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「祝福」は創造的ダブルバインドである

昨日、愚慫の空小屋を行いました。

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本を読んで対話する ~『嫌われる勇気』

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2時間半を超える対話になりました。動画を後ほどアップするつもりですが、いくらなんでも長すぎですね。編集しないと。


さて、本題は、そちらではありません。

「空小屋」の後に起きた"現象”こそが、本題。

昨日、空小屋をして、今日になっておきた現象。

私がメンターだとすると、対話のお相手はメンティーということになります。その、メンティーさんに起きた現象。

それは端的に「気づき」です。
が、そんじょそこいらの「気づき」ではありません。
創造的ダブルバインドの意味を理解するという、気づき。


創造的ダブルバインドというのは、「ダブルバインド」の概念を発見したグレゴリー・ベイトソンが、イルカを観察する中で発見した現象です。

ベイトソンは人間を観察してダブルバインドを発見し、イルカを観察して創造的ダブルバインドを発見した。なんだか皮肉な話です。

ダブルバインドというのは、端的にいうと【呪い】です。感性を呪縛し、自由な創造能力(すなわち愛)に【蓋】をしてしまう悪しき所業のこと。

文明人は多かれすくなかれ、ダブルバインドを受けて成長せざるをえません。その結果が、不寛容な社会であり、地球環境の破壊です。


イルカを観察していたベイトソンが発見したのは、芸を仕込まれているイルカは、人間からダブルバインドを受けているという事実でした。ベイトソンはダブルバインドを見出した当事者ですから、よく見えたのも当然でしょう。

人間はダブルバインドを受けると、精神を病んでいきます。そこからベイトソンは「認知療法」という精神療法を考案していきますが、これはまた別の話。

ダブルバインドを受けていたイルカたちは、しばらくは鬱に近い状態になりますが、そこを抜けると、見違えるように芸を覚え出す。「学習の仕方」を学習することができたわけです。

この現象を見出したベイトソンは、これを「創造的ダブルバインド」と命名しました。

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創造的ダブルバインドは、『精神の生態学』の第三編「ダブルバインド1969」に出てきます。

なお、『精神の生態学』はとんでもない名著です。ですが、残念ながら、現在の日本では絶版中。なんたることか。大きな図書館に行けば読めるでしょうが。

英語版なら、PDFがネット上にあるのですが。

https://monoskop.org/images/b/bf/Bateson_Gregory_Steps_to_an_Ecology_of_Mind.pdf

こういった本は、人類の宝です。「ギフト」として、だれもがいつでも見られるようにしておくべきだと思います。そうでないと、ICT社会の意味がない。


ついつい脱線してしまいました。

では、人間には、創造的ダブルバインドは不可能なのか? そんなことはありません。可能です。

Quoraに、創造的ダブルバインドの手法を紹介してある記事がありますので、紹介します。

先にその人を信頼してしまう」という方法。この方法がなぜ、口外禁止とまず書かれているかというと、ダブルバインドと創造的ダブルバインドは、実はテクニックとしては同じだからです。

創造的ダブルバインドは、容易に【呪い】として使うことができる。だから迂闊に、生兵法してしまうと、大変なことになる。


ダブルバインドが【呪い】であるとするならば、創造的ダブルバインドは、何に相当するのか? 

祝福

大和言葉で言うと、

「ことほぎ」

"寿ぎ”や"言祝ぎ”と表記されます。

「祝福の言葉」が創造的ダブルバインドではなくて、「相手に向って祝福の言葉をかける」という行為です。祝福で相手を縛る。相手に対して、祝福すべき状態になることを、前もってこちらが決定して、伝えること

つまりは、学習の誘発です。学習の仕方を学習するように誘発するのが祝福であり、言祝ぎです。

「神に対して祈りを捧げる」という行為も、祝福の変形にすぎません。自分で自分を祝福するのが「祈り」です。なので、祈りは「感謝」になります。自分で自分を決定し、自分で自分に感謝するのが祈りの正しい形。神は、祈りと感謝を反射する「鏡」です。

(なぜ、日本に神社のご神体に鏡が多いのか?)


もっと先へ進みましょう。

「祝福」をリバースエンジニアリングして、マニュアルにした文章が存在します。『論語』です。冒頭の学而第一の一がそれです。

実は、前回の記事ですでに説明しています。

もういちど、そのまま引用します。

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「感覚して、時間が経って、はたと気がつく」。
これが、"学習”です("勉強”ではありません)。

時間が必要なことを知らない人は、待つことができず、イライラします
(イライラして教育を施すのが"勉強”です)。

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イライラさせてくるような環境(現代社会では、イライラが当たり前になりすぎて、イライラは自覚すらされていません)にも屈せず、イライラしないで「學」をしているあいての「習」を待つ。

この態度は、"学習”より一段レベルが上の〈学習〉です。

つまり。相手に対して「祝福を与える」「言祝ぐ」ということ、「相手の祝福されるべき状態を決定して伝える」ということは、相手に対して「"学習”が起きるまで待つ」という宣言でもあります。というか、宣言でなけば、祝福・寿ぎの意味がありません。中身のない言葉を掛けただけの、「祝福のふり」でしかありません。

〈学習〉を体得した者、すなわち"君子”は、周囲に対して創造的ダブルバインドを仕掛ける。信頼を先出しして、相手が学習し成長していく過程をわくわくしながら待つ。


ダブルバインドと創造的ダブルバインドの違いを感得できるようになると、『嫌われる勇気』が言わんとしていること以上のことが起きます。

アドラーは、過去を捨てて、「いま、ここ」に全力で意識を向けることによって、「縦の関係」を「横の関係」へと置き換えていくと、幸せへの道を歩み始めることができる、と説きます。

「幸せへの道」の道しるべは、他人への貢献感。わくわく感ですね。道しるべが示す行き先は「共同体感覚」です。『論語』で言うなら「仁」です。

そして「共同体感覚」という行き先を見つけるには、経てきた人生経験の半分くらいの時間が必要だともいう。20才で歩み始めたら、10年。40才なら20年です。なので、「若者のほうが先行している」といいます。

その一方で、「たった今からでも幸福になれる」とも書いてある。

矛盾していますが、『嫌われる勇気』では説明はされていません。


「たった今からでも幸福になれる」方法は、ダブルバインドと創造的ダブルバインドの違いを感得することです。一旦、創造的ダブルバインドの何たるかを感じ取ることができると、過去に受けていたダブルバインド、すなわち【呪い】が、オセロゲームで黒が白へと次々とひっくり返っていくようなことが起きます。

【呪い】だったはずのものが、祝福へとひっくり返る。


私のメンティーさんに起きつつあるのが、まさにこれです。まだひっくり返ってはいません。ですが、ひっくり返るところに「白」を置いた。ならば後は、次々とひっくり返っていくのを待つだけです。

その信頼を先出しするために、私は今、この記事を書いています。


この下は有料部分です。

今回は「空(から)」ではなく、若干の中身があります。いずれ書くことになることの予告です。


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