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怨むことには〈勇気〉が必要


本テキストも〈しあわせ〉の哲学です。


今回は、笹塚心琴さんの「カミングアウト」のテキストをお借りするところから。

過去の辛かった体験を綴っておられるテキス

いわゆる「カミングアウト」と言っていいと思います。世間でいわれるカミングアウトとは微妙にズレているかもしれないけれど、そもそもカミングアウトとは、それまで否定的に捉えていた自身の属性を肯定的に捉え直すという「心の持ち替え」というか、「人生の再選択」があってのことなんだと考えます。

「人生の再選択」というのは、

この本において語られている意味と同じ。
「幸せになる勇気」へと連なる心の作用。

まず自身で為した「人生の再選択」を自他共に再確認しようとする試みがカミングアウト。

「再選択」には勇気が要るし、カミングアウトにだって勇気が要る。さらに言うならば、それらの勇気の前には

だって必要。
許せないと表明すること、怨みがあると言明することの前には、嫌われるかもしれないという不安が立ち塞がります。

それらの勇気が〈しあわせ〉を創っていく。



もうひとつ。
引き合いに出させてもらいたいと思って記事を検索してみたのだけど、どれもこれも顔写真がくっついていたり動画だったり...

現在も世間をお騒がせ継続中の日大アメフトの件です。5月22日に加害選手が「顔を出さない謝罪はない」とひとりで(弁護士がついていたけれど)記者会見したということがありました。

これもまた「心持ちを入れ替え」て「再選択」するという意味において「カミングアウト」だったと思います。「嫌われる勇気」を奮い起こしたという意味においても。

ただ、ひとつ、ぼくを含め多くの人が違和感というか過剰感をもったことがある。「アメフトを続けることはとても考えられない」と引退を表明したこと。被害を受けた当の選手ですら、復帰を希望すると声を上げています。

しでかしてしまった当人の反省の気持ちはよくわかるけれども、「自責」を越えて「自罰」になってしまっていると感じないではいられません。


この「過剰」はどこから生まれるのか?

「怨むこと」がまだできずにいるからだと考えます。もしかしたら、当該選手は未だに過剰な自責を抱いているかもしれないと推測します。昨日、彼を追い込んだ前監督とコーチには厳しい処分が下されたという報道が為されたけれど、それでもまだ彼は彼を追い込んだ人たちに同情をしているのかも、と思わないではない。


アドラーの用語を使えば「ライフスタイル」です。

日大アメフト部には異常な支配の構造があったと報じられているけれども、彼は間違いなく、その支配を受け入れることを自身の(アメフト選手としての)「生き方(ライフスタイル)」としていた。そう考えないと彼の異常な行動の説明がつきません。

で、それがライフスタイルだとするならば、そう簡単に別の「再選択」ができるものではい。上の琴塚さんだって、その勇気を掴みあげるのにはそれなりの時間がかかっているでしょうし、それが人間としてはごくごく普通のこと。

アメフト選手として別のライフスタイルを再選択すること。
アメフト選手そのものを辞めてしまうこと。

未だ彼にとっては前者の方が重いのだろうという推測が成り立ちますが、そうだとするとまだ彼の中に「(被)支配」は生き残っていて、だとすると、傍から見れば怨まれて当然の相手にも未だ同情を寄せているかもしれないというさらなる推測も成り立ちえないとは言えない。

そうでないことを、もしそうなら早く脱却できることを強く願うものだけど、だとするならば、「怨んで当然の相手を当然に怨む」ということを、周囲も、なにより彼自身が許容しないといけないということになってしまいます。



“なってしまう”という言い方をするのは、少しばかり世間に忖度しています。

世間一般の常識においては、如何なる理由があるにせよ「怨みを抱えることは悪」だという「(表向きの)常識」がある。

「表向き」というのがクセモノで、心のなかでは悪いことではないと考えてはいても、その考えを表明することが難しい、つまり「抑圧」がかかっていて、その抑圧はもちろん日大の当該選手にだってかかっているでしょう。周囲もかかっているから「同調圧力」が生じて、なおのこと「悪だという常識」が強く作用する。

現に、会見の折、彼が指導陣に恨み言のひとつも述べなかったことは賞賛されているわけです。ぼくからすれば、賞賛どころか心配でしたし、その心配は未だ継続中なので、こうしたテキストを書いていたりします。



【支配】は秩序を維持する責を負う者にとって都合のいい安易な手段です。それは日大アメフト部の例を見てみるとよくわかるりますが、秩序が必要とされ存在するのは何も日大だけの話ではない。日大アメフト部だって小なりとはいえ小さな【社会】であり、大きな意味で【社会】と同じ構造を持っている。「怨みを抱えることが悪」だとされるのは、秩序にとって都合が悪からという側面が強い。

そうした秩序を「ライフスタイル」として受け入れているとすると、「怨みを抱えることは悪ではない」と「再選択」をするには、また〈勇気〉が必要だということになっていく。

そうした〈勇気〉を持てないから、アメフトそのものを辞めようと決断する....。

...だとすれば残念なことですが、残念は彼一人の問題ではなくて、ぼくたちの社会の問題でもあると捉えたいところです。



長くなりますが、今回はもう一段、哲学を進めていきます。


残念なことになってしまうのは、【怨み】というものの性質に依ります。

【怨み】というより【自己嫌悪】というべきでしょう。

人間が【怨み】を抑制すること、つまりは【自己嫌悪】を隠蔽することを、完璧にできればいいのですが、そうはいかないのが人間という生き物でもある。

心の内に溜まっている【澱】は、無意識のうちに漏れ出していく。それも弱いところへ、です。

そこへ漏らしても、反撃を喰らわないところへ。誰からも非難を受けないところへ。

『きみはいい子』は、ひとり一人が歴史の【シワヨセ】をどれほど受けているかどうかを測るリトマス試験紙のようなものだと言えるかもしれません。

と、ここでぼくは書いたのですが、ここで言った【シワヨセ】を当テキストの文脈で言い替えてみると、【自己嫌悪】の【澱】を漏らされた、引き受けさせられたということです。


日大の前監督やコーチは【澱】を選手へ引き受けさせた。そうしても、これまでは反撃を喰らうことがなかったし、批判も浴びなかった。

琴塚さんを陰湿ないじめを施したモテ男くんも、そう。そうしても反撃を喰らわない。批判も浴びない。

親に虐待される子どもも、そう。子から反撃を喰らうことはない。非難に遭うこともかつてはなかった。


これらは陰湿で卑怯なこと。
人間の弱いところです。
ここに焦点を当てて観てしまえば、人間はどうしようもない性悪な生き物だということになってしまう。

その同じ「弱さ」は、【澱】を浴びせられるといつまで経っても〔からだ〕に記憶が残ってしまうという形で作用します。アタマが忘れても、というより、アタマが未発達で記憶が無くても、〔からだ〕は覚えている。

〔からだ〕にそのような記憶があれば、反応が出る。
「リトマス試験紙」というのは、そうした意味です。
ザワザワとして苛立つような不穏が気持ちが湧き上がってくる。


人間が、実は弱い生き物なのだということは、どうしようもないことです。そのようにしてこの生物世界に生まれてくるのだから。

が、同時に、人間はその弱さを補い合うという優しさも持って生まれてくる。その優しさに依ることを生存戦略として生き延びてきたのが人間でもある。

人間は弱くて優しい
弱さが勝つと卑怯になるし優しさが勝つと強くなることができる。人間をして弱さを勝たしめ優しさを抑圧してしまうのが【自己嫌悪】というライフスタイルです。


「ライフスタイル」を変えるには〈勇気〉が必要です。

が、【澱】が溜まった【自己嫌悪】の「ライフスタイル」を変えると、どうしても怨みは出る。出てもいい、というより、仕方がない。出さなければ自罰といったような形で【自己嫌悪】は継続してしまうし、弱いところへ知らずのうちに漏れ出してしまいます。

カギは〈勇気〉です。
〈勇気〉に寄り添われて怨みを吐き出すことは、〈しあわせ〉に向かうには必要なことです。
逆に〈勇気〉を伴わない【怨み】は恐ろしい。それは弱いところへ漏れ出しているということですから。


〈勇気〉が伴う怨みは、その元へと突き返されるものでもある。その突き返しは、人間としての責任ある行為です。

〈勇気〉とは無関係に漏れ出す怨みは、人間としては甚だ無責任な【八つ当たり】、代償行為、「置き換え」です。それは自身を守るための「防衛機制」ではあるのですが、無責任であることに変わりはない。


自分自身に人間としての責任を持つ。
自分自身を肯定して根拠のない自信を持つ。

このふたつは、実は同じことなのです。

感じるままに。