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森鴎外の『当流比較言語学』が大好きな件について。コロナ禍の日本を見て書いたかのよう。

 『当流比較言語学』は、ドイツ語にはあるけど日本語にはない言葉を紹介しながら、日本人にない感情を指摘するという本です。
 紹介されるドイツ語は3つで、構成はとてもシンプル。文字数も極めて少ないので、数分で読むことができます。
 ただし、明治時代に書かれた文章である上に、紹介される言葉以外にもドイツ語が頻繁に出てくるので、ところどころ意味をとれないところがあります。しかし、分からない言葉を飛ばして読んでも、一番重要な部分は理解することができます。

 私は『当流比較言語学』を、とある大学入試で出題されたことで知りました。といってもその試験を受けたわけではありません。友達が受験勉強のために解いていたのを横から見ていただけです。

 友達が分からない問題がある、と言って相談してきたため、その問題の本文を読んだらそれがたまたま、現代語に整えられた『当流比較言語学』だったのです。

 昼休みに私たちはそこに書かれている内容について、友人数名と話し合いました。中でも私たちの興味をひいたのは、"sittliche Entrüstung"というドイツ語です。

 筆者である森鴎外によるとこのドイツ語は「或る事が不道徳である、背俗であると云って立腹する」という意味で「道徳的憤怒」「義憤」と訳すこともできるそうです。
 ドイツでは、この言葉を非難の意味合いで使うといいます。どういう意味か、森鴎外自身が易しく書いてくれています。

傍から、「その義憤をなさるお前さんは第一の石を罪人に抛つ資格がお有りなさるのですか」と云はれると、赤面しなくてはならないと感じるからである。そこで義憤といふことが氣恥ずかしい事になつてゐる。(本文より)

 日本人だって、こう言われたら恥ずかしいと感じるでしょう。でも確かに私たちは、それに対する語彙を持たないのかもしれません。「偏った正義感」とか「自分を棚にあげている」とか、誰かの怒りに対してそう言うことはできますが、その「怒りそのもの」を嘲笑しながら意味する言葉はありません。私が思いついていないだけで、知っていたら教えてくださいね。

 私たちはしばしば、失態を犯した人々を責めるコメンテーターやSNS上の見知らぬ誰かに対して嫌な気持ちを抱きます。「批判してばっかりね、この人たち」と。

 特に今は、コロナ関連のニュースと批判が後を絶ちません。政治家の失策を責めたり、不要不急の外出を楽しむ人々を責めたり、感染してしまった人々を責めたり、コロナ対策のためイベントが中止になったことを嘆く人々を責めたり・・・・・・。

 それはもしかしたら、正義感でもなんでもなく、ただのストレスのはけ口としての攻撃も含まれているかもしれません。
 でも、無駄な税金が使われている、とか感染拡大を推し進めている、とかそのような事態があれば、私たちは自然と怒りを感じて、それを言葉にしてしまうものです。「そんな馬鹿な政策はやめろ」「今そんなことしている場合か」「いや外出自粛をしている人の方が無知だ」「PCR検査をするべきだなんて、ニュースを見ていないのか」「いや、するメリットもあるんだ。お前の方が情弱だ」などと、様々な意見が出ては、お互いをつぶし合おうとします。

 もちろん、SNSに書き込まずに思っているだけの人もいるでしょう。

 どちらにせよ、私たちはそのような「怒り」がこみ上げてきたとき、特に自分の責任の及ばない範囲で「失態を犯した誰か」や「不適切なことをした誰か」に対して怒りたくなったとき、『当流比較言語学』を思い出す必要があると思います。

 安全な場所から、石を投げて攻撃することほど、情けないことはありません。意見する勇気と考え続ける忍耐力は必要ですが、何度も自分自身の立場と言葉と相手を見つめ直す時間も大切だと、私は思います。

 『当流比較言語学』はネット上で無料で読むことができます。
 青空文庫のリンクを貼っておきますので、ぜひ読んでみてくださいね。


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