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タバコ1箱より安かった軍用地料

沖縄復帰当時、軍用地料は、一気に6倍引き上げられました。その後、軍用地料は、地価が下げっても、年々、上昇し続けています。沖縄で一番高いのは、那覇港湾施設の6,566.78円/㎡(宅地)です。

これでも、本土に比べ、沖縄の軍用地料は、まだまだ低いです。同じ地価公示価格の神奈川の土地と比べても、半値以下と言われています。

しかし、米軍施政下においては、軍用地料は、かなり低くく、たばこ箱よりも安かったそうです。それぐらい、軍用地主は、不遇な生活を送っていたことが分かります。


土地連30年のあゆみによると、1952年5月、米軍政府へ賃貸借契約を提示し、軍用地料を支払うことを決めました。

その賃貸借契約の内容は、「賃貸人(軍用地主)は琉球政府と賃貸借契約を結ぶ(第1条)、琉球政府は賃借物をアメリカ合衆国に転貸することになるが(第2条)、契約期間は1950年7月1日から20年間とし(第3条)、転借人は賃借に対する一切の使用権を取得する(第5条)。一方、賃貸人は賃借物に賦課されるすべての租税その他の公課を負担する(第6条)」というものでありました。

提示された具体的な条件は、
対象面積 5369万9036坪(1万7721ha)

支払対象期間 1950年7月1日から1952年4月27日(サンフランシスコ講和発行日までの1年10か月)

地料総額 1億2566万9615B円(B円とは、米軍発行の円表示B型軍票。1948年7月から58年9月にドル通貨制へ移行するまで、沖縄で唯一の法定通貨として使用。1ドル=120B円。)

坪当り単価 1.08B円(平均額)ただし山林、原野、雑種地、溜池、池沼、公用地は面積のいかんにかかわらず1筆10円。

契約期間 20年

というもので、低すぎる土地代と長期の契約期間に軍用地主たちは、失望し、一般住民も強いショックを受けたそうです。

米軍の算定した土地代が、いかに低すぎるのかは、当時の物価と比較しても分かります。

タバコ1箱10円、食塩1斤(500g)7円、白米1斤44.53円でした。この数字は示しているように、土地1坪の地代は、タバコ1箱よりも安かったのでした。

軍用地主たちは、米軍の示した契約条件を断固拒否し、米軍へ訴えました。しかし、米軍は、「軍用地の評価は、その土地が米軍によって使用し始めた当時の時価とし、それ以後の土地賃借料の増減はしないと」という方針を示しました。

その方針に対し、軍用地主たちは、「地代は、民間における取引地代とも間に差が著しく大きく、不当に低廉であるため、軍用地主の生活を脅かし、ひいては、沖縄県の社会、経済問題として大きな影響を及ぼすものとし、契約を断固拒否を米軍へ申し入れました。

米軍は、軍用地主たちの申し入れを聞き入れませんでしたが、軍用地主たちの反対運動に、米軍は、譲歩せざるを得ませんでした。

その譲歩策として、米軍は、それまでの契約条件だった講和後の20年間賃貸契約を撤回し、講和前の1950年7月1日から1952年4月27日までの1年10か月間の限定契約による地代の支払いを言明しました。

このように長期にわたった地代問題は、一応、支払いの段階に至りましたが、米軍の不当に低すぎる地代は変わることはありませんでした。

米軍の地代の支払いそのものも送れることが多かったので、その後、軍用地主たちは、地代の増額運動や早期支払いの要望は続きました。さらに、布令第109号による土地の強制接収問題が発生していったのです。

当時の地主は、スズメの涙ほどの地代しかもらえず、しかも、地主は、割り当てられた土地に、軍用地料の数倍もする地代を、その土地の地主へ払わなければいけなかったそうです。

当時は、今より生活が苦しかった中で、米軍への抗議活動は、地主の生活を取り戻すために、必死だったのでしょう。

先人の苦労があったからこそ、我々は、今、こうやって軍用地料を手にすることができるのです。

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