羅の誕生日には薄い桃色のシュシュをプレゼントすると、下手くそに照れて、ありがとう、と確か彼女は言ったような気がする。どれだけ忘れまいとしても忘れたくないことは忘れ、忘れたいことは忘れられないものなのだ。
 僕は彼女の指の器用さや、会話の仕方が好きだった。そこにはどす黒い悪意のようなものが一つも存在しないように思えた。真っ白だったはずだった。
 なぜ彼女が僕に興味を持ったのかは今でもわからない。ただ、もう一人の恋人と名前が同じだったから、というだけなのかもしれない。それでもいい、と僕は思った。彼女とは一度もセックスをすることはなかったけれども、僕は彼女とのキスやデートや、会話や、彼女との全てを喜んでいた。彼女といる時、バラが激しく咲くように僕は熱く火照っていた。それは変えることのできない事実だ。
 彼女とは聞く音楽が全く違った。彼女はつまらない流行りの曲や、消費される恋の歌をよく聞いたし、僕は、いい曲だね、と言い、彼女は、そうでしょう? と意味の薄い歌詞を口ずさんだ。
 彼女にはもう一人恋人がいた。それは僕の親友で、いつから二人が知り合っていたのかも僕にはわからない。わかろうとしなかったのだ。その二人がセックスをする関係にあるなど、誰にわかるというのだろう? 
 僕は少なからず落胆して、その間に多くのものを唾棄してしまった。あまりにも多くを失いすぎてしまった僕は、それから半年後ほとんど浮浪者みたいな顔つきで沙羅と再会した。彼女はごめんなさい、と一言だけ呟いて僕の頰に口付けて、それから僕の胸の中で泣いた。僕も泣いた。
 その夜僕たちは初めてセックスをした。
 彼女の黒い髪と夜の闇が同化し始めた頃、僕は彼女の肩を抱いた。

 「わたし、濡れてるの。どうしてかわからないの」
「うん」
「あなたにわたしはとてもいけないことをしたのよ、わたしは、どうしてあなたに発情しているのよ? ねえ、怒ってよ? 怒鳴って殴って、あなたがわたしを恨んでくれないとわたしはずっと辛いの。辛いのよ、ねえ」
「嬉しいよ」僕はゆっくりと話した。「君とまた会えて僕はとても嬉しい」
「やめて」そう言って彼女はまた泣いた。僕のシャツが彼女の涙で重たくなり始め、彼女は泣きつかれたように涙を止め、こっそり、誰にも聞かせないように言った。
「抱いて」
 
 その夜を最後に、次の日目をさますと彼女はもうどこにもいなかったし、それ以降会うこともなかった。僕と彼女は最初で最後のセックスをとても上手に終えた。それは丁寧で、優しい時間だった。時計の針は、細く細く尖って最後に消えた。
 テーブルの上に冷めたコーヒーを文鎮にして置かれていた、拝啓、君へ、という長い言い訳と懺悔の手紙を僕は父親のライターで燃やした。灰を近くの川へ流した。川は僕の家のあたりから、下流域にある彼女の家の方まで延びている。この灰が彼女のところまで届くように、と思った。敬具。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?