完璧主義の落とし穴

さっそく完璧主義についての2つ目の記事です。
投稿コンテスト「#あの失敗があったから」の記事を目にして、思い出した過去があったので、教訓を共有させていただければと思い執筆することにしました。

数年前の私は本当に根っからの完璧主義者でした。
授業準備も学級経営も部活動指導も、何事もちゃんとやらなければ気がすまない。
ちゃんとすることが大切で、それが目的になっていました。
本来であればすべて子どもたちのためになるようにすることが目的であったはずだったのに。
自分が完璧にしたという実感を得るためにちゃんとやるようになっていました。

自分が実感を得るため、つまり自分のためなのでなんでも満足するまでやりました。
毎日朝4時まで仕事をし、5時半に起きて7時に出勤し、20時に大量の仕事を持って退勤して、家でまた仕事をする。
そんな生活を1ヶ月以上続けていました。

結果どうなったかというと、寝不足がたたって子どもたちとの人間関係が崩壊しました。
極度の寝不足でしたし、カフェイン漬けになっていましたが、意外にも身体が壊れることはありませんでした。
しかし、寝不足によるイライラは抑えられませんでした。
子どもたちの些細な行動に過度に反応してしまい、人間関係がどんどん崩れていきました。

そして、子どもたちとの人間関係が全てなくなってしまってから、ようやく気が付きました。
自分が苦労して完璧に作り上げたものが誰にも聞かれていないことを。
これは本当に恐怖でした。
人に囲まれて一緒に繁華街を歩いていたはずなのに、気が付いたら一人で真っ暗な荒野に立っていたような感覚です。

何のために家で仕事をしていたのか、完璧にしようと思っていたのか。
それは全て子どもたちのためだったはずです。
しかし、「完璧に」というのは自分のためでしかなく、子どもたちのためを思うなら「より良く」あるべきだったのです。
そのためのベストを尽くす必要はあっても、完璧にしなければいけない義務はありまりません。
今思えば、このときの「より良く」というのは、この人の話なら聞こうと思える関係を子どもたちと築いた上で、できるだけわかりやすい説明、教材を提供することだったのだと思います。

実はこの経験から「何を言うかではなく誰が言うか」という考え方になりました。
これについては別の記事で書かせていただいていますので、もし興味があれば読んでいただけると幸いです。

さて、先程も書かせていただいた通り、「完璧」というのはあくまで自分の自己満足の世界です。
テストで98点や99点を取るのはどちらもとても素晴らしい結果ですよね?
しかし、99点を取った人が100点を目指す、これはただの自己満足です。
100点を目指すことを否定しているわけではありません。
しかし、100点を取ろうとすることは100%自分のための行動だと言いたいのです。

完璧であるためにはとても細かいところまでこだわる必要があります。
それは本当に神経の擦り減ることです。
ゆえに、大きなことから目と注意が逸れ、視野が極端に狭まります。
自分が思うより多くのこと、大きなものを犠牲にすることになります。

かつての完璧主義だった私にこう質問をしてやりたいです。
「完璧にしたことによって得たものと、それによって失うもの、どちらが大きいか?」

今の私は不完全主義者です。
不完全くらいが丁度いいのです。
授業の板書が間違ってることにツッコミが入れられるくらい不完全な方が、子どもたちは授業を注意深く聞いていようと思ってくれます。(先生の粗探しという不純な目的ですが。笑)
結局、授業もクラスも子どもたちと一緒に作っていくものなので、自分だけで完璧に作ってしまっても子どもたちは面白くないですし、まず子どもたちなくして完璧に作るなんてことは不可能です。

教師という仕事は立場上、完璧でなければいけないという強迫観念に囚われがちです。
それゆえ、子どもたちを置き去りに自分だけで完璧を求め、自分さえ完璧であればよくなり、完璧であることが目的になってしまいます。
そして最悪の場合、自分は完璧だと思い込んで周囲の声が聞けなくなっていってしまいます。

もし、子どもたちとの関係でお悩みの先生がいるならば、完璧主義から降りることを強くオススメします。
そして一緒に不完全主義の教育を志していただければ嬉しいです。

一人でも多くの先生が子どもとの関係を良好に築くことで、日本の教育に蔓延る様々な問題が少しでも解消されることを願っています。

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またご意見、ご感想がありましたら遠慮なくコメントをしていただければと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

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