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崖から落ちそうになって手を延ばして、何の石にも届かず落ちる

 何が楽しいのか。深夜に起きて活動して何が楽しいのか。人が活動していないであろう時間に、もぞもぞと動いている。地面を這っている。これが活動なのか!と思う。一番生きている時間である。一番生きていることを感じられる時間である。わたし以外はきっと死んでいる。

 最近わたしは大学を休学している。これはとても悲しいことだと思う。そもそもわたしはひとつめの大学を辞めた時点で、休むとか働いてみるとか、いくつもの選択肢を手にしたはずなのである。それでもまた大学を望んだ。どこでもいいから勉強できる場所を求めた。大学生であるということは、いくらでも勉強していいという権利を得ることのようにも感じる。だから、未来のことなんて考えなくていい。今ある自分と、自分の探求のためにすべてを注いでいいという契約が、大学生であるということだ。

 実は大学の講義を受けることは楽しい。本を読むこととやはり違う。たとえば一回という講義、つまり区切られた時間の中で学ぶものがあり、終わればそれに対する返答を求められる。レポートなり感想なり、なんなり。本を読んでいると、区切りが分かりづらいし、本を受けて自ら発するものなんて、読後の感想か、読書中のつぶやきだけである(すくなくとも、わたしはそうなってしまう)。発するものと受けるもののバランスがとれている、それが大学の講義のいいところだと思う。

 しかしわたしは、大学生でいることを求められていない。休学している今、生きることを求められている。大学生でいるよりおそらく難しいことと感じる。わたしはここ三年間くらい、好きなものを見つけて、認知して、好きなものを使って自分を積み上げて、そしてそれらが生きるための目的になりはしないかと思いながら生きてきた。しかし、好きなもの、やりたいことは、実は全く生きるためのとっかかりにならない。死にたい、と思って世界に手を延ばしたとき、とっかかりがないのでそのまま落ちていってしまう。どうしたものだろうかと思う。