コンビニで人間やってます。
以前、村田 沙耶香の小説『コンビニ人間』を取り上げたことがあります。
『コンビニ人間』は、存在は知っていましたが、読んでみようと思ったのは、
で取り上げられていたから。
“自己愛ゼロ”の人物描写だと指摘されていて、興味をもった。
佐藤優著『嫉妬と自己愛』や『資本主義の極意』あたりは、そのうち、気が向いたら取り上げてみたいと思います。ここでは少しだけ触れておきましょう。
「「負の感情」を制した者だけが生き残れる」
このテーゼは、視点こそ違えど、『資本主義の極意』にも共通するところです。すなわち、これは佐藤優さんのテーゼだろうと見ていい。
「負の感情」とは何か。
【自己嫌悪】です。
では、「負の感情」を制するとは?
「負の感情」を昇華させて自己肯定に至ろうと考えるのが、われ愚慫の「〈しあわせ〉の哲学」ですが、“制する”は、“昇華”ではないでしょう。
だとすれば、〈しあわせ〉の哲学の観点で見るならば、“制する”というのは【隠蔽する】ということになる。
ではでは、「負の感情(自己嫌悪)」を隠蔽するのに最良の方法とは?
“成功”することです。
成功すれば、「負の感情(自己嫌悪)」を隠しおおせて〔幸福〕になることができる。
成功しなければ、どうしようもない。
できなければ、我慢するしかない。
『資本主義の極意』には、末尾の方にそんなようなことが記述されています。
バカなことを言うな。
とぼくは思っています。
脇に逸れました。
本筋に戻りましょう。
『コンビニ人間』の主人公古倉恵子は、自己愛ゼロの人物像だと佐藤優氏はいう。そうだともいえるし、逆に自己愛100%だとも言える。
コンビニにおいて求められるのは「他者の欲望」を満たすことです。来店する客が欲するものを、24時間いつでもどこでも手軽に買い求めることができるというのがコンビニの理想。
ただ、それは、経済行為としての理想。
「他者の欲望」を満たしてやることで利潤という「自己の欲望」を得る。ところが古倉恵子には、「自己の欲望」が皆無になってしまう。「他者の欲望」に殉じる。
それが「コンビニ人間」です。
そんなようなことは、ふつうの人間には不可能です。
コンビニは、店員に「コンビニ人間」たることを求めます。とはいえ、それは努力目標のようなものであって、100%コンビニ人間であることなど不可能なのは百も承知。「他者の欲望」に殉じるなどあり得ないことだと、誰もが(考えもせず)考えている。
『コンビニ人間』が優れているのは、その想定外を描きだしたがためですが、舞台がなぜコンビニなのかは、また興味深いところではあります。コンビニを舞台にすることで、想定外のはずのことが優れた小説たりえるほどのリアリティを獲得できたわけですから。
やっと本題です。
「コンビニ人間」をする。
コンビニで〈人間〉をする。
“コンビニ”と“人間”の間に「で」という助詞がひとつ挟まるだけで、意味がほとんど真反対になる。
コンビニで人間をするということは、どういうことか。
それは、誰のことか。
実は、それは、ぼくのことです。
コンビニで(も)働いています。
コンビニ店員として勤めている。
もちろんアルバイトとしてですが。
勤め始めた時期は、note に何やら投稿誌始めた時期とほぼ同じ。北海道の牧場から山梨に戻っていて、今度は都会的な仕事を始めてみようと考えたのがきっかけです。それまでは、山小屋だとか樵だとか牧場だとか、でしたので。
もう、2年半になります。
そんなに長く働くつもりはなかった、というより、続けることができるとは、自分でも思っていませんでした。
人間を、動物としての「ヒト」として観察するのに、コンビニはなかなか優れた場所です。
働くほどに、だんだん面白くなっていきました。
変なことを言うようですが、報酬が安いというのもぼくにとっては都合が良かった。
ただ、ひとつ都合が悪いことがありました。
コンビニ店員としてSNSなどで発信することは、禁じられるわけではないにせよ、しないように求められること。
だから、辞めてから明かそうと思っていました。
けれど、なかなか辞めることができない。
いい加減辞めたいと思わなくはないのだけど、〈人間〉をやっているとなかなか難しくもなってくる。〈人間〉をやって〈社会〉を作り始めると、労働契約といったもの以外の「なにものか」も生まれてきてしまいます。
『【社会】に適応する』のテキストを書いたときに、よほど明かそうかと思いましたが、そのときは自制した。いえ、忖度した。もしかしたら、迷惑を掛けることになるかもしれないと考えて。会社への迷惑はどうでもいいけれど、そこに依っている人たちに迷惑を掛けることになるのは避けたかった。
でも、もう、限界です。
ぼく自身の「身元」を明かさないと、「〈しあわせ〉の哲学」なんてものを書き記してみても、上っ面にしか響かなかろうと思うから。
コンビニで働いているときも、「〈しあわせ〉の哲学」などいったものを書き散らしているときも、同じ〈人間〉としての平面の上に立っています。
社会に適応するために、仕事のときは、別人格とまではいかないにせよ、切りかえて仕事に臨む、望まざるを得ないと人は多かろうと思います。コンビニ店員のような仕事はそうした【適応】が求められる職種でもあるし、日本人の多くがそのことを感じているからこそ、小説『コンビニ人間』はリアリティを得た。
ぼくがやっている業務は、小説の中の古倉恵子と同じ。
けれど「コンビニ人間」ではない。
〈人間〉です。
日常のありふれた風景の写真を撮って回るのと同じに、コンビニで働く。
そのようなやりかたは、「コンビニ人間」を努力目標として課してくるコンビニ経営陣とは軋轢を生みます。「コンビニ人間」であることが当然のこととして接してくる客とも軋轢が生まれる。
人手不足の折でなければ、とうにクビになっていただろうと思っています。クレームを受けることは度々だし、クレームを受けても反省しないし。
「コンビニ人間」に求められるのは、たとえ客が理不尽であってもクレームを出さないこと。客の理不尽を客に突き返すのは「コンビニ人間」としては禁忌。
でも、〈人間〉としては突き返すべき。
ぼくは突き返しています。
だからクレームを受ける。
経営は迷惑を掛けるなと言ってくるけれど、ぼくは「おまえたちはそれで儲けているんだから、クレームくらいそっちで対処しろ」と突き返す。
面白いものです。
そんなこんなでも〈社会〉はできあがっていく。
「〈社会〉ができあがっていく」ことと「〈しあわせ〉の哲学」を書き散らすことは、ぼくにとっては日常であり、同じ平面上のこと。なので「コンビニでの日常」をスポイルしてしまうと、「〈しあわせ〉の哲学」を書き進めていくことができそうにありません。
ということで、できるだけ「迷惑」をかけないように心がけながら、これからはぼくが体験しつつ眺めている「コンビニでの日常」を書き記していきたいと思います。かつて樵をしていたときにやっていたのと同じように。
さすがに写真は載せられないでしょうが...。
社会人としての適応が求められる【社会】のなかで、敢えて〈人間〉として生きることで見えてくるものがあるがはずです。
感じるままに。