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岡倉天心「茶の本」をもって常磐線の近代をゆく


 グローバルな港町生まれの天心
 岡倉天心の「茶の本」は、1906年にニューヨークの出版社から英文で発行された。内容は米国で行った日本文化紹介の講演を「茶道」を軸にまとめたものであるが、その年は日露戦争で「白人の大国」ロシアが「黄色人種の小国」日本に敗れたころでもあった。そのためそれ以前に出された新渡戸稲造の「武士道」の他にも、刀ではなく文を、茶を愛する平和な日本の心を詩的で格調高い英語で紹介した作品として、特に欧米の知識層の間で読まれていった。その背景にあるのは、彼のグローバルな生い立ちにある。
 1863年生まれの彼が格調高い英文が書けたのは、当時すでに開港されていた横浜の貿易商の子として、日本語の読み書きを学ぶ前に英語教育を受けていたことによる。晩年には英文で戯曲まで書けるほどのネイティブ的文学感覚があったのも、そのおかげだろう。今でいえば横浜で生まれ育って幼稚園からインターナショナルスクールに通ったようなものだろう。
 そして十一歳にして開学したばかりの東京外国語学校、二年後には後に東京帝大となる東京開成学校に入学した。十八歳で卒業して文部省に勤務したという経歴からして、エリート街道まっしぐらであることが分かる。そして職場では米国のお雇い外国人フェノロサと日本美術調査の仕事に従事するが、その時にネイティブ感覚の英語を駆使して通訳をこなした。フェノロサの文化財保護という仕事は天心なくしては成功しえなかったろう。

上野の東京美術学校時代
 その後、1889年に帝国博物館理事に任命され、翌年東京美術学校の事実上の初代校長となった。帝国博物館は後に東京国立博物館に、東京美術学校は後に東京藝術大学となるわけだが、それらはみな上野の山にあった。私はそこからほど近い西日暮里に住んでいたため、しばしば散歩がてらに訪れた。
 特に藝大には天心の足跡があちこちに残る。正面玄関の左に、城の櫓門のような白い漆喰の壁に黒瓦が特徴的な建物が見えるが、天心の後に学長を三十年以上にわたって務めた正木直彦を記念して1935年に建てられたこの櫓門は、年輪の美しい木造の柱がエンタシスをなしており、天心の若かりし日にフェノロサとともに古美術調査に赴いた法隆寺回廊のエンタシスをほうふつとさせる。
 正門すぐの藝術情報センター内には、薬師寺東塔の水煙のレプリカが飾られていた。これはフェノロサと岡倉天心が奈良の文化財を調査した時に、フェノロサが廃墟寸前となったこの寺の至宝をみて、「凍れる音楽(frozen music)」と感嘆したことによるものだ。確かに天平時代に天を舞っていた飛天を瞬間冷凍したかのような表現は言いえて妙である。さらにキャンパスの奥まったところには天心の銅像が若きアーティストたちを見守っている。

谷中の日本美術院時代
 もともと東京美術学校は日本の美術や工芸を保護し、発展させるための養成機関として開かれた。しかしその後、「脱亜入欧」を目指して邁進しようとする政府は同校を洋画中心にしようとしたため、日本美術の再興を目指す天心は校長職を辞職した。
 そして藝大から徒歩10分ほどの谷中に日本美術院という研究所兼アトリエを開くと、彼を慕う横山大観、菱田春草、下村観山らもその後を追った。現在、その跡は「岡倉天心記念公園」という児童公園になっており、小さな六角堂の中には金色に輝く天心の胸像がある。「都落ち」というには「都」のうちだが、グローバルな西洋美術に対して自らのアイデンティティを示さんとする日本画家たちが、静かな気迫を胸に筆を振るった「梁山泊」となったことは言うまでもない。
 この「梁山泊」は後に茨城県と福島県の県境、現北茨城市五浦に移る。そこで今回の「茶の本」の旅は上野から常磐線を下り、時には寄り道しながら北茨城市五浦を目指そうと思う。
 
旧古河庭園―コンドル設計の邸宅と庭
 常磐線で拙宅兼通訳案内士試験道場に最も近い三河島駅から自転車で十五分。北区の小高い丘の上に、旧古河庭園がある。戦前の大財閥だった古河家の庭園は、三段構成となっており、門をくぐるとコンドル設計の瀟洒な洋館がそびえる。洋館から真下に階段を下ると、一段下がったところに左右対称の迷路のようなバラ園が現れる。そこは春と秋にはバラが美しく、歩くと甘いにおいが鼻腔に揺れる。
 そこからさらに下に下りると、木々が生い茂って影が差してくる。この三段構えのつくりは、典型的なイタリア風のテラス式庭園だ。下まで下りきると、真っ黒な溶岩である。そこまで下りて気づかされるのが、下の世界は脱亜入欧という「浮ついた」世界ではなく、日本の地底から吹き飛んできたマグマで再現した「黄泉の国」だということだ。

下に広がる「黄泉の国」
 作庭したのは明治の京都における庭園の革命児、小川治兵衛(通称「植治」)である。植治は庭園にはめったに使わない溶岩で、ここが自らのアイデンティティも忘れ、西洋の模倣に走る同時代人を風刺したかったのだろうか。さらに彼は岩で日本の渓谷を思わせる風景を再現している。
 それが終わると大きな池にでる。一枚岩を二つに割って左右互い違いにかけた石橋を渡り、対岸の飛び石を一歩一歩足元に感じていくと、右手に写実的な枯山水が見える。左右に2mほどの石が門のように奥まっており、握りこぶし大の丸い岩がこちらに向かって並んでいる。庭を楽しむコツの一つとして、目線を高くしたり低くしたりすると、それまでとは異なる風景に見えるというものがあるが、ここの場合しゃがんで視線を低くして見ると、あたかも桂林を舟で下っているかのような錯覚さえする。背後から水の流れる音が聞こえる。しかし枯山水に水が流れるわけではない。池の向こうに目をやると、高低差を利用した滝が落ちているようだが、その音がここまで響き、「桂林」の水の流れを演出しているのだろう。
 滝の全貌が見たくて吸い寄せられるように音をたどって池のほとりを歩いていくが、その前に下から斜め上に突き出た大人の身の丈ほどの黒い巨石がずらりと連なり、圧迫感を感じる。十数メートルの道沿いの巨石が途絶えるところに、上りの石段があったので、これも「地上」から「黄泉の国」に下りて来た時の結界であることに気づく。

「庭中庭」の露地
 「地上」に向かって進むと、右手に木の門が見え、前は竹垣になっている。「関係者以外立入禁止」を意味するこの竹垣だが、かんぬきを外して右手の茶室に吸い込まれるように入っていく。茶室に至るまでの庭を鄙びた里山風にしつらえたものを、「茶庭」もしくは「露地」というが、この空間は庭の中にまた庭を造った、いわば「劇中劇」ならぬ「庭中庭」である。茶室前にはわびた蹲(つくばい)や織部灯籠があって心が和む。ここに至るまでに上述したような「地底旅行」が楽しめるのがこの庭の魅力だ。
 この茶室は私が月に一度、裏千家のお茶を習いに来る場所であるが、茶室に上がる前は、白足袋に履き替える。茶室は聖域だからだ。そして水屋から茶室に入る前に、正座をして膝前に扇子を置き、「ご機嫌よろしうございます。」と一礼する。八畳ほどの部屋は、土壁に竹の欄間、障子に襖など、すべてが天然素材である。

床の間の書と花
 その日は正面の床の間に「閑坐聴松風」と、草書で書かれた掛け軸とその季節の茶花が活けられており、拝見してから着座する。茶室の花に現代アートのような派手なものはない。自分が脇役であることを分かっているのか、自己主張しないながらも、きちんと季節感を演出しているのがほほえましい。
 天心曰く「茶は姿を変えた老荘」。「無為自然」を重んじるタオイズムを部屋として具現化したら、このようになるのかもしれない。何度稽古に来ても作法が身につかない私が、それでもここに来させてもらうのは、高校時代から身に染み付いたタオイズムへの憧れと居心地の良さからなのかもしれない。
 十一月の炉開きや一月の初釜には濃茶を回し飲みしたりもするが、普段の稽古はもっぱら薄茶である。とはいえコロナ禍にはみなマスクをし、回し飲みする濃茶もできず、自分が使用した茶碗はそのつど水屋にもっていって洗ったりして時勢にあった茶道のありかたを暗中模索していたのを昨日のことのように思い出す。

お点前
 最後に来たのに場所の都合上、上座に座ることになったが、じきにマツタケの形をした乾菓子を出され、懐紙に置いた。じきに前の方がお茶をたててくださったので取りに行き、「お点前頂戴いたします。」のあいさつで紅葉の柄の着いた茶碗の表を相手に向けるように数回回し、三口半ほどでいただいた。先ほどの乾菓子の甘さと薄茶の苦さが口の中で融けあう。茶碗を拝見し、「結構なお味でした。」と言って茶碗を返す。
 次は私のお点前の番だ。足がしびれるが、立ち上がり、釜の横に座る。緊張が走る。コロナのために色々と略式になっていることもあり、勝手がよく分からない。結局先生に言われるままに茶巾で茶碗をふき、袱紗(ふくさ)で茶杓を清めると、なつめの茶をすくって茶碗に入れる。釜の湯がぐらぐらと沸く音が聞こえる。その湯を柄杓ですくって茶碗に入れる。茶筅で点てるが、湯と薄茶のバランスがうまくいかなかったからか、または体に力が入りすぎていたからか、ふっくり泡立たない。これ以上やってもうまくいかないだろうと観念して、残念な思いで茶碗を畳のへりに置く。ちなみにふっくり泡立つのは見かけはよいがそれだけが茶の湯ではないと別の先生から言われた時には救われる気がした。
 茶道では流派を問わず「一期一会」、つまり茶を点てて出すこの今の瞬間が、目の前のお客とは最後の機会だと思って接するようにとはいうが、私の文字通り「粗茶」を飲んでくださる「犠牲者?」の方に、万一今後会うことができなかったとしたら、最後に点てた茶がこのようなものだったと思うといつも後悔の気持ちでいっぱいだ。

「喫茶去(きっさこ)」
 なぜか禅の公案を思い出した。唐の趙州禅師は雲水に「ここに来たことがあるか?」と聞いて、ある雲水が「初めてです」と答えると、「まあ、お茶でも(喫茶去)」と言って茶を出した。別の雲水にも尋ねたところ、「はい」と答えた。禅師は同じく「まあ、お茶でも」と答えた。それを聞いた人が「なんで初めて来た人にも、来たことがある人にも同じようにお茶を勧めるのですか?」と問うと、「まあ、あんたもお茶でも。」と答えた。
 趙州禅師は、だれに何と言われようとマイペースで茶を出す。私は誰が相手でもぎこちなく下手な茶しかだせない。しかしお茶のもつ禅的な一面には、厳しさの中に得も言われぬ居心地の良さを感じられるので不思議だ。
 天心は「茶の本」のなかで、“beautiful foolish of things”という言葉を使っている。これは「大愚」を大切にする禅から来たものであろう。茶の湯というのはただの美しさではなく「愚かしい美しさ」なのだと実感した。たかが茶ではないか。こんなに畏まってびくびくしながら点てなくても、さっさと点ててだせばいいのだ。そんなことは百も承知だが、茶は天心が“teaism”と名付けた通りの「道」、でなければ生き方の指針と考えられてきたため、固く考えてしまうようだ。

茶室はインスタレーション・アートか?「道」か?
 天心はどうやら茶道をインスタレーションのような空間芸術か、あるいは主客によって成り立つ参加型アートとみている節がある。そして私も書画や建築、陶磁器や着物などの工芸品、そして庭園などを効果的に配した総合芸術だと思わないでもない。しかし何か違う。茶を点てる人は、自らをアーティストだと思っているとしたら、軽いような気がする。「道」というものを歩いている人に思えるからだ。
 書を「書法」とよぶ中国人は、テクニック第一なのだろうか。また「書芸」とよぶ韓国人は書をアートとしてカテゴライズしているのだろうか。それらに比べると日本では「書道」すなわち書の道を歩くという哲学に思える。
 私のお茶を飲んでくださった方が、最後に点てると、別の方が茶杓となつめの拝見を所望した。道具の拝見には、それぞれの様式を紹介するだけでなく、茶杓に対して「御銘は?」と問うことになっている。いわば茶杓にその時節にあう「ニックネーム」をつけるのだが、その時は旧暦九月末だったが暖かかったので「小春日和です」と答えられた。掛け軸、季節の花から始まって、茶碗や着物の柄、さらには茶杓のニックネームまで、季節感が一貫している。

すきや―タオイズムの空間
 稽古を兼ねた炉開きは終わった。みなで掃き掃除をし、釜も掛け軸もお花も掃除をすると茶室はなにもなくなった。そういえば天心は「すきや」と呼ばれる茶室に「数寄屋(非対称の部屋)」、「好き家(趣味の部屋)」「空き家(空っぽの部屋)」の三種類の表記があるとするが、この部屋も使用後は全くの「空き家」になる。なんとなればここで食事をすることも、寝ることも、仕事をすることもできる。部屋の用途が固定されていないので、融通無碍なところがタオイズム的に思える。
 先生にお辞儀をし、ふたたび露地を通って外に出る。石段をあがるとそこは再び「外界」の東京である。洋館の坂を下ってから、かなり長い間、桃源郷をさまよってきたかのような思いである。
 「茶の本」の旅のはじめとしてお茶をいただき、点てると、最寄りの上中里駅から常磐線に戻り、改めて五浦を目指した。

白樺派の「梁山泊」、我孫子
 再び日暮里から常磐線を下った。三十分ほどで千葉県の我孫子駅に到着である。初めてこの町に来た時、まず向かったのが駅近くのけやきプラザ11階の展望台である。晴れていたので西に先ほど通ってきた東京のビル群の向こうには雄大な富士山が、そして北にはこれから向かう茨城県のシンボル、筑波山が見渡せた。その前に南に見える手賀沼に向かおう。
 実は大正時代にはここは「北の鎌倉」とよばれるほど文人たちをひきつけた。その中でも柔道の創始者、嘉納治五郎の移住を皮切りに、その甥で民藝運動の柳宗悦や英国人バーナードリーチ、小説の志賀直哉に武者小路実篤といった白樺派のそうそうたるメンバーが集った。当時も東京からほど近い割に、水鳥のたゆたう自然が楽しめる手賀沼は、近代化まっしぐらの東京に住む文化人にとって正に理想郷だったのだろう。
 明治の文芸が、洋画を代表するように西洋の模倣と、それに対する反発した岡倉天心のような「東洋文芸の復権」だとするならば、大正の文芸はそれらを消化して昇華させたものといえる。その代表の一つが梁山泊のごとくこの常磐線沿いの湖畔に集まった白樺派だった。

民藝運動と「用の美」
 「茶の本」との関連で特に注目したいのが大正時代からの民藝運動を展開した柳宗悦である。現在の六本木で生まれ育った、生粋の都会っ子の彼だが、文明開化=欧化一色の明治時代の流れに違和感を抱いた。ここまでは天心と同じだが、天心が奈良の寺院など、歴史ある超一流の文化財を美の基準としていたのに対し、柳は名もない職人の手仕事を評価し、それを「民藝」と命名したことは、日本における「美」の幅を広げたことで高く評価できる。
 柳の考える「民藝」とは、大量生産したものを含む。とはいえ、ベルトコンベアー等とは違い、一つの茶碗にしても、土を練る人、ろくろで成形する人、それを焼く人、釉薬を塗る人、など、分業で行って大量生産したものを指す。大量生産は価値が低いと貶められがちだが、明治時代以前の大量生産は職人が何も考えずとも勝手に体が動くまでパターン化されていた。その板についた技術がもたらすケレン味のない「無心」を彼は高く評価したのだ。
 さらに彼のいう「民藝」は、作品をありがたがって鑑賞するのが目的ではない。茶碗は未完成のまま茶人の手元に届く。そしてそれを茶人や客人が手になじむまで使い込んだときが完成というのだ。例えば萩焼でいうと「貫入」と呼ばれる茶碗の表面の細かいひびに茶渋が入り込み、色が変わった様子を美とする。経年変化による美を「さび」と呼んだのにも通ずる美意識だが、「用いることにより美しくなる」ことから彼はこれを「用の美」と呼んだ。

朝鮮の陶磁器と柳宗悦
 天心が「アジア」を美によって一つと考えたのに対し、柳は日本の植民地となり、蔑視と嘲笑の的にされた朝鮮の、名もなき陶工たちによる普段使いの器を「民藝」として評価した。
 そもそも戦国大名たちも朝鮮の陶磁器をこよなく愛していた。文禄慶長の役で大勢の陶工を日本に連行し、士分にとりたてて作らせたものが、萩焼であり薩摩焼であり、有田焼だったではないか。そしてその時代の茶人や大名たちは、朝鮮人からすると「失敗作」の範疇にあった、ゆがんだり曲がったりした陶器を名器とみなし、庶民たちが雑穀を食べた何の飾りもない飯茶碗を「井戸」としてブランド化した。
 それを「韓流」と呼ぶのなら、江戸時代の朝鮮通信使による善隣外交は「第二次韓流ブーム」をもたらしたといえよう。柳が「吾々は藝術を通じていつも朝鮮が卓越した国民であった事を想い廻らしている。」というのも、このような歴史があったからだろう。

ソウル・光化門を救った柳
 さらに、明治時代に岡倉天心が「アジアは一つ」と叫んだころ、日清・日露戦争の戦勝国となった日本は台湾や朝鮮を領有し、軍事的、政治的に「アジアを一つに」しつつあった。一方、大正時代の柳はそれを真っ向から否定して「一国の名誉を悠久ならしめるものは、武力でもなく政治でもない。その宗教や藝術や哲学のみである。」と静かに叫んだ。
 さらに、三・一独立運動後に京城(ソウル)の王宮前の光化門が朝鮮総督府によって破壊されつつあると知ると、「朝鮮の友に贈る書」を著して「私は情において吾々の同胞が隣邦の友を忘れてはいないのを信じている。少くとも未来の日本を形造る人々は、理に疎うとく情に冷かでは決してないであろう。」と、日本人の良心に訴えかけた。その甲斐もあって、光化門は破壊を免れた。ただ、解放後の朝鮮戦争により焼失し、その後再建、再々建されたものが現在のものである。
 そして後に朝鮮の土となった民藝運動家の浅川巧とともに、京城に朝鮮民族美術館を開いた。朝鮮民族の民藝品を展示・保存する場所ではあるが、「民俗」ではなく民族意識を高揚させるような「民族」という文字を使用したところにも、彼らのこの民族に対する思いが現れている。1924年に建てられたこの博物館のコレクションは、解放後も受け継がれ、現在は慶福宮内の国立民俗博物館に展示・保存されている。

「アジアは一つ」―天心と柳のベクトルの違い
 同じ「美」を求めるにしても、天心は英語で欧米の教養人にアジアの美を訴えたのに対し、柳は日本語で日本人の良心に、そしてなによりも植民地に転落してしまった朝鮮の人々に、失われつつある美を訴えた。
 また、天心がボストン美術館の中国・日本美術部長の地位にあり、美意識の紹介だけでなく日清・日露戦争で軍事大国とみなされつつあった日本の代弁をしたのに対し、柳らは母国が破壊しようとしていた朝鮮の美を守るための美術館を開くとともに、美だけではなく母国が行っていた蛮行を愧じ、王宮の門を保存すべく立ち上がった。私は「アジアは一つ」という天心の言葉に真の意味で生涯をかけたのは柳のほうではなかったかと思う。
 柳とその盟友、浅川巧の出会いは、浅川の兄、伯教(のりたか)が我孫子の柳のもとに朝鮮の使い込まれた陶磁器を土産に訪れ、柳がその素朴な美しさに衝撃を受けたことによる。手賀沼の湖畔にある白樺派文学館には、彼らに関する展示品も展示されている。大正時代に天心とは別の意味で、そして真の意味で「アジアは一つ」を実現しようとするきっかけになったのが、他でもないこの場所だったのだ。

首都圏の胃袋を支える「土」、茨城県
 我孫子駅に戻って再び常磐線を下った。次の天王台駅を過ぎると、急に大地が開ける。利根川だ。北側には筑波の峰がこちらを見渡している。この川を越えると茨城県の取手市、すなわち2019年に私が東京の下町から越してきた町だ。
 1月の晴れた日、取手から294号線を北に、30㎞あまり走った。見渡す限りの大地だ。茨城県は北海道に次ぐ農業生産額を誇ることは、あまり知られていないかもしれない。白菜、ミズナ、チンゲン菜、それに春・冬のレタスや夏のネギ、ピーマンなど、緑黄色野菜だけではなく、栗、メロン、レンコンなども全国首位である。加工品なら干し芋もあるし、タマゴも日本一だ。
言い換えるなら、首都圏の胃袋を支える地味な存在が、この広大な平野なのだ。ちなみに魚ならマイワシやサバ類など、いずれも首位だが、これらのことは取手からわずか半時間の東京でさえそれほど知られていない。

地平線の見える天守閣から一望した「土」の舞台
 筑波山を右斜め前に拝みながら一面の平野を駆け抜けると、常総市である。突然白亜の天守閣が見えた。とはいえ、そこに城郭があったわけではなく、石毛地区の常総市地域交流センターの建物である。この中に、郷土の生んだ明治の文豪、長塚節(たかし)の資料館があるが、彼の名を知っている人はそれほど多くはあるまい。それは彼の代表作「土」を読んだことのある人が少ないからだ。厳密にいうと、読みにくいこと、この上ないだけでなく、ストーリーに起伏がなく、ハッピーエンドで終わるわけでもないため、読んで面白いと思う人が少ないからだろう。
 しかし近代文学史にその名を残した彼が、正義が悪と戦うハラハラドキドキの物語とは対照的な「自然主義文学」の金字塔を打ち立てたということは、もっと評価されてもよいだろう。この作品に触れると、明治時代の茨城県の小作人たちがいかに貧しく、みじめな生活をしていたかがよくわかる。とはいえ、農民を「清く、正しく、美しい」というような「美化された」ものとして描きがちなのが白樺派だとすると、彼の描く農民像は、子どもを育てられないため妊娠しても夫婦でろくに話し合わないまま間引きをしたり、妻が亡くなってその父親を引き取ることになっても、仲睦まじいわけではなく、家庭内別居になったり、貧しさのために人の家の農作物を盗んだりなど、故郷で行われていたありのままのことを赤裸々に描いているそのレアリズムが特徴である。
 資料館を見てみるが、それほど展示物はない。ただ、彼が執筆に使っていた古机が人目につかぬところに置かれているぐらいだ。それよりも最上階から見る関東平野と筑波山の絶景が素晴らしい。また、地平線も見える。北海道以外で地平線が見えるのは、茨城県ぐらいではなかろうか。とはいえ、このだだっ広い平野を舞台にして、あのように絶望的な貧困の物語が繰り広げられていたのだ。それが話を盛り上げるために面白おかしく脚色した、読者受けする大衆文学とは対極にある自然主義文学というものだろう。

想像以上に立派な長塚節生家
 「天守閣」らしい建築から下りて、彼の生家に向かう。今なお彼の子孫が守っている現役の民家なのか、カーナビでは出てこないため、田んぼの中を迷いながらようやく到着した。プレハブの建物が事務所兼資料室となっているので、職員さんに声をかけたら、生家の建物には、前年から人が住んでいないので、母屋の前まで入ることができるとのことで、お邪魔することにした。
 立派な門が彼の実家の豊かさ度合いを示している。彼は大地主の子で、父親は県議会議員を務める地元の名士だったが、経済観念に疎いため家は火の車だった。坊ちゃん育ちの節は、当時にしてはかなり旅にでていたようで、入口には右手に書物、左手に笠、わらじ履きで背負子のようなものに荷物をのせた旅姿の彼の銅像が立っている。中の母屋も茅葺で、なかなか立派である。
 病気がちだった彼の旅の目的は物見遊山を兼ねた体力の増強だったらしい。時には半年にわたる旅をしていたという意味では「ブルジョア」だったが、格安旅行を続けたという意味では庶民的でもある。農村型プチブルの典型だったのかもしれない。時々旅にでながらも、宿代や食事代は安く済ませる私自身にも似ていて、親近感が持てる。

言葉が聞き取れないことへの衝撃と漱石の評価
 写真を撮っていると、先ほどの職員さんと、手押し車を推した80代、ひょっとしたら90代のおばあさんが後ろで話をしだしたのだが、話を聞いて驚愕した。話の内容に対してではない。東京から電車と車を飛ばせば1時間半もかからないこの村のおばあさんの話が2割ほどしか聞き取れないからだ。方言の理解には多少自信があっただけに、衝撃だった。
 そういえば「土」が読みにくい理由の一つが、明治時代のこの村の言葉で書かれているからだったことを思い出した。一方で明治、大正、昭和、平成、そして令和の年になっても作品内の言葉が息づいていたことに感動を覚えた。と同時に、あの作品の自然主レリアリズムが本物であることも確信した。現実の農村は言葉さえ分からない。これに比べると分からない点のない朝ドラや大河ドラマの「方言」らしき言葉などは、視聴者におもねりすぎているのに違いない。
 この作品は1910年の新聞小説だったが、長塚節の「佐渡」という作品を読んで感銘を受け、東京朝日新聞に執筆していた「門」の後釜として彼を推薦したのは夏目漱石だった。彼は「土」の単行本の序文にこのように寄稿している。

…「土」の中に出て来る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、ただ土の上に生み付けられて、土と共に成長した蛆同様に憐れな百姓の生活である。(中略)彼等の下卑で、浅薄で、迷信が強くて、無邪気で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさえ、上りがたい所を、ありありと眼に映るように描写したのが「土」である。そうして「土」は長塚君以外に何人も手を付けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獣類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云うのである。…

 農民をあからさまに蔑視していることに強い抵抗を感じないではいられない。しかしこれは当時の知識人にとって普通の感覚だったのだろう。だからより一層、このような言葉も聞き取れない「ドン百姓」の周りにあった手仕事の物を「民藝」として昇華させた柳宗悦は、その視点の転換において意味があるのである。

常総の平野の中で思い出した魯迅
 一方、新聞小説としては最悪の人気だったらしいが、購買層である文明開化を気取った知識人たちに長塚節は茨城県の、そして日本中の百姓の実態を知らしめたに違いない。文学は面白いものだけとは限らない。つらく、つまらなく、投げ出したくなる人生のようなものであるということを、かれは自然主義レアリズムという手法で世に問うたのだろう。
 それは1920年前後に魯迅が発表した「阿Q正伝」、「孔乙已(コンイーチー)」、「故郷」などにでてくる、政策の誤りがもたらした貧困と、それがまねいた庶民の絶望にも似ている。しかし魯迅が全中国人を覚醒させようと「白話(話し言葉)」で作品を書いたのに対し、レアリズムを追求する長塚節は方言で書いた。その結果社会的評価は芳しくなかった。
 その点、当時フランス語と並び、事実上の世界共通語になりつつあった英語で「茶の本」等を執筆した天心は賢明だった。ただ、ここで浮かび上がってくるのは、天心の考える「日本」というのは東京や横浜、京都など、大都市の知識人を指し、「アジア」というのも「儒仏道」等の伝統的な思想や文学の中のアジアだった。そこに同時代の奴隷同然のアジア人の姿はおろか、「灯台下暗し」といおうか、茨城の農民の姿も全く目に入らなかったようだ。
 陽が沈みそうになったので常総市を去って、取手の自宅に向かった。筑波山に背を向けつつ夕刻の294号線を南下したが、道中は単調で特に見どころもなく、例えるなら「土」の構成のようだった。しかしこの大地こそが後の豊かな農業県茨城を育てたこと、そしてそれを成し遂げたのも「土」の登場人物の子孫たちだったことも忘れてはなるまい。
 
東京から茨城への心理的距離
 茨城県から東京に通う、というと、都民は二時間くらいかけて来ているのかと勘違いする人もいる。しかし取手から常磐線で最寄りの山手線駅である日暮里や上野までは40分かからない。その近さに都民は意外に感じるかもしれないが、逆に言うと都民にとって茨城県への「心理的距離」はそれほど遠いということなのだろう。しかし取手に住む私が下り列車に乗ると、物理的な距離の長さに気が遠くなる。
 ちなみに茨城県は一般的に五つのエリアに分かれる。水戸市を中心とした県央、筑波山の南で、土浦やつくばを中心とした県南、筑波山の西で古河や常総を中心とした県西、福島県との境で、日立市を中心とした県北(けんぽく)、そして霞ヶ浦の東の鹿島、行方(なめがた)を中心とした鹿行(ろっこう)である。 県南の県南-取手に住む私にとって、最も遠いところが県北のさらに北部ということになる。 
 取手から二時間半以上、普通列車に乗り込んで北を目指す。常磐線は取手までは都心と同じ列車だが、そこから北は乗車、下車の際に乗客がボタンを押してドアを開ける。自動で開けても夏の冷気や冬の暖気が外に漏れるだけだから、こうなっているのだ。筑波山と田畑が見えなくなってしばらくすると水戸である。さらに北に向かい、日立あたりからいきなり青い太平洋が車窓に広がった。その後は大海原が見えたり見えなかったりの「かくれんぼ」を繰り広げる。

「東洋のバルビゾン」五浦
 ようやく県北の最北端、大津港駅に着く。駅舎の門の柱がベンガラ色で、いぶし銀の屋根瓦がふかれている。これから目指す六角堂を模したものだ。六角堂とは、1903年に五浦を訪れた彼がこの地をいたく気に入ったため、ここに別荘を建て、思索と休養の場としたものである。
 その後1906年には日暮里・谷中にあった日本美術院をこの地に移し、「落穂ひろい」や「種まく人」などを描いたミレーらが住んだ農村、バルビゾンになぞらえて、「東洋のバルビゾン」をこの地につくるべく、横山大観、下山観山、菱田春草らと共同生活しつつ、日本画の大成に全力をあげた。「六角」なのは、杜甫の草堂が六角形だったことに由来するともいわれるが、若き日に文部省の調査員とともにフェノロサとともに訪れた法隆寺夢殿からヒントを得たものともいわれる。上野の東京藝大や、谷中の岡倉天心記念公園、そしてこの大津港駅でも、天心にゆかりあるところには六角堂がつきものだ。

空気や霧まで表現する「朦朧体」
 駅前でタクシーを拾って天心記念五浦美術館に向かう。彼の弟子たちの作品が定期的に入れ替わりながら展示されているが、やはりいずれも共通して目に付くのは、部外者からは「朦朧体」と批判された、もやのような表現法である。多湿の日本列島においてはもやがかかりがちだが、それを、線を使わずにぼかすことによって表現したものだ。おそらく五浦の海も日によってはこのような霧に包まれるのだろう。
 それにしても空気にしみこんだ湿度まで表現するというのは、たいがいのことではない。そしてその湿り気こそ日本の風土の特徴なのだ。私は二十代の頃中朝露国境の町に住んでいたが、一年中乾燥しており、日本の風土の持つ湿り気に対して望郷さえ感じていた。それを「みえる化」する技法が生まれたのがこの地なのだ。
 ところで天心自身はボストン美術館での仕事もあって経済的にも潤っていたが、弟子たちはお金になる仕事もなく、逼迫した生活のなか、ただひたすら師を信じて作画に取り組むのみだった。弟子だけでなく、天心の弟子でもない彼らの妻たちの内助の功なくして成し遂げられなかったろう。

松林の中を迎えてくれる五浦釣人像
 美術館の外に出て、潮風に吹かれながら六角堂に向かった。松林のかさかさいうさざめきと潮騒のシンフォニーを楽しみながら石段を下りていくと、天心記念館があった。そこで平櫛田中の「五浦釣人(いづらちょうじん)」という、ここの海岸で太公望を決め込む天心の像が迎えてくれた。道士の帽子をかぶり、手に釣竿とタモ網を手にした彼の姿は、アジアの美のエッセンスを体現した日本の美を、英語で世界に伝えようなどというファイティングポーズではなく、老荘的な脱俗そのものだ。
 アメリカの地で常に日本を、アジアを意識しつつ戦ってきた彼だからこそ、日本では東京や京都などではなく、あえて五浦の海岸のようなところで「無」に戻り、「空」になる必要があったのだろう。
 見終えてから改めて六角堂に向かった。青い太平洋の絶景。そして磯が水を池のように囲むその端にベンガラ色の六角堂がたたずんでいた。東日本大震災の津波により、木っ端みじんに破壊され、流されたが、その後人々の寄付や再建運動で見事甦ったものだ。
 それにしても稀に見る海岸の絶景である。ただ、ここは雄大さよりも庭園的、箱庭的な美しさである。それは六角堂の100m以内のところに長く磯が横たわることで外海と内海を隔てており、内海が池泉回遊式庭園、外海が借景のように見えるからなのかもしれない。私もこのようなところにあずまやを建てて大海原を眺めたいものである。

「土の人」と「海の人」
 関東平野の「土」の世界からここにやってくると、ここは全くの別天地であることに気づく。いうならばここは海を介して外の世界とつながっているのだ。長塚節が日本各地を行脚したとはいえ、方言にこだわり、土地に縛られていた「土の人」だとするなら、国際港横浜生まれで英語を駆使して海外を飛び回ってきた天心のフットワークの軽さは、彼が本質的に「海の人」だったといえるだろう。彼はもしかしたら親の出身地の言葉、福井弁すら話せなかったのではなかろうか。
 それはさておき茨城県には「土の茨城」と「海の茨城」があることに改めて気づかされた。そして私自身は中国山地の農村で生まれ育った性(さが)か、「海に憧れる土の人」である。海洋的なオープンさ、フットワークの軽さを感じさせる天心に憧れつつ、自分は土着のじめじめしたしがらみに妙な安心感があるのを知っているのである。とりあえず英中韓国語の通訳案内士でありながら、家族とは意地でも出雲弁でしか話さないどころか、方言は無形文化遺産であるとの見地から方言保持を一大目標とし、息子が日本語で話すと「さっきのを出雲弁でどげ言うだ?」と、四六時中通訳の稽古(?)をさせる面倒くさい父親である。
 そんな私なので天心と長塚節なら心情的に長塚節を選ぶ。とはいえ、私は方言小説の「土」が言語的に理解できていないのだが…。

自分の土俵で自分の相撲をとる天心
 道路向かいの天心邸は、典型的な広い和風建築だが、わざわざ外国からここに滞在しにきた要人たちも少なくない。彼はおそらく例の隠遁生活者のようないで立ちで世界の人々と交流したのだろう。敷地内に彼の肖像と「亜細亜ハ一な里」と彫られた石碑が見られる。 “Asia is one.”これは彼が世界で戦うために「茶の本」と前後して英文で書いた“The ideal of the East”の冒頭に出てくるあまりにも有名な言葉である。
 思うに彼は国際社会における「勝負の仕方」が分かっていたのかもしれない。相撲にたとえるなら西洋社会で東洋人が互角に戦うためには、同じ土俵に立っては不利になる。彼はあくまで「自分の相撲をとる」ことの大切さを痛切に感じていたに違いない。そしてその「自分の相撲の取り方」というものは、日本VS西洋という対立図ではなく、東洋VS西洋というように日本文化の中にアジアのエッセンスがすべて入っていることを強調することによって西洋と東洋を対等に立とせようとすることである。

軍国主義に利用された「亜細亜ハ一な里(アジアは一つなり」
 この石碑が立てられたのは昭和17年、つまり日米開戦の翌年である。この思想は美や思想や藝術に関してアジアは一つであると述べたに過ぎないのだが、軍部はこれを「大東亜共栄圏」のプロバガンダとして利用した。この言葉を揮毫した横山大観が、亡き師の想いを知らなかったはずはない。「富士山といえば大観」というほど富士山を描いてきた彼は、軍国主義の時代に集中的に民族の象徴としての富士山を描き、国威発揚に協力した。
 茨城県出身の彼だが、県民の心の拠り所である筑波山よりも、大和民族の心の拠り所、富士山を描くことで軍国主義とうまくつきあったようだ。天心亡き後、日本美術院という在野の団体を復興・維持させるには、こうでもして権力者に取り入らねばならなかったからだろう。戦後は戦争責任を問われ、結局は不問にふされたが、やはり富士山の絵は描き続けた。
 駅に戻って常磐線の上り列車に乗り込んだ。列車は大海原を時々見せながら南に戻っていった。車窓を見ながら二十代の頃を思い出していた。私もかつて「アジアは一つ」だと思っていた。いや、思いたかった。大学では英米語学科だったが、母校関西外大のキャンパスに充満していた無色透明で軽いグローバルな英語世界の空気になじまず、土臭い中国語や朝鮮語を学んだり、関西を中心として日本中を旅してまわったりすることで自分の中の「体質調整」をしていたように思う。
 繰り返しになるが、私はグローバルな「海の人」ではなく、「海に憧れる土の人」であり、もっというなら「海に憧れたが海水になじめず土に戻った人」で、「アジアは一つ」とはこのような私にピッタリの思想のように思えた。そして大学を卒業すると中国の朝鮮語圏、旧満州の延辺朝鮮族自治州という「土」の世界に向かい、知らぬ間に中韓の通訳案内士の資格を取っていた。中国語や朝鮮語を体に「インストール」することで、言語を通してアジアを「身体化」し、「アジアは一つ」を実践したかったのかもしれない。今なお違和感は伴いつつも、「アジア」は私の体の一部になっている。ちなみに英語の通訳案内士資格を取ったのはそのはるか後である。

内原―満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所 水戸郊外の「満洲」
 常磐線で水戸を過ぎると市西部の内原である。今はイオンモールのあるこの町だが、戦時中は満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所があった。今も広大な農地の広がるこの地域にて、かつて満洲にわたる青少年たちをここで訓練すべく、1938年に開かれた施設だ。訓練生の総数は約八万七千。1975年に彫られた記念碑には、満洲國の建国に対してなんの疑問ももたず、戦後三十年が過ぎていたにもかかわらず「王道楽土」「民族協和」「日満一体」などという勇ましいプロパガンダが虚しく響く。これらの言葉に踊らされてどれだけの人々が不幸になったかまで思考を巡らすことはできないのだろう。
 ここでの最大の見ものは、「日輪兵舎」といって、満洲についたらすぐに宿泊施設が造れるように、円形の壁の上に円錐の屋根を乗せた建築である。機能と作りやすさに比重が置かれ、天心や柳らの考える「美の世界」のかけらもない。まさに「土」の人々の世界だ。しかし「土」の主人公たちに国家の後ろ盾がなかったのとは異なり、満洲に送られた義勇軍の少年たちは「親方日の丸」だった。と思ったのも束の間、日本の敗戦とともに大陸に棄てられる運命にあったとは、この内原で訓練を受けていたころは知る由もなかったろう。

「満州国建国」に疑問の余地のない歴史観
 敷地内の内原郷土史義勇軍資料館もあらゆる意味で必見であるが、ここの歴史観も満洲國建国そのものについての疑問はない。つまり、義勇軍が来る前に、その土地に住んでいた人々のことは念頭にないのだ。ある国の「土の人」を、別の国の「土の人」の開墾した土地に移植させることが、どのような軋轢を生むのかわかっていたはずだが、それに関しては見ざる、聞かざる、言わざるである。
 また、少年たちがここで受けた研修は主に農業やサバイバル技術であり、中国語学習や、異文化コミュニケーションというようなことはほぼ学ばないことが展示物の「時間割」からわかる。このような空間に身を置くことは正直辛いものがある。しかし一つだけはっきりしているのは、ここで「アジアは一つ」などという能天気なことは言えないということだ。文脈から切り離して言葉を独り歩きさせることの危うさを、痛いほど感じた。そしてまた列車で上野方面を目指した。
 「茶の本」の旅として、古河庭園で茶の稽古をしてから常磐線を下ったが、柳宗悦の民藝運動や長塚節の「土」の思想、そして魯迅との対比などを考えていたら、東洋のエッセンスを備えた国としての日本を西洋と対比させる天心の「相撲の取り方」がわかってきた。
 そして五浦の海で自分が「海に憧れたが海水になじめず、土に戻った人」であることを再確認し、帰りの内原ではやはり「アジアは一つ」とは文脈を無視しては、特に中韓通訳案内士として軽々しく言えないことに今さらながら思い当たった。そして何よりも、自分の暮らす茨城県がもつ「土の豊かさ」と「海の豊かさ」が、胃袋だけでなく人々の精神にまで影響を与えたことに気づく、そんな旅だった。(了)


PRその1 通訳案内士試験道場では、2021年1月13日より新学期が始まります。
それに先立ちまして、以下の通り無料体験講座を開講いたします。
地理   1/6水19:30 1/9土10:00 1/10日15:10
歴史   1/7木19:30 1/9土13:00 1/10日10:00 
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当道場では、日本の名作に関する紀行文を外国語に訳すことで翻訳力を高める「日本のこころ」講座を開講しています。12月は岡倉天心「茶の本」に関する文章を訳していきます。
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