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好きと得意

得意だから好きになるのか?
好きだから得意になるのか?

教師をやっているとこんな疑問をよく感じます。

授業をしているとどうしても「得意だから好きになる」と思い込んでしまいがちです。
できるようになって結果が出るようになれば、自然と好きになるはずだと。

実際、その方が試験などの結果が出るまでは早いでしょう。
極端な話、とにかく問題を解かせればそれだけ実戦には近いわけですから、できるようになった実感をしやすいと思います。

また、「得意だから好きになる」と考えた方が、授業を作るのは断然楽でしょう。
もちろん、作問に細かい工夫は必要なので、手間がかからないというわけではありませんが、毎度、過去問を準備すればいいということになりますし、答えはすでに準備されているものなので、子どもたちの反応を想定する必要性は低いです。

しかし、それでは本質的な学びの活動にはならないと思います。

本来ならば学びとは「好きだから得意になる」ものであるはずです。
なぜならば、好きでもないことを継続して取り組むことが子どもたちにとってのストレスになり、学びの場から遠ざけることに繋がるからです。

しかし、「好きだから得意になる」ためにはそれなりの時間を要する可能性が高いです。
「好き」を作り出すために「結果」は全く意識しないので、自分自身も周囲も結果を実感しにくいためです。

また、この考え方で授業を作ろうとすると、かなりの時間がかかります。
好奇心の種を散りばめ、子どもたちの反応を想定し、それをスムーズに学びに昇華させるための工夫をしておく必要があるからです。

「得意だから好き」よりも「好きだから得意」が私のスタンスですし、ここで主張したいことですが、実際の学校ではそうでもなかったりします。
試験の結果や周囲との差など、目に見える数値なんかで子どもは判断することが多いため、子どもたちは試験で結果が出る方法を求め、試験で結果が出るから好きだという子がほとんどです。

そうすると「好き」であるかなどはどうでもよくなり、「得意」であるかが重要になってきます。
結果的には「好き」と「得意」が混同することになり、そうなるともはや学びの本質は失われたも同然です。

第三者として「好き」と「得意」を明確に区別し、「好き」を支援してあげるべきなのか。
当事者の立場になって「好き」と「得意」の区別をあえて曖昧にして、彼らのプライオリティに沿って「得意」を支援してあげるべきなのか。

キレイゴトはいくらでも言えますが、教育の現場を知る教師としては、本当に悩ましいところです。

皆さんの意見もお聞かせいただければ幸いです。
コメントお待ちしています。

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