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戦国武将に学ぶ!No.6~島津義弘~



”軍師” こと、株式会社GUNSHIコーポレーションの社本です。


このnoteでは経営者の軍師としての目線で、
これからの時代を生き抜く戦略を発信しています。


私は日ごろより周りの方々から
”軍師” というニックネームで、
お呼びいただいています!(笑)

社名であることもその理由ですが、
私は自他共に認める歴史好き!
とくに戦国時代が好きです。


今回は、私が好きで見習っている、
学んでいる武将や軍師を紹介するシリーズ。


歴史には諸説ありますが、
中でも私が好きなエピソードや、
『ビジネスや人生に役立つのでは?』
という目線でご紹介しています!


最後まで楽しんでいただけたら幸いです。



■ ”鬼”と恐れられた武将…



今回は、戦国ナンバーワンと言っても
過言ではないくらい、強い武将
を選びました。


薩摩の武将、
島津義弘(しまづよしひろ)です!!


義弘は豊臣秀吉に仕えていた時、
朝鮮出兵を要請され戦いました。
義弘の軍、約7千に対し、
敵軍は数万(資料によっては20万…)。


この圧倒的に不利に思える戦況でも、
敵を倒してしまう強い武将で、
ついた異名が『鬼島津』!(笑)
他の武将たちからも恐れられる、
非常に強い武将でした。


『鬼島津』という異名がつくほど強かった、
ということももちろん魅力的なのですが、
何が素晴らしいかというと!


とにかく家臣を大事にしたところです!
こんなエピソードがあります。


家臣に子が生まれると、
その子を必ず自邸に招き子を抱き上げ、
『子は宝なり!』と皆の前で子を披露し、
祝福したといいます。


日ごろから家臣やその家族まで大事にした
義弘に、家臣たちがついていかないわけがない。


これが如実に表れたのが、
あの関ヶ原の戦いでした。


島津軍は西軍について参戦したのですが、
兵士数約1500と島津軍はもともと少なく、
陣を張ったまま動かず、
じっと戦況を見ていました。


西軍の敗戦が濃厚になると、
そこで義弘も討ち死にを覚悟しました。
ですが家臣たちに、
『生きてくれ』
『薩摩から立て直してくれ』

と諫められ、敗走を試みます。


想像していただきたいのですが、
敵と対峙しているとき、
どこへ向かって逃げますか?


後ろだと思いませんか?


なんと義弘は、敵方である東軍、
徳川家康の本陣に向かって逃げるのです!

(これは “島津の退き口(のきぐち)”
というとても有名な話で、
「敵中突破した」という説や、
「敵陣を横切った」という説があります。)


島津家は薩摩(鹿児島県)なので、
関ケ原(岐阜県)から薩摩まで、
なんと直線距離にして約700kmを
逃げ延びました…!!


東軍の猛追を受けながらも
この距離を逃げ遂せたのは、
実は壮絶な戦法があったからでした。


■命を懸けて主君を古郷へ逃がした家臣たち


家臣たちがとった壮絶な戦法。


それは、一番後ろの部隊が足を止め、
攻撃し、捨石となって時間を稼ぐ
“捨て奸(すてがまり)” という戦法。


家臣たちは『自分たちは死んでもいい』
と身を捧げ、できるだけ時間を稼いで
義弘を守ったのです。


この戦法で義弘の甥や家老は、
『自分が義弘だ!』と名乗り、
身代わりになって命を落としました。


兵のほとんどを失って、
最後に残ったのは数十名だったといわれ、
逃げた距離もさることながら、
よほどの猛追だったのだろうと思います。

家臣と義弘との間に信頼関係がなければ、
あるいは義弘が愛されていなければ、
逃げられなかったのは一目瞭然のことです。

東軍にとっては敵軍の島津家でしたが、
徳川家康はなんと、義弘を許して本領安堵とし、
領地の没収などはしませんでした。

この、家康が義弘を許したという背景にも
諸説あるのですが、義弘の生き様を見た家康は、
恐れを抱いたのではないかと私は思うのです。


『負けたのにこちらに向かってくる…!』
こんなことは、通常ではありえないことです。
そこでもしかしたら、『殺される!』
という恐怖を感じたのかもしれません。
そうでなければ本領安堵…
勝ったのに土地も没収しないなんて、
考えられないでしょう。

『鬼島津』と呼ばれるほど強く、
家臣を愛し、家臣に愛された武将…


島津義弘…


本当に大好きな武将で、今一番…


大河ドラマにしてほしい!!(笑)






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