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戦国武将に学ぶ!No.36~織田信雄~


”軍師” こと、株式会社GUNSHIコーポレーションの社本です。


このnoteでは経営者の軍師としての目線で、
これからの時代を生き抜く戦略を発信しています。


私は日ごろより周りの方々から
”軍師” というニックネームで、
お呼びいただいています!(笑)

社名であることもその理由ですが、
私は自他共に認める歴史好き!
とくに戦国時代が好きです。


今回は、私が好きで見習っている、
学んでいる武将や軍師を紹介するシリーズ。


ぜひ最後まで楽しんでいただけたら幸いです。



■カリスマの次男は出来損ない?


今日は織田信長の次男である、
織田信雄のぶかつをピックアップ!


「信長が最も愛した」とされる女性は
正室、側室含め複数人いるのですが、
側室であった生駒吉乃きつのもその一人で、
吉乃との間に生まれたのが長男である信忠、
そして今回の主人公である信雄です。


本来であれば長男である信忠が
織田家を継いでいくはずだったのですが、
本能寺の変で父親である信長と共に
亡くなってしまいます。


これにより次男である信雄が
織田家を支えていくことになったのですが…


歴史上では、
「信雄は織田家を支えられなかった者」
としてよく描かれます。
つまり、映画や小説などで
信雄は出来損ないのように描かれ、
あまり良い印象を与えません。


なぜなら、細かいことは省きますが、
豊臣政権、徳川政権の両方において
二度の改易(領地没収)を受け、
さらには流罪にもなっているからです。


確かにこれらの事実と、
父親である信長がカリスマ的存在として
君臨していたことを考えると、
信雄のほうが劣っているように
語られることのほうが多いわけです。


ここからは私の主観ですが、
やはり歴史は勝者が作るという
見方もありますので、
「織田家衰退」を描くために
敢えて信雄は落第者のように
描かれているようにも思います。



■大名に返り咲く


歴史を「点」で見ると、
改易や流罪になっていることから
確かに信雄は力のない人物のように
映ってしまいますが、
私は「本当にそうかな?」と思います。


関ケ原の戦いで
「西軍の味方をした」と見なされ、
徳川家から改易になった信雄は、
この後うまく豊臣家に取り入り、
手を結びます。


その後、
豊臣家と徳川家が争った大坂の陣で
信雄は土壇場で徳川家の味方につき、
徳川家に貢献します。
その成果を認められ、
最終的に5万石の大名として
返り咲いたのです。


織田信長の息子は他にも
たくさんいたのですが、
この時の信雄の判断、行動が、
織田家が明治維新まで大名として
存続するきっかけとなったのでした。
さらには皇室との繋がりまで
信雄はつくっていたのです。


これらを鑑みると、
信雄がただの無能な人物だったとは
私は思えず、やはり歴史は点だけで
見るのではなく、多角的に見るほうが
おもしろいなと思います。


二度も改易になる、などは
戦国時代ではあり得ないような
悲劇なわけですが、
それでも織田家は存続したのです。
現代の経営で考えてみると、
一度や二度失敗しても、
その後の立ち居振る舞い次第で
結果はついてくるのだと
学ぶことができます。


ドラマなどを見ていると、
「ああ、信雄はやはり
こういう描かれ方をするんだ…」
と少し残念に思うのですが、
いろいろ調べていくと、
秀吉や家康に対等に物を言えたのは
信雄だけだったのではないか?
と思えてきて、私は個人的には信雄を
一人の武将としてとても尊敬しています。


また信雄のように、
歴史上ではあまり良く描かれない武将を
調べていくと、実は世間のイメージとは
異なるように見えてくることがあって、
非常におもしろいと思います。


信雄目線のドラマ…
これがあったらきっと
世間の見方が変わるはず!


誰かつくってくれないかなぁ…(笑)





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