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映画「偶然と想像」 脱ぐことのしたたかさ

 パンフレットを読む前に、まずは自分の感じたことを書いておこうと思う。

 この三つのお話は、すべて「脱ぐ」物語だと感じた。そう思ったのは三話を見ているときで、一話と二話みたいに脱がれている……と思った。

1話 : 魔法

 脱いだのは芽衣子。はじめから着ていたかどうかは定かではないけれど、タクシーの中でつぐみの話を聞くうちに、着ていたかもしれない衣が浮かび上がってくる。過去が目の前に現れたときに、きれいにすっ、と通り抜けることのできない過去がある。そんな過去が輪郭を見せる。

 傷ついていたこころを隠してしまっていたかもしれなかった。お互いに傷ついていたこころを示すことがないまま、別れてしまって、そのままわだかまりを羽織って過ごしていたのかもしれない。

 芽衣子の着ていたものを、脱がせたのは誰だったんだろう。他の二話と違って、そこがはっきりしない。もしかしたら自分の力で脱ぎきったのかもしれない、とも思う。

 脱いだ事実は、最後のシーンに表れている。つぐみのことでも、カズのことでも、過去のことでもなく、目の前の景色に対して感情を抱き、それを写真に収める。芽衣子は今を、今の自分を見ていた。過去にも何にも縛られていなかったその姿が、とてもすがすがしく感じた。いいなあと思った。芽衣子のすがすがしさに、観ているわたしも救われる。さわやかな気持ちになれる。

2話 : 扉は開けたままで

 脱いだのは奈緒。奈緒は自分を自覚しつつも、自分を出す場所と衣を羽織る場所とを棲み分けていた。それは、完全に脱いでいるとは言えないし、どちらかといえば着こんでいるのだろう、と思う。それが、瀬川に諭されたことで、脱いでもいいのだということを教わる。着ているものは脱いでもいいということ。わたし自身もたくさん着ている人なので、瀬川の言葉に泣きそうになった。奈緒は、研究室で、心にかぶせていたものを脱ぐことを覚えたんじゃないかと思う。実際に自分をさらけ出すかどうかはともかくとして。

 けれども、もう一度着てしまう奈緒。前よりも深く着こんでしまった。バスに乗っているシーンでわたしはそう感じる。
 今度脱がせてくれたのは、佐々木だった。佐々木との再会が脱がせてくれた。性に奔放な自分が自分だったということを再び思い出す。わたしは最後の奈緒の表情がとても好きだと思った。誰に反対されようが、社会から外れていようが、自分であることの解放感はこんなにも気持ちいいのか、という気持ちよさ。わたしにまで伝染しそうだった。

3話 : もう一度

 全三話の中でこのお話が一番好きだと思った。脱いでいくのはあやだと思った。あやをはじめに見たときから、いかにも落ち着いていていい人そうなお母さん、といった空気感があると感じた。あやは、その枠内に収まっていることに対して抗おうとはしていないし、抗うための理由もないみたいだったけど、なんにでもなれたかもしれないと過去を思い出している。

 夏子と話すうちに、だんだんとおとなしそうなお母さんではなくなっていくあやが好きだった。また、夏子は、相手の心に土足で踏み込んでいく力のある人だと感じた。
 最近、美術手帖2020年2月号「ケアの思想とアート」を読んでいて、気になったものがある。「ケアがひらく体と表現」という題のページで、砂連尾理さん、伊藤亜紗さん、青木彬さんが対談するというものである。気になったのはこの言葉である。

 私、「砂連尾さんに救われた」って人にいっぱい会ったことがあるんですけど、それは結果論であって、砂連尾さんはたぶん人を救おうとしてやっていないと思うんですね。相手にやさしく手をさしのべるケアというよりは、その手を握ったら最後、死角に入りこまれている、というようなケアです。

 三話のふたりは、お互い手を握り合って、お互いの死角に入り込んでいる。一方が死角に入り込むんじゃなくて、お互いに潜りこんでいるから、このお話が好きなのかもしれない。どちらも、前にいた自分ではなくなっている。どちらも前にいた自分より軽くなっているように見える。

 「ケアがひらく体と表現」にはこんなことも書かれている。

 普通は介助者がお年寄りに話を合わせるけど、砂連尾さんは自らずらすことで、お年寄り自身のケアする力を引き出している。救おうとしているんじゃなく、自分が変身することで、相手が表現しようと思っていなかった部分を引き出してしまうんですね。

 変身、とはまさに三話である。

 社会内のフレーミングより、そこで制御されないものにその人らしさを感じるし、そこにふれることにある種の快楽を感じるというか。そこはデリケートな領域なのでむやみに立ち入ってはいけないと思いつつ、つい無邪気に「見えた見えた、やっとあなたと出会えた」って気持ちになっちゃうんです。

 夏子とあやはお互い他人同士だったけど、やっと出会えた、という偶然を持っている。とても素敵な話だと感じた。

まとめ

 脱ぐときに他人がきっかけにはなるものの、結局脱ぐ行為は自分でしか成しえない。脱ぐことは勇気とか痛みを伴う。それを自ら行った、というのがすごいことである。

 わたしも脱ぎたい。脱ぎたいものがたくさんある。でも痛みが怖いという気持ちもある。どうしたら脱げるのかもわからない。焦らずに生きていこうと思う。


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