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日本のこころ⑬「遠野物語」と日本民俗学の道


ピンとこない「民俗学」

 訪日客を外国語でガイドするための全国通訳案内士試験では、外国語の他に、地理、歴史、一般常識、実務の科目がある。常々思うのが、「民俗学」という科目が独立して存在しないのは観光庁の不手際ではなかろうか、ということ。というのも、訪日客が日本に対して期待することの多くが、民俗学的な事項だからだ。
 ここまで書いてもピンとこない方は、おそらく訪日客が直面する民俗学的な事物にどのようなものがあるかということにピンとこないからかもしれない。私なりに公式化するなら、「民俗学=衣食住+生命のあり方+自然との付き合い方」である。たとえば訪日客に人気の東京を例に、これらがどのようなときに彼らの目に触れるか、みてみよう。

東京の訪日客の目に映る「民俗学」

 例えば「衣食住」の「衣」とは、例えば浅草にいけば夏なら浴衣姿の女性や、神社仏閣の僧衣、神主の直垂(ひたたれ)や巫女の袴などが見られる。そして「食」といえば築地に行けば生または発酵食品に魚、野菜を中心とした和食が楽しめる。「住」といえば足を延ばして箱根まで行けば、スリッパに履き替えて上がり、畳に布団を敷いて寝る旅館などがある。これら衣食住はいずれも民俗学の扱う内容である。
 次に訪日客が日本人の「生命のあり方」を目にするのは、例えば明治神宮などで行われる冠婚葬祭、特に「冠」=成人式や「婚」=結婚式の場である。振袖の、または白無垢に綿帽子の女性が訪日客の被写体になりがちであるが、冠婚葬祭と死後を含むライフサイクルに着目するのも民俗学である。
また、一人前になって結婚すれば、次に期待されるのは出産だ。そして生後一か月ほどでお宮参りをし、順調に育てば七五三を迎えるが、その時神社に居合わせた外国人も、着物を着た子どもを愛くるしく思うに違いない。しかしただ美しい、かわいいだけではない。そこには親から子、そして孫にと脈々と続いていくはずの血縁を尊び、自分の肉体が亡くなっても「葬」式で血縁に見送ってもらい、その後も「先祖」となって「祭」祀、すなわち法事のときには残った親族たちと飲食を共にするという生死のサイクルがあるのだ。生まれてから死ぬまで、ではなく、その先にまでつながる生命のあり方こそ、日本民俗学の代表的な研究テーマである。
 さらに「自然との付き合い方」に関しては、訪日客の中でも特に人気の高い日光や高尾山などに行けば、自然そのものを神と崇め、そこに仏教寺院が入り込む、いわゆる「神仏習合」だけでなく、山の守護神としての天狗の存在など、山に代表される自然を神仏、あるいは妖怪として崇めるとともに畏れて祭る、我々の自然との付き合い方が見られることだろう。
 そして特にこの自然現象をある時は神々として、ある時は妖怪として付き合ってきた我々の先祖の姿を克明に描き、その後の日本人の知的枠組みに大きな影響を与えたのが、1910年にまとめられた柳田國男の「遠野物語」であった。

妖怪はそんなにくだらないか?
「民俗学」といっても一般的にはなにをする学問なのか分からないことが多い。例えば歴史学というと図書館で古文書など文献を調べたり、史跡を歩いたりする姿が、また考古学というと泥だらけになって土を掘ったり、白衣を着てそれらを科学的に解析したりする姿が、地理学といえば地図をもって山や川を歩いたりする姿が思い浮かぶだろうが、それらに比べると「民俗学」というのはどんな格好で何をしているのか、思い浮かばないのではないか。
また、学問というのはそれを通して一般社会に貢献するものがあってしかるべきだという「常識」がまかり通っている。いわゆる「文系」の諸学問も、例えば歴史学や考古学なくして我々の先祖の姿は分からず、地理学なくして産業さえなりたたない。しかし「民俗学」を学んで、例えば各地における衣食住を学ぶよりも、縫製や調理や建築を学んだほうが、また「生命のあり方」を学ぶよりも介護福祉やブライダル、葬儀の作法でも学んだほうが、手に職がつくことは言うまでもない。
 さらに、「自然との付き合い方」でいうならば、環境学や生物学など「科学的」な分野を学ぶのはもろ手を挙げて賛成されるだろうが、「神仏」や「妖怪」などは「くだらない迷信」の域を出ないと思われがちではなかろうか。具体的なたとえを出すなら二十代後半の大学院生が「幽霊と認知されがちな心理状態を研究しています。」というのと、「鬼と河童と雪女がどんな場所にでるか研究しています。」というのでは、一般的にはどちらが「まともな」人間だと思われるだろうか。おそらく前者であろう。

訪日客が求めるものは神々と妖怪?
 しかしインバウンドの世界ではどうやら事情は異なる。神仏に関しては京都や奈良、鎌倉など各地の神社仏閣を訪れる際に役立つというのは容易に予想がつく。しかし妖怪というのも、少なからぬ訪日客にとって日本が誇るキラーコンテンツであることに気づきたい。
 古くは明治期に日本に滞在したラフカディオ・ハーンが「怪談」で「妖怪の国、ニッポン」を世界に知らしめただけでなく、現在日本が世界に与えている大衆文化の中にはしばしば妖怪やそれに類するものが出てくる。特にアニメでいうなら昭和の頃の「ゲゲゲの鬼太郎」、「妖怪人間ベム」などはドメスティックなヒットで終わったが、平成に入ると「ポケットモンスター」や「妖怪ウォッチ」、そして令和の「鬼滅の刃」等、「妖怪系」作品がグローバルに幅を利かせるようになる。
 さらに「妖怪系」といえば「となりのトトロ」(1988)、「魔女の宅急便」(1989)、「平成狸合戦ぽんぽこ」(1994)、「もののけ姫」(1997)、「千と千尋の神隠し」(2001)、「崖の上のポニョ」(2008)など、世界中で評価されるジブリ作品の多くが該当する。また、「君の名は。」は、妖怪はでないものの「口かみ酒」、「巫女の神楽」、「生まれ変わり」等の民俗学的背景が分かると見方が変わる。ちなみに主人公の一人、宮水三葉の父親は元民俗学者という設定だ。
 このように、訪日客に注目されていながら日本人にとってはピンとこない民俗学を生み出した柳田國男の生涯をたどるとともに、彼を中心軸として関わってきた文学者や民俗学者等にかかわる地を歩いてみたいと思う。

播州辻川の「日本一小さな家」
 「播州辻川」と聞いてピンとくる方は、兵庫県民でなければ民俗学に関心のある方だろう。現在は「福崎町」といい、姫路市の北25㎞ほどの、中国山地の小さな盆地に柳田國男は生まれた。私は学生時代から中国自動車道を通るたびに、「柳田國男のふるさと」という看板を何度も見て、気にはなっていたが、実際に彼の出生の地にして少年時代を過ごしたこの地を私が訪れたのは四十代になってからだった。
 「松岡」という苗字で1875年に生まれた國男少年の生家は農家であったが、松岡家は彼の祖父の代から医者をしていた。医者とはいえども家は貧乏で、町はずれの丘の上に移築された藁ぶき屋根の生家に七歳まで住んでいた。後に彼はここを「日本一小さな家」と呼んだが、極端に小さいわけではない。四畳半二間、三畳二間が田の字型に並んでいる。これより小さな家屋はいくらでもある。ただ自分らと両親からなる家族、さらに長兄及び兄嫁からなる家族が同居するにしてはいささか小さい。プライバシーは全くない。
さらに嫁姑問題が起こり、兄嫁は家を出ていった。
 肩を寄せ合いつつ住むことで「家族の絆」が強まるかというとそうではなく、若者たちの新しい価値観を無視してそれまでのライフスタイルを変えなければ家族関係も雲散霧消してしまうことを國男少年は悟ったようだ。彼は家族とは固形物ではなく流動するものだという民俗学基礎をこの家で学んだのだ。そして体制維持に都合の良い儒教道徳に起因すると考えられる嫁姑問題の悲劇を見てきたため、彼の提唱した「民俗学」は支配階級ではなく庶民の中に人間としてのスタンダードが置かれている。そして農村の貧しい生活を見つめ、それをどうにかしたいという思いが民俗学を開く動力になっていった。

妖怪のブロンズ像
 生家の隣接地には松岡家の記念館があり、彼の原稿や使用していた机、郷土民俗資料などが並んでいるが、入口の壁に書かれていた彼の研究した学問系統の一覧には驚かされる。一口に「民俗学」とはいっても、歴史や地理、方言、衣食住、そして妖怪など、彼は実に広く学際的に、しかも深く研究してきたことが分かる。閉館時間まで粘ってその図を見続けた。
 閉館時間の5時に外に出ると、冬至過ぎということもあり日も暮れようとしていた。丘から降りると池を中心にした公園があり、そこには河童や天狗などのブロンズ像が置かれていた。面白いのは天狗で、なぜかスーツを着てノートパソコンで仕事をしている。妖怪さえ時流に逆らわない。人間も意地になってライフスタイルを守るだけでなく、自由自在にやるのがよろしい、とでも言っているかのようだ。
 ここで山河を歩き回っていた少年時代、日暮れに川に近づけば河童を、山を歩くときは天狗を恐れたに違いない。この中国山地の小さな盆地で過ごした十年あまりが、民俗学者としての彼の基礎を作ったことを確認し、自分自身「狐に化かされない」よう気をつけつつ、宿に向かった。

第二のふるさと、下総布川(しもうさふかわ)-読書三昧の青春
 13歳になった國男少年は故郷を離れて茨城県に向かった。1887年のことだった。利根川沿いの布川(現利根町)で、小川家という地主の家を借りて開業医を営んでいたのが例の長兄だったため、國男少年もそこに預けられたのだ。特に学校に行くというわけでもなかったが、そこの蔵にあった書物を読みあさり、また周辺の山や川、田畑を歩き回った。いうならば「居候」である。
 布川は私の住む茨城県取手市の隣町であるので、時々訪れるが、わずか二年ほどとはいえ、多感な思春期をここで過ごしたことの意味は大きい。彼の民俗学的素地は播州の辻川だけで生まれたのではなく、東日本と西日本、中国山地のちまちました小盆地と「坂東太郎」利根川の流れるダイナミックな関東平野等、比較対照することによりはぐくまれたのだろう。
 住宅街の中の「柳田國男記念公苑」という木の看板がかかった門をくぐると、瓦葺きのこぎれいな屋敷がある。1992年に再建されたこの屋敷は宿泊可能な研修施設となっている。研修施設とはいってもすべて畳敷きであり、合宿するには申し分ない。歴史の教科書に出てくるほどの人物の家で寝泊まりできるなどというのはなかなかない体験だ。
 その裏手には屋敷神をまつる石造りの祠がある。ここは少年が神秘体験をした場所として知られる。少年が好奇心からその石の門を開けると、きれいな玉がはいっていた。すると意識を失った。あおむけになると、空には青空に幾重もの星がまたたいていたという。そこで空を横切るヒヨドリがピーっと鳴き声をたてると意識を取り戻したという。あれが何だったのか誰も分からないが、少年はこの「不思議の玉」を見てしまったことを「神秘体験」として、後の妖怪を学問的なものにまで高めた民俗学のスタート地点となったのだ。
 また、祠の奥には土蔵がある。現在は資料館になっているが、こここそ少年が昼に夜を継いで読書に耽った場所である。外で思い切り遊び、家では乱読多読に励むことで、見聞きし感じ取ったことを、単なる体験として終えずに客観的に理論づけたのだ。
 蛇足だが、八畳ほどの小さな土蔵は、むしろ資料館などにせず、國男少年の学問の場であったことにあやかり、地元の青少年の勉強部屋にしてもらえれば面白いではないかと思いつつ、次の訪問地に向かった。
 
徳満寺の「間引き絵馬」で農政学に開眼
 布川から対岸の千葉県我孫子市の布佐(ふさ)にむかう栄橋のたもとに、俳句の小林一茶らも訪れたという名刹徳満寺がある。お寺が運営する幼稚園を過ぎると、庫裏である。挨拶をしてあげてもらう。お目当ては後に農林省の役人として津々浦々を歩くことになるきっかけとなった「間引きの絵馬」である。
 絵馬とはいっても神社にかけるような小さなものではなく、25インチテレビぐらいあるものだ。そこには母親がしゃがんで生まれたばかりの赤ちゃんの口をふさいでいる絵が描かれており、その口からは煙のようなものが出ている。母親の背後の障子に移った影には頭の上に角が見える。鬼になっているのだ。
 江戸時代に幾度もの飢饉を経てきた当地では、生まれた子供を「間びく」ことで、「口減らし」をする慣習があった。彼は気づいていた。播州ではどの家も子だくさんだったのに、ここでは子どもは二人がほとんどだということを。というのも生まれ故郷、播州は「播州門徒」という言葉があるくらい浄土真宗門徒が多いが、真宗では間引きを禁じてきたため子だくさんだったからだ。東日本の「非真宗地帯」における「間引き」の慣習はこの多感な少年にとって衝撃だったにちがいない。
 「鬼」のように描かれる母親だって好き好んで腹を痛めた子を殺めたのではなかったに違いない。しかしそうせざるを得ない現実。それは江戸時代以来頻繁にこの村を襲った飢饉のせいであると少年は気づいた。
 普通ならばこの惨状に心を痛め、ご本尊に手を合わせて終わりだろうが、國男少年は自分ならこれに対してどうすべきかを考えた。そして飢餓を生み出すのは農政がうまくいっていないからであると結論付けると、学校にも行かず山を駆けまわり、読書に明け暮れた日々にピリオドを打った。そして農政学を学んでこの国の貧困を解決すべく、1893年に一高、すなわち現在の東大を受験し、合格した。
 農林省で「官」の論理を身につけつつも「民」の習俗を探求する日本民俗学が少年の胸の中で発芽したのは、他でもない、この利根川沿いの小さな村だったのだ。

 本郷での青春―文学者たちとの出会い
 中国山地や関東平野の田舎町で少年時代を送った國男は、19歳にして東京・本郷の一高、つまり東大生となった。19世紀末、すなわち文明開化の時代の本郷は各地からの俊才が集い、若さをぶつけあう場所であった。本郷が國男青年個人の「青春の舞台」であるだけでなく、日本という国家自体が文明開化の段階から日清・日露戦争を経て「一等国」にならんとした発展途上の「青春の時代」でもあった。
 彼が目指したのは「経世済民」、すなわち世の中をうまく管理することで人々の暮らしをより良くする学問としての農政学だったが、農学はいわゆる「理系」学問であり、一方政治学は「文系」である。この文理融合の学問は、後に彼の中で民俗学の本格的な誕生につながってくる。
 とはいえ、東大時代の彼の交友関係には明治を代表する文学者およびその卵が極めて多いことが特徴だ。例えば森鴎外。上京以前からすでに文壇の花であった彼のところに出入りし、かわいがられていたようで、青年期の國男に最も影響を与えた文学者となった。しばしば本を借りたりしていたというので、著作に関して疑問をぶつけたり所感を述べたりしていたことだろう。ちなみに中国山地の東の端の小盆地で生まれた國男に対して、鴎外も同じ中国山地の西の端の小盆地、石見(島根県)・津和野という小京都で生まれ育った。

田山花袋との出会いと決別
 また、後に自然主義文学者の旗手として知られる田山花袋との出会いも互いに影響をあたえあうことになった。花袋は國男の第二のふるさと、布川から利根川を上ること約80㎞の栃木県(現群馬県)館林で生まれ育った。「川上と川下」のよしみで意気投合したのか、一高時代にはともに文学活動にのめりこんでいった。國男も一時は文学者を目指し、互いに影響を与えあった。花袋が近代文学史に金字塔を打ち立てるとともに論争の的となった「蒲団」を発表したのは、卒業後だった。
 花袋自身をモデルとしたこの作品は、ある文学者が若い女性文学者を内弟子として家に住まわせるが、妻子ある身でありながら彼女のことを想い、妄想にふける。しかしこれではいけないとおもって彼女を家から追い出すが、彼女の使っていた布団に顔をうずめて残り香をかぎながら涙を流すというあらすじだ。人間ならだれしも抱くであろう自然な感情の発露たる「自然主義文学」として評価される一方、世間では「露悪趣味」「変態性欲」「非道徳的」などと排除する声も大きかった。
 そして友の心血を注いで書いたこの作品を、國男は全く受け入れず、「きたならしい」作品と酷評した。頭が固いとも思われがちだが、彼からすればこの世の中が抱えている現実的な社会問題を告発するわけでもなく、単に男と女の問題を「自然主義文学」などと銘打っている友が、友であるだけに許せなかったのかもしれない。文学でも世の中を変えることはできるはずだ、という「経世済民」をポリシーとしていた國男にとって、花袋の自然主義文学は文学そのものに失望させられ、文壇から去る契機となった。

社会派文学者としての島崎藤村
 一方、國男のもう一人の文学仲間に、信州の宿場町馬籠(現岐阜県中津川市)出身の島崎藤村がいる。彼も自然主義文学の旗手として知られるとはいえ、恋愛など個人的な感情の発露以外にも、社会問題を文壇で訴えた。彼は後に被差別部落出身者の教師が自ら出自を偽りつつ子どもたちの前で教壇に立ち続けたが、周囲からの詮索と自らの良心から、子どもたちに隠してきたことを詫びるという「破戒」を発表した、この社会に根深く残る差別問題を赤裸々に描くことで、この問題を告発したのだ。
 街路樹が並び落ち着いた知的雰囲気あふれる21世紀の本郷を歩きながら聞こえるのは「標準語」でなければ英語、または留学生の話す中国語だ。道行く若者たちはスマートで洗練されているが、線が細い。想像に過ぎないが、明治時代の本郷という空間は、日本中の地方出身の学生たちが弊衣蓬髪(へいいほうはつ)で下駄の音も高らかに闊歩し、時には大酒を食らっては各地の方言で口角泡を飛ばして天下国家を論じたかと思うと、女の話に最も熱くなり、挙句の果てには興に乗ってふんどし一本でデカンショ節などをわめくという、「バンカラ」な学生であふれていたはずだ。
 「末は博士か、大臣か」とばかりに官僚や政治家、学者、文学者、実業界を担う人材など、各方面で近代日本を支える人々の束の間の「バカを許される」モラトリアムの場が本郷だったろうが、今はその面影はうかがえない。
 多くの文学仲間との切磋琢磨の場となった東大を卒業した國男は、「経世済民」の志を実現するために念願の農商務省(現在の農林水産省兼経産省)に勤め、役人として日本各地の村を歩き回った。机上の空論ではなくフィールドワークによって作り上げられた民俗学は本郷で出会った人々にもまれて形成されつつあったことはいうまでもない。

霞が関から宮崎県椎葉村へ―狩猟民と焼畑
 1900年という世紀の変わる年、理想の天下国家を論じる「本郷の人」から現実の国家や地方を治める「霞が関の人」となった國男は明治政府の本質にぶち当たった。彼は日清戦争と来るべき日露戦争の端境(はざかい)期で軍事強国化する行政の方針とことごとく対立した。「困窮する人々のための行政」であるべきだと信じていた彼は、「行政が困窮する人々を作り出している」という現状にぶつかったのだ。
 信州飯田の柳田家の養子となり、「柳田」國男となった彼は、地方視察という名目で全国行脚の旅をしたが、民俗学という着想のもととなったのは1908年に宮崎県の椎葉村に1週間滞在したことだった。村には平地がほとんどないため、山の斜面で小規模な焼畑を行い、初年度は蕎麦を、翌年からは稗や粟を植え、4年ほど耕地として利用したら、25年から30年ほど放置することで土地の回復力を待った。縄文時代以来のこの農法は、まさに持続可能で無駄がないことで、2015年にはFAO(国連食糧農業機関)の世界農業遺産に認定された。
 さらに國男はこの地での狩猟採集文化にも着目した。自然を敬い、畏れ、自然のサイクルとともに生きる。それは日本各地で行われてきたことだが、明治期の急速な近代化により廃れつつあった。彼はそれを記録することでさらに思索を深め、同時に農山村の伝統文化を守るべく動き始めた。現在この村には彼の滞在した宿が今なお残っており、日本民俗学発祥の地の一つとなっている。
 ただここはむしろ民俗学「萌芽の地」であり、本格的に民俗学が世に知られるようになったのは、翌1909年の岩手県遠野訪問を待たねばなるまい。


遠野到着
 日本史の教科書にも出てくる民俗学の金字塔「遠野物語」には、それぞれ1ページにも満たない119話の妖怪話が収められているが、意外にも当初は自費出版だった。
 初めて私が遠野を訪れたのは東日本大震災の半年後、2011年9月だった。南北に細長い北上盆地を、東北地方の大動脈たる東北自動車道と東北新幹線が走る。北上市から東に向かい、山また山の北上高地に入り、秋雨の中、車で走ること40㎞ほどで大きなカルデラのような盆地に出た。とはいえここはカルデラではなく、大昔は湖だった。「トオノ」の「トオ」とは「カムイ・トー(摩周湖)」、「ポロト(大沼)」等と同様、アイヌ語で湖沼を意味するという。
 いずれにせよ、ここは四方八方を山に囲まれた別天地である。「壷中之天」という中国の故事成語を思い出した。周囲が俗世間から隔絶された土地という意味だが、まさにここは物理的にも壷中之天だった。
 夕暮れ時に道路沿いに藁ぶき屋根が見えた。この地域特有の「南部曲り屋」である。期待が高まる。実はこの日の宿はその名も「曲り屋」であった。しかし宿に着くまでの数百メートルの間は私道なのか未舗装道路でカーナビ上に道が見えない。それまでも被災地を走ってきたため、未舗装道路には慣れつつあったが、民宿までの私道が未舗装とは思わなかった。そしてガタガタ道をゆっくりと行くこと2分ほどで、お目当ての民宿、「曲り屋」が現れた。

「曲り屋」に泊まる
 中に入ると薄暗い土間でご主人が待っていた。屋内は時代を経て醸し出される「家のにおい」がたちこめている。決して臭いわけではない。初めてだが懐かしい。昭和五十年代の中国山地の盆地で生まれ育った私にとっては、「勝手知ったる人の家」という感じだ。ロビー代わりの板の間には当然のことのように囲炉裏がしつらえてあり、また壁際には糸車や蓑などの民具や農具が所せましと並んでいる。まるで民俗資料館だ。
 そもそも旧南部藩以外の多くの場所では馬小屋と母屋は別棟というのが常識だ。しかしここでは長方形の母屋の隅に正方形の馬小屋を連結させた「曲り屋」が一般的だ。これは南部藩が農民に対して馬の飼育を奨励したこと、また雪深い土地柄ゆえに馬小屋が母屋と離れていたら冬に不便であることなどから、このようになったといわれるが、定かではない。
 食事はその日の宿泊者たち数人とともに、囲炉裏を囲んで郷土料理をいただいた。主人いわく、震災以降、土木関係者の宿泊者が多かったというが、その日はたまたま首都圏の観光客二名と京都からの研究者一名のみだった。昭和のユースホステルのような雰囲気である。
 食事をいただいてから部屋に通された。20ワットほどの薄暗い電球で、いかにも座敷童でも出そうな雰囲気だ。そういえば先ほどみた糸車にしても、「遠野物語」には夜な夜な出てきて糸車を回す「蔵ボッコ」なる座敷童の話がある。
 今でも時々思い出すことがある。幼少期、いとこがうちに泊まりに来た日の夜、街灯一つない外から光が差し込み、ふすまを照らした。するとそこに二人の子どものような影がスキップして踊っているではないか。いとこを起こそうとしたが、「うるさい」と言われて相手にしてくれない。私はしばらくその影を見ていたが、そのうち寝てしまった。翌朝「夕べ寝とったのになんで起こした?」と、いとこに言われたのだから、私の夢ではなかったはずだ。後に古い家には座敷童が住み着くと知ったが、そういえばその家は当時ですでに築80年以上は経っていた。それ以来、私が見たのは座敷童の影ということで納得している。
 翌朝は早く起きた。もしかしたら座敷童にあえるのではと期待していたが、会えなかった。

続石(つづきいし)―山男と山女と渡来人
 朝食前に一人で車に乗って「綾織(あやおり)」という集落に向かった。目的地は「続石」である。渡来人関連の場所を歩いてきたため、「綾」=古代朝鮮半島南部の安羅伽耶(アラカヤ)に由来するところが多いことは直感的にピンときた。しかも隣接する町の駅名は荒谷(あらや)前駅である。また綾織の「織」とは、彼らが伝えた織物の技術ではなかろうか。さらに駒形神社まである。「駒」=「高麗(こま)」であろう。
 「遠野物語」に本格的に始まる民俗学は、大陸からの影響が及ぶ前の日本のすがたを、文献だけでなくフィールドワークを通して明らかにしようとしたが、その遠野でも最も神秘的な場所に思える続石周辺まで渡来人の影が見られるのは興味深い。 
 最寄りの駐車場に車を停め、十分あまり山道を歩いた。朝早くだからか人気は全くない。すると軽自動車の半分ほどの小さな岩の上に、大型車サイズの岩が落ちそうで落ちないような絶妙なバランスで乗っかっている。ただ、ここが渡来人の集住地であるならば、韓国の誇る世界遺産、支石墓にもよく似ている。左脳ではそう理解しようとしたが、やはり全く不思議な光景だ。
 「遠野物語」では、ここに山男と山女が現れるという話が残されている。山では平地の常識ではどうとも理解がつかない現象が起きるらしい。そのような予備知識がなかったとしても、背筋がぞっとするような雰囲気だ。考古学的理解ではどうしようもない、その場の雰囲気。長居無用とばかりに、写真を数枚撮ると、山を下った。駐車場にでると視界が開いた。「遠野物語」の冒頭に「願わくは之を語りて平地人を戦慄(せんりつ)せしめよ」という名分がある。「山男」から見れば、東京から来た私は「平地人」以外の何者でもない。たとえ中国山地の小盆地で生まれ育ったとはいえ、「平地人」の私は、木々がうっそうと茂る山地の中は得体のしれぬモノが出てきそうで、「戦慄」とまではいかないが不気味に感じた。
 同じ遠野でも、盆地と山地の雰囲気の違いを痛烈に感じた後、宿に戻って朝食をいただき、主人に見送られて市街地に向かった。

林立する「遠野物語」関連施設
 その日は朝から地元のシルバーガイドの方に案内してもらうことになっていた。七十代の女性ということで、腰の曲がったおばあさんを勝手にイメージしながら待ち合わせ場所の公園の駐車場で待っていたら、トヨタのランドクルーザーが現れた。まさかシルバーボランティアの方がランドクルーザーでお出ましとは思わなかったが、冬場は4WDでなければ雪道で立ち往生するし、それに加えて震災で道路状況が悪いところもあるからとのことだ。非常にきびきびしたガイディングが印象的で、意識してかせずか、おっとりと優しい南部弁で話される。聞き取れないこともあるが、ここまできて東京言葉だったら逆に興ざめだ。
 コースは市内の「遠野物語」関連地巡りだった。この町はまじめにまわろうと思うと時間がかかる。なにせ、民俗学関連施設だけでも「伝承園」、「とおの物語の館」、「遠野ふるさと村」「遠野市立博物館」と、切り口の微妙に異なる類似施設が四カ所もあるのだ。これらは一部のマニアには垂涎の的だろうが、そもそも「遠野物語」はみながみな憧れる、または関心をもつ分野ではない。
 市内に散らばる妖怪関連の舞台の他に、四カ所もの施設、さらに道の駅をまわることで、市内に宿泊させ、観光客にカネを落としてもらうという戦略なのだろうが、類似施設と思われがちなものが並ぶにもかかわらず共通パスがなかったというのは、単に様々な利権が絡まった結果なのかもしれない。ちなみに隣接する花巻市も、宮澤賢治関連の施設が複数ある。

オシラ様伝説
 これらの中で「遠野物語」理解に最も役立ったのは、私の場合は「伝承館」だった。「物語の館」のように劇場や柳田國男展示館はないし、「ふるさと村」ほど体験施設も家屋数も多くはない。また「市立博物館」のような学術的専門性はない。ただ、ここには全く「遠野物語」に造詣がない一般観光客でも背筋が寒くなるような空間がある。それは「御蚕神堂(オシラ堂)」である。
 数ある「遠野物語」のなかでも有名な話が、「オシラ様伝説」だ。昔自分の家で飼っている馬に恋をし、それを夫として毎晩馬と交わっていた。娘のこのような様子をみてしまった父親は、「娘を奪った憎い馬」を庭の桑の木につるしあげて首を切り落とした。すると悲しんだ娘は、切られた馬の首にまたがり、宙に消えていった、という遠野一有名な説話だ。
 曲り屋ならではの説話ではあるが、遠野の農家では馬の首をかたどった棒を頭部としてひな人形サイズの布をまわりにかけて飾り、拝むという。しかし一般家庭にまで入って拝見するわけにはいかない。そこでこのオシラ堂では、八畳ほどの部屋の中央に桑の木を立て、赤い壁ぎっしりにオシラ様を貼りつけている。その数なんと1000体。
 インスタレーション・アートのようでもあるが、土俗的な怨念めいたものまで感じさせるこの異空間は、人間と馬の関係について考えさせられる。他の施設の展示品は左脳を刺激するが、ここは右脳を刺激し、なによりも心に迫るなにかがある。
 また、「遠野物語」は國男が著述したとはいえ、インフォーマントとして話をしたのは、当時東京で知られつつあったこの町の出身者、佐々木喜善である。國男の記念館はゆかりの地に数カ所あるが、佐々木喜善に関する常設展示は伝承館にしかないため、そのような意味でもこの伝承館は行く価値があった。

カッパ大国日本?
 遠野のみならず、日本各地に河童伝説がある。國男のふるさとの兵庫県の辻川では「河太郎(ガタロウ)」と呼ばれ、また第二のふるさと茨城県の布川からほどちかい牛久沼や手賀沼にも河童伝説がある。これらの地には例外なく河童の銅像が作られている。ちなみに牛久沼では河童の水墨画を描き続けたことでしられる小川芋銭(うせん)の旧居もあるが、國男とは面識がなかったらしい。
 一方、当時山手線から常磐線に枝分かれしていた田端駅周辺には大正時代文人のコミューン「田端文士村」が存在した。そこの「顔役」だった芥川龍之介は上高地の河童に社会風刺をさせる「河童」を発表したが、それも國男と出会って着想を得たものという。
 その他にも日本各地に河童が出没するようだが、遠野にもその名も「カッパ淵」がある。狐や狸、鬼などの日本の妖怪と同じく、河童にもユーモラスなイメージがある。ここ、遠野の河童も御多分に漏れず、馬を沼に引きずり込もうとしたが村人たちに捕まり、二度としないと約束させられて釈放されたりする間抜けな存在に思われている。
 そうかと思えば生まれた子に水かきがあったため河童の子だとされ、切り刻まれて樽に詰められたというグロテスクな話、さらに生まれた子が河童だったので道端に棄てたが、気になって戻った時にはいなかった話などもある。ちなみになぜ棄てた子が気になったかというと、かわいそうだからではなく、見世物小屋に売れば金になったのにと思ったからだという。さらにある集落では二代にわたって河童の子を産んだ士族の娘がいて、今は村会議員をしているなど、都市伝説的なシュールさがそこにある。

遠野のカッパ淵の癒されない話
 常堅寺の裏手にあるカッパ淵は、他の河童伝説の地と同じくいかにも河童が出そうな雰囲気の静かな流れの小川であるが、竹竿の先に河童の好物のキュウリが結びついたひもをつらしている。他の土地でやったら観光客用のウケねらいか話題作り、あるいは観光協会の「SNS対策」かと思われがちだが、ここでの河童は実在するものと信じられているため、都会人からするとあからさまな集客目的とは言えないその素朴な試みがウケるのだろう。
 とはいえ、遠野における河童伝説の真相はほのぼのとしたものとは程遠い。ここにも飢餓の影が認められるからだ。「遠野物語」に出てくる生まれたばかりの河童の子を殺す話は、河童だから殺したのではない。飢餓で育てられない時に生まれてきた子どもだったので、河童ということにして間引いたのだ。親としては気が咎めるどころではない。國男少年が布川の寺で見た「間引き絵馬」そのものの世界が遠野でも何度も起こっていたのだ。

五百羅漢という餓死者の墓標
 飢饉といえば、天明の飢饉、天保の飢饉など、なんどもの飢饉が日本中を襲った。特に夏に吹く北東風のやませを受けやすいため、奥州の冷害の惨状は想像を絶する。遠野のはずれの山肌の岩々に五百羅漢が彫られている。羅漢とは仏の弟子だが、ここの羅漢は18世紀半ばの宝暦の大飢饉で餓死した人々を弔ったところだ。五百羅漢だから餓死者数も五百人かといえばそうではない。遠野のみでその五倍、南部藩全体ではなんと六万人以上もの人が餓死、または病死したという。まさに生き地獄だ。
 南部藩の支藩の八戸には、安藤昌益という医者がいた。町人の身分ながら思想家でもあった彼は、「自然真営道」なる本を著し、人間の決めた道よりも天地の決めた自然の道に帰ることを主張した。ここには國男が宮崎県の椎葉村で見た自然の恵みに感謝しつつ狩猟を行い、焼畑農業によってコメができないところにも蕎麦や稗、粟などを植えて生き続けてきた人間の営みが書かれている。
 六万人もの餓死者を出した南部藩の構造的問題として、まず日本全体で稲作農家が畑作農家より格上という意識が浸透していたことが挙げられる。確かに白米はうまい。しかし亜熱帯植物だった稲を寒冷地で冷害に襲われる東北で作ること自体、自然の摂理に逆らっている。「米は雑穀より上」という人間が決めたモノサシを捨て、椎葉村のように蕎麦や稗、粟を中心に農政を敷いていたら、あのような悲劇は起こりにくかったのではないか。安藤昌益はさしずめ自然の声に従うエコロジストだった。

南部藩にまで押し寄せた「資本主義経済」の影と「イノシシけがつ」
 加えて挙げられるのは当時芽生え始めた資本主義経済がある。江戸で味噌や醤油の使用量が激増したため、当地でも原料となる大豆を焼畑農業で作り始めた。ただ、椎葉村のように傾斜地を四年耕したら二十五年以上休耕地とするような余裕はない。商品作物を現金化して大都市で消費するという資本主義に巻き込まれた当地では、椎葉村のようなのんびりした農業は営めない。そこで土地はやせ、増える一方の休耕地にワラビやクズなどが自生した。それを狙ってイノシシが大発生し、これらを食い尽くした後は、人間の耕作地を狙うようになった。「イノシシ飢饉(けがつ)」と呼ばれるゆえんである。
 目の前の五百人の羅漢のなかには百姓だけでなく武士階級もいたことだろうが、安藤昌益は士農工商という階級社会そのものを、人間のこざかしい知恵ででっち上げたかりそめのものとして猛烈に批判した。彼の造語に「直耕(ちょっこう)」というものがある。農民だけでなく、武士や町人を含むすべての人が直接耕作に従事せよ、という意味だ。武士は農民の血と汗と涙に寄生しているにすぎない。納税者が死ねば、徴税者も死ぬのだ。
仮に目先の現金に惑わされず、自然に従って農耕をすれば、うまいコメは食えなくても五百羅漢など作る必要もなければ、悲惨な河童伝説も生まれないですんだのに。岩に彫られた無数の苔むした五百羅漢の視線を浴びながら、冥福を祈るとともに、早池峰山の向こうで声をはり上げてイノシシけがつと戦った奥州の反資本主義的なコミュニスト、安藤昌益を思った。


デンデラ野=老々介護のグループホーム?
 遠野から北東にしばらく行ったところに「デンデラ野」と呼ばれる扇状地がある。「デンデラ」とは「蓮台」、すなわち極楽の蓮の葉のことというが、実に物寂しい谷間である。
 昔、遠野では還暦を過ぎるとここに連れてこられ、お年寄り同士で共同生活をすることになっていた。全国各地に伝わる棄老伝説の一つだが、ここは姥捨て「山」ではなく野原である。よそでは山に連れていかれたら数日のうちに亡くなるだろうが、ここに連れてこられたお年寄りは違う。藁で作った竪穴住居が復元されているが、昼間はここから田畑を耕しに通っていたという。そして道を挟んだところにダンノハナという場所がある。ここはデンデラ野で亡くなったお年寄りたちの墓であり、お堂が建っている。
 これを現代的に解釈すると、後期高齢者が老々介護のグループホームに住みながら、昼は仕事に行く。亡くなると裏手にある葬祭会館で葬儀をして、永代供養塔に入れられる。というようなものだろうか。現代人は葬祭会館や墓地などが高齢者施設の裏手にあるのをタブー視しがちだが、遠野の人々は「生病老死」が循環するものであるという事実を視覚化することで、受け入れていたかのようだ。
 高齢者にとって死がタブーとなって久しい。これに関しては私も大失言をしたことがある。通訳案内士が集まるパーティに参加した際、後期高齢者の大先輩が体調を崩して倒れられた。すぐに家の方に電話をし、迎えに来ていただくことになった。その時、私は業界の大先輩に「すぐに『お迎え』がきますよ!」と言ってしまって、「あれ?」と思った。それを聞いた周囲のガイド仲間は後で失笑しながら注意してくれた。
 閑話休題。遠野は浄土宗や浄土真宗が盛んなところではないため「お迎え」=阿弥陀佛の来迎という死生観は弱いかもしれないが、村で生まれ、還暦を迎えたら村はずれのデンデラ野に行き、野良仕事をしながら生き続け、亡くなったら隣接地のダンノハナ。そしてその後、魂はおそらく盆地を見下ろす北上高地最高峰、高山植物生い茂る早池峰山に宿り、お盆や正月など、ことあるごとに里に戻る、という「アフターライフ・サイクル」まで可視化されていたのだ。

死者の魂はどこへ?
 終戦の年、柳田國男は周囲の数多くの死にゆく人々を見ながら「先祖の話」の著述に取り組んでいた。特に空襲で家族が全滅したり、また子どももいないまま亡くなったりした人の魂はどこにいくのかという当然の疑問に対して、彼は民俗学的に解説していった。やはり日本の大多数を占める「常民」、すなわち農業等に携わり、定住生活をする人々にとって、死者の魂はどこか高いところを浮遊しているという感覚がしっくりくる。そしてそれらが定着する場所が高いところとしては、まず山が連想されるのだろう。
 私の家の墓は島根県安来市の仲仙寺の丘の上にあるが、平野の向こうには晴れていれば中国山地の最高峰、大山(だいせん)の秀麗な姿がのぞめる。それが先祖の魂の墓標代わりとするならば、先祖の魂もあそこから私たちを見守り、盆や正月に帰ってくるのかもしれない。そんな想像力をかきたてる。ちなみにその丘からは病院ものぞめるだけでなく、丘から降りると200mほどで葬祭会館がある。ここも遠野のように生と死と死後の循環が見られる。
 一方、東京では下町と山の手の境にあたる日暮里に住んでいた。最寄りの墓地は谷中霊園だ。しかしそこから見える範囲に、病院や高齢者施設はほぼない。大都会の真ん中にいきなり死者の世界が広がるにも関わらず、「デンデラ野的緩衝地帯」が存在しないのが気になる。
 あえていうならそこから3㎞ほど離れた東京最大のドヤ街、山谷では、簡易宿泊所住まいのホームレスの高齢者が廃品回収などをしているのを見る。周囲寺院に墓地は多いが、すべて檀家さんの墓であり、ホームレス用ではない。魂の戻る場所である山は全く見えない。まさかスカイツリーを墓標とするホームレスもいまい。そもそも定住者でないホームレスは柳田國男の研究対象とする「常民」に含まれない。
 東京では死をタブー視するあまりか、生の延長線上に死があるという現実、そして「老い」とはその「幕間」にあるという見方、さらには死んだら終わりなのではなく、魂が山のようにどこか高いところに戻っては、盆や正月に子孫のところに帰ってくるという想像上の循環を「非科学的」として切り捨てたように思える。
 一方、デンデラ野や、それに類似した私のふるさとでは、その循環性が目に見える形で存在する。民俗学の目的の一つに、「生命のあり方」の再確認によって、老いること、死ぬことに対する恐怖を取り除くことがあるのではないか。そうであるのなら東京などの大都市で今後も増加が見込まれる独居老人および自分の墓を見てくれる子孫のない人々にこそ、この学問が役立つのかもしれない、などと思いつつ、遠野を去った。 

伊良湖岬と椰子の実伊良湖岬と椰子の実

♪名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ            故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月

 昭和の終わりごろ、生まれ育った島根県の木次(きすき)という町では、夕方になると、山の上のラウドスピーカーから時報替わりのメロディが流れてきた。町の子どもたちにとって、それは遊んでいても帰らなければいけないという合図のようなものだった。中学時代の音楽の時間、そのメロディが「椰子の実」であることを知った。その舞台となったところが愛知県の岬であることを知ったのは、大学生になってからだった。

 愛知県には東西に二つの半島が突き出ている。西の尾張名古屋から南に突き出す知多半島と、東の三河豊橋から西に突き出す渥美半島である。渥美半島の最先端、伊良湖岬は、1901年に島崎藤村が発表した抒情詩「椰子の実」の舞台である。しかし彼自身の目で椰子の実を見たわけではない。その数年前、大学二年生の柳田國男がこの地でひと夏を過ごしているとき、浜辺を歩いていると、都合三回ほど、黒潮に乗って南のほうから流れてきたであろう椰子の実を見つけたのだ。

♪旧(もと)の木は生(お)いや茂れる 枝はなお影をやなせる     我もまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ 

 海岸で見た椰子の実をたわわに実らせていたはずの、おそらく東南アジアかどこかの椰子の木を連想した國男青年は、そこに日本人のふるさととしての「ここではないどこか」があることを感じたのだろう。はるか南方と日本列島がつながっていることを目の前で実感した彼は、その話を文学仲間の島崎藤村にしたところ、「その話、俺がもらった!」と言われた。この名曲の歌詞は國男の話から着想を得て作った作品だったのだ。

♪実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂                海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ異郷の涙           思いやる八重の汐々 いずれの日にか故国(くに)に帰らん

文献による宣長の「國学」と、漂流物による國男の「民俗学」
 中国山地の國男にしても、信州の藤村にしても、海を見て育った人間ではない。が、この広大な太平洋の向こうに、いずれ帰るであろう故国(くに)をもとめた。國男が滞在した場所は、現在伊良湖シーサイド&スパというリゾートホテルが建っている。
 そこにチェックインし、よく晴れた次の日の朝、「椰子の木」の詩碑のある海岸を歩いた。目の前の伊勢湾の向こうは伊勢志摩が霞んで見える。この岬の対岸、伊勢の松阪で、18世紀に国学を大成させた本居宣長のことを思い出した。
 「唐意(からごころ)」すなわち儒教や仏教など、外来思想が入ってくる前の「やまとごころ」を探求したこの松阪の医者は、最古の史書である「古事記」を研究し、「古事記伝」の著述によって國学を大成させた。さらに「源氏物語」の「もののあはれ」の美意識など、古典を通して「純粋な」日本のこころを探求した。
 一方、宣長の死から一世紀ほどたった19世紀末にここを訪れた柳田國男は、文献だけでなくフィールドワークを通して脈々と受け継がれてきた「常民(庶民)」による「日本のこころ」を探求した。彼は遣隋使や遣唐使、日宋貿易に日明貿易といった東シナ海+瀬戸内海という「公式ルート」による上流階級の文明ではなく、太平洋を漂流して流れ着いた非公式的な南方文化に求めた。そして自分の学問、民俗学を「新国学」と位置付けるにいたった。

「中華的北方文明」と「土着の南方の風習」
 例えば遠野には「コンセイ様」という男性器を写実的にかたどって磨いた木があるが、子孫繁栄を願うにしても、中華的北方文明ではそのような直接的な「はしたない」表現はしない。ただ、日本各地のみならず台湾原住民など、南方系ではしばしばみられる。
 さらに力士のしめるまわし、そして男性のしめていたふんどしなども、南方ではどこでもあるが、北方文明ではありえないほど「はしたない」ものにみえるらしい。そのほか、床を張るときも高床にして湿気がこもらぬように工夫したり、納豆やオクラ、トロロ芋のようなネバネバした食物、そして発酵食品を好んだりする傾向からしても、中華文明流入以前の「日本文化」は、中国南方から東南アジアにかけての特徴との同質性が高い。
 ところでこの詩に歌がついたのが日中戦争勃発の1年前の1936年。翌年、日中戦争が勃発すると、軍部は本格的に「南方」の権益を求めて大東亜共栄圏を構想し始めた。「♪いずれの日か故国に帰らん」とはつまり、日本のルーツが東南アジアなのであれば、日本が欧米列強をここから追い出し、大きな「故国」としてともに栄えていこうというイデオロギーの「応援歌」とされたのだ。もちろん学生時代の國男や藤村に、そのようなイデオロギーがあったはずもない。しかし当時の国民に大きな影響をあたえたことは疑いのない事実だ。
 出雲人の私が「椰子の実」と聞いて思い出すものがある。靖国神社の資料館、「遊就館」に展示されている「奇跡の椰子の実」である。大戦末期にフィリピンから日本兵が出雲の戦友にメッセージを墨書して流したら、黒潮と対馬海流に乗ってふるさと出雲の稲佐の浜に打ち上げられたものだが、フィリピンから「故国」出雲までかかった年数はなんと25年。朽ち果てずに流れ着いたこと自体が奇跡なのかもしれない。ちなみにその「戦友」は、漂着当時健在だったが、地元では出雲の神様の御縁と信じられている。
 柳田國男は基本的に支配層の北方文明と「常民」の南方文明を対比させる傾向にあるが、その「南方」を姓にもつ知の巨人の跡をたどりに、渥美半島から紀伊半島に向かいたい。

南方熊楠(みなかたくまぐす)―紀伊半島の「知の巨人」
 南方熊楠。歴史の教科書や通訳案内士試験に出てくるような人物ではないかもしれないが、柳田國男の築き上げた日本民俗学とは別の学問系統を一大で築き上げた人物だ。奇人変人。孤高の学者。破天荒。彼ほど「キャラのたつ」学者もいまい。いや、学者という枠では収まり切れないほど、自然保護活動にも尽力したが、とはいえ社会運動家という枠にも収まりきらない。当てはまる言葉がないので、とりあえず近代日本の生んだ傑作中の傑作といっておこう。
 12月末の雨の降る日、彼の滞在していた和歌山県の白浜を訪れた。翌朝、前夜の雨がうそのようにやみ、日本三古湯として名高い白浜温泉から黒潮に洗われる円月島を横目に2㎞あまり車を走らせると、亜熱帯植物がこんもりと生い茂る丘がみえてきた。「南方熊楠記念館」の表示があるので車を停めて丘の上にあがった。
 彼の人となりはネタに事欠かない。大政奉還の年、すなわち1867年に生まれ、幼少期から絵心があり、特に写生能力にたけていた。さらに古文、漢文もすぐに覚えるほどの記憶力。さらに植物や鉱物など、あらゆることに熱中した。「好きこそものの上手なれ」というが、歩く百科事典を地でいく少年時代だった。それを表すかのように、展示室には少年時代のスケッチや和綴じの事典などが並ぶ。

東大中退から大英博物館所属の「ネイチャー」誌寄稿の学者に
 1884年、東大を目指して予備門である一高に受かる。ちなみにここで後に二・二六事件で暗殺される高橋是清に英語を学んだ。同期には夏目漱石や正岡子規がいたという。だが数学が苦手で2年後に退学し、帰郷。しかし親の事業を継ぎたくなく、世界一の学者になるべく渡米留学を父親に認めさせるためにハンストまでした。ビジネススクールに行き、事業を継がせることで父親も折れ、1887年から92年まで米国各地で働きながら学んだが、ビジネススクールどころかキューバで地衣(コケ類)の新種を発見したり等、やりたい放題だった。
 その後8年間ロンドンで過ごし、大英博物館を拠点に科学雑誌「ネイチャー」に論文を掲載する。ちなみに同誌での掲載数は51篇ということで、ノーベル賞こそ取れなくても当時世界でもっとも有名なアジア人科学者の一人だったといえよう。館内のショーケースにも赤黒く汚れたカラーページのないネイチャー誌が展示されている。
 ここまでの経歴を見ると、どんなエリートかと思われがちだが、実生活では貧困にあえぎつつ本を買い、東洋人であることで差別に遭えば取っ組み合いのけんかの末、自由自在に嘔吐できるという得意技(?)で相手に吐瀉物をお見舞いしたという。
 また、服装には全く頓着せず、ボロボロの服で、部屋では全裸だったらしい。ちなみにロンドンでは訪英した邦人との付き合いも少なくなかったようで、高野山の高僧と気が合って、僧衣一式を送られたことがある。するとその僧衣を着用してロンドンを闊歩していたらしい。その宇宙的なまでの頭脳に比べると、あまりにその「奇行」が目立つ。
 1900年に帰朝してからは現在の「吉野熊野国立公園」に該当する那智の山河を跋渉し、植物や菌類の最終に務めた。そんなときに彼を訪ねてきたのが、後に辛亥革命のリーダーとして中華民国の臨時大総統となった孫文である。ロンドン時代に出会って意気投合した彼らだったが、その語の来日時にわざわざ旧恩を温めるという、それだけの目的で孫文は和歌山まできたのだ。館内には彼が熊楠の手帳に書いた文字が見られる。「海外逢知音(外国にて心の友と出会えるなんて)」。単なる学者ではない。まさに「英雄、英雄を知る」である。

國男と熊楠
 館内を歩いていくと、柳田國男からの手紙が多数展示されているのを見た。学問に対し天真爛漫で、世俗的なことには恬淡とし、破天荒な熊楠だが、柳田國男とも一時期熱心に文通によって意見を交わしていたのだ。1906年ごろから政府が神社合祀政策を進めるや、和歌山県内に6000近くあった神社も1908年には三分の一にまで減った。政府は神社を「合理化」することで祭祀の「無駄」を省くとともに、政府により日本中の神社を一元管理しようとしていたのだ。
 それに対して猛反対したのが熊楠だった。特に宗教的理由があるわけでも、反政府的な性格であったわけでもない。禁足地であった神社には様々な生物や菌類が生息していたが、合祀されることでそこが宅地や商業地となり、貴重な動植物、菌類、さらには粘菌類などが失われること、ひいてはそれらに伴う日本の伝統文化が廃れることを危惧したのだ。
 そしてその時、あるときは専門家の話を聞く立場の役人として熊楠の話に耳を傾けつつ、自身も日本の大切な民俗文化を守ろうとしたのが、他でもない、柳田國男だったのだ。政府側の人間という手前、國男は自分の名を伏せたまま、エコロジストとしての熊楠の主張を自腹で出版し、関係方面に配布し、帝国議会に建議できるよう根回しした。後の日本民俗学者の父、柳田國男も、このときは熊楠の裏方である。しかも彼は往復書簡を通して専門の民俗学についても色々質問していた。ある意味で彼の学問上の師でもあったのだ。
 1920年、國男は官僚生活から足を洗い、朝日新聞の論説を執筆すると同時に、全国を行脚して在野の学問、民俗学の大成に力を尽くした。一方の熊楠はそのような流れとは無関係に、紀州から動かなかった。

昭和天皇に「キャラメル箱」?國男には寝ながら対応?
 南紀で最大の町、田辺には彼が1916年以降主に居住していた邸宅が今なお残っており、開放されている。庭は雑然としているが、この混沌こそが熊楠なのだろう。
 ここに滞在していたころの1929年、昭和天皇が和歌山県を訪問した。その折り「ご進講」として学者天皇の関心事である変形菌をもっていくのだが、その際の箱が大きなキャラメル箱だった。当時「現人神」と崇められていた天皇にキャラメル箱である。彼にとって人間の勝手に作った天皇制などというものは価値がなく、生物学に熱心な男が天皇の役割をしている、という程度の認識で、生物の話で盛り上がるのがうれしかっただけなのだろう。ちなみに館内一の目玉となる展示品が、その伝説のキャラメル箱というのもここだけだ。
 昭和天皇への「ご進講」という、世間的には一世一代の晴れ舞台だったろうが、彼にとってはその後も研究と発表が続くばかりだ。
 1941年、日本が真珠湾攻撃をした3週間後、彼はこの家で息を引き取った。享年73歳だった。彼は民俗学者でもあったが、それ以上の知的巨人だった。國男が日本各地をくまなく歩いて日本の真の姿を見極めようとしたのに対し、彼は外国との比較、そして宇宙的視野と、菌類、粘菌類からのミクロの視点で日本を見ていた。互いの人生で神社合祀騒動前後に互いに歩み寄り、全身全霊でぶつかったが、民俗学プロパーの國男と、ミクロ・マクロ両面から、または比較文化的に民俗学を見る熊楠とが、真の意味で交わりあったとは思えない。
 1913年、國男39歳の時に田辺を訪れ、8歳年上の熊楠に面会したが、熊楠は裸で泥酔しており、翌日改めて伺ったが、布団の中から声だけ出して正装の國男と話したという。シャイだったのか、國男のことを歯牙にもかけなかったからなのか。もしかしたら國男の持つ「なにか」に畏れをなしたからなのか。二人が対面したのはこの時限りだが、とはいえ、熊楠はこの家屋敷を法人化し「南方植物研究所」として現在に至る。
 帰りがけに改めて彼の顔写真のパネルをまじまじと見つめた。南方系、または「縄文系」の、浅黒い顔にギョロ目のこの男を形容するに「豪放磊落」とか「天衣無縫」とか、なぜか北方中国系の故事成語ばかりでくる自分自身の語彙能力の乏しさがかなしい。それにしてもとらえどころがない。ギョロ目の巨人に別れを告げて、さらに南に向かった。

南を目指して
 明治時代に伊良湖岬に漂着した椰子の実を見て、民族の源流が南方にあると直感的に思った柳田國男は、明治最後の年から大正最初の年にかけて破天荒な知の巨人、南方熊楠と往復書簡を交わした。その数、國男は熊楠に74通、熊楠は國男に160通以上。熊楠の神社合祀反対運動を支持したが、学問上において見解の相違があり、最終的には物別れに終わった。「南方(みなかた)」とは縁がなかったとはいえ、國男の「南方(なんぽう)」に対する関心は高まる一方だった。
 1921年1月に沖縄本島および宮古島、石垣島などを訪れ、大正最後の年にして昭和最初の年の1925年にはそれを「海南小記」としてまとめた。そして戦後あらためて沖縄を訪れた彼が、生前最後に出版した「辞世の書」ともいえるのが1961年の「海上の道」である。中国山地の盆地で生まれ、「坂東太郎」のほとりで育ち、東京で学んだ彼は、北国の記録「遠野物語」で世に知られ、民俗学を世に知らしめた。しかしその後の彼のベクトルは明らかに「南」に向かっていったのだ。 

折口信夫-「マレビト」徐福と神倉神社の「依り代」
 そしてそれは民俗学上の後継者でもあり、歌人でもあり、さらには同性愛者という観点から民俗学に新しい風を吹かせた折口信夫にも多大な影響を与えた。折口信夫の広めた概念で「マレビト(客人)」と「依り代(よりしろ)」というものがある。「マレビト」とは折に触れあの世、またはどこか遠いところからやってくる霊的存在のことを指す。人々は日常生活ではめったに会えないこのマレビトを熱くもてなし、祀ったという。
 熊野三山で知られる紀伊半島熊野地方最大の町、新宮市には「紀伊半島の霊場と参詣道」として世界遺産登録されている神倉神社がある。新宮高校裏手の、ありえないほど急で不ぞろいな石段を苦労しながら登っていくと、野球部員たちが駆け上がってきて追い付かれた。さらに上がると、彼らが戻ってきて今度は転びもせずに駆け下りてくる。足を踏み外したら大変だ。
 登ること20分ほどで頂上のゴトビキ岩と呼ばれるヒキガエルの形をした巨岩が現れた。典型的な磐座信仰だが、ここから南に広がる太平洋はまさに絶景である。神々が降り立つものや場所を「依り代」というが、この岩もその一つだろう。市内を歩くと、この岩がはっきりと見える。もしかしたら海を渡る人々はこれを目印としてきたのかもしれない。その中には遠く南方から黒潮に乗って流されてきた人々もいたことだろう。
 町を歩くと本格的な黄色い瓦の中華風楼門が現れた。「徐福公園」とある。秦の始皇帝が不老長寿の薬を求めて東の海の向こうにある蓬莱という地がここであるということになっているのだ。私はちょっとした「徐福マニア」で、北は津軽半島、そして丹後半島、佐賀市の金立山(きんりゅうさん)、南の薩摩半島など、「徐福来航地」と比定されるところを何カ所かまわってきたが、徐福記念においてここほど立派な公園もない。
 遠くから来た彼ら一行は、この地に農業、漁業だけでなく捕鯨法も教えたという。捕鯨というと近くの太地町が有名だが、そこも彼らの技術が継承されていたのかもしれない。海の向こうから来た、特に異能の人物を神格化すること。これが「マレビト信仰」の典型例だ。
 ここから南西に行くと、本州最南端の潮岬である。その東には大島があるが、そこは明治時代にトルコのエルトゥールル号が漂着した場所で、地元の漁民たちは手厚くもてなしたのも、「海の男たちの仁義」であるとともに「マレビト信仰」でもあったのだろう。

お遍路さんも、「マレビト」-四国から九州へ
 紀伊半島から紀伊水道をこえると四国である。四国といえばお遍路さんの八十八カ所巡りが知られるが、地元の人々は「お接待」といって、見知らぬお遍路さんに休憩してもらったり茶菓でもてなしたりする。これは自分たちの代わりに修行をしてもらっているから、またはお遍路さんの姿に大師様の姿をみるから、などというのももちろんあるが、ここにも時おりやってくる異能を持った外部者をもてなすマレビト信仰のあらわれなのからなのもしれない。現に、香川県と徳島県の一部で作られる砂糖菓子「和三盆」は、この地を訪れたお遍路さんがサトウキビをもたらしたからだという。
 高知県の東に突き出た室戸岬から西に突き出た四国最南端の足摺岬まで車を走らせた。12月末でも日差しがきつく、サングラスと日焼け止めを購入したほどだ。そして足摺岬から海をのぞんだとき、確かに海の色が青黒かった。「黒潮」とはよくいったものだ。

九州に漂着した「マレビト」たち
 四国南西部から宇和海を渡ると大分県および宮崎県である。大分県の臼杵市には瀬戸内海と太平洋の境あたりに黒島という小島がある。暮れのある日、くじゅう連山を朝に発ち、昼に小舟でその小島に渡った時、そこでの生暖かい雰囲気が実に「南洋的」だった。そしてそこは1600年に日本に初めのオランダ船、リーフデ号が漂着したところである。それに乗っていた英国人航海士ウィリアム・アダムズは日本に西洋式大砲を伝え、家康を関ケ原の戦いでの勝利に導いたとされる。まさに「マレビト」だった。
 また、薩摩半島の坊津には鑑真やザビエル、屋久島にはイタリア人宣教師シドッティなど、宗教者が、種子島には倭寇の王直率いるポルトガル人が火縄銃を伝えた。南西諸島と平行に流れる黒潮は、まるで「天然ベルトコンベア」とでもいわんばかりに、様々な事物を日本に伝えてきたのだ。海の彼方からやってきた「マレビト」こそ、恵みをもたらすことを、沿岸部の人たちは実感していたに違いない。
 南島から日本本土には、こうして数多くの恵みがもたらされたが、その逆は必ずしもそうではなかった。江戸時代に薩摩藩は武力によって琉球王国を従えつづける搾取と圧政の時代が続き、明治時代からも南島は日本政府によって「最下層」扱いされ、大阪市大正区など本土の沖縄県民居住区では「琉球人・朝鮮人お断り」の不動産屋もあったという。沖縄人は「日本国民らしさ」を求められ、それに応えようと必死になった。
 その挙句、第二次世界大戦では「北」の都合で本土決戦の時間稼ぎとして戦場となった南島で、島言葉を話すだけでもスパイ容疑で銃殺されることさえあった。さらに戦後も米軍による統治が26年続く。そして國男が沖縄を初めて訪れたのも、そのような「支配される南島」の時代だった。

浦添と伊波普猷の墓碑

 那覇市の東の浦添に行った。首里が琉球王国の中心となる前に政治の中心だったこの浦添城は沖縄戦の激戦地の一つとして知られている。城跡を歩いていると伊波普猷(いはふゆう)の墓碑があり、次のように刻まれている。

「彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し、愛したために憂えた彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」

 那覇出身のこの民俗学者の存在は國男にとって大きく、伊波にとってもそれ以上に國男の存在は大きかった。國男が沖縄を初めて訪れ、「海南小記」を著したのは1921年。その訪問時に伊波普猷と出会う。琉球王国時代の17世紀の歌謡を集めた「おもろさうし」というものがある。しばしば本土の「万葉集」に対比されるが、國男は伊波にこの研究を勧めると同時に、本土と沖縄の対照文化的視点をアドバイスした。その後、伊波は「沖縄学の父」と呼ばれる存在となっていく。
 本土人と沖縄人。生まれ育ちは異なれど、二人は「日琉同祖論」という点では一致していた。ただ、この「論」は非常に政治的な意味を持つ。日本政府はこれを根拠に清朝が琉球の支配権について云々することをけん制しようとしていたからだ。ただ、國男は、たとえ聞き取れなくても本土と南東の言葉も言語的に共通していることは承知していた。南島こそ日本文化の源流と信じていたため、自らの「民俗学」を完成させるためにも「日琉同祖」を信じていた。つまりアカデミックな意味での「日琉同祖」だったといえよう。
 一方で伊波にとって、本土に比べて蔑視と嘲笑の対象とされるふるさとと同胞と自分自身を憂い、自分たちも大和人と同等であると信じたかった。「我々は大和とは別の民族」なのではなく、「日本人」の一大亜種であると信じたかったのだ。「同床異夢」の感もあるが、基本的スタンスにおいて二人の意見が一致したのはこのような背景がある。こうした「違い」を「個性」として本格的に認められるようになったのは、平成になってからなのかもしれない。

二つの「みんぞく学」
 「民俗学」と「民族学」。ひらがなで書けば同じでも、漢字で書くと取り扱う態度がことなる。「族」のほうは、例えば欧米人がアジアやアフリカに行き、「未開人」の文化を対象とする。言い換えるなら「コイツら何者だ?」というまなざしが出発点にはある。一方、「俗」のほうは、例えば國男ら「日本人」が日本各地の農村や漁村、山村などに赴き、そこでの生活を探求することで、「日本人」の姿をあぶりだそうとする学問だ。そこにあるのは「俺たち何者だ?」である。
 沖縄人の店子を拒否する大阪の不動産屋など、多くの本土人にとって、沖縄人は「コイツら」だった。しかし、國男らにとっては沖縄人も「俺たち」の範疇だった。彼にとって北は北海道の和人から南は沖縄人まで、みな「俺たち」だったのだ。
 ところで柳田が沖縄に関心を持った理由の一つに、女性の「ハジチ(入れ墨)」が挙げられる。これを見たときに彼の脳裏に「魏志倭人伝」の一節、「倭人の男子は顔に入れ墨をする」という部分を思い出したに違いない。3世紀の倭人の習慣を、性別は異なれど、南島で保持されていたことを喜んだことだろう。
 ただ彼がそれを「発見」したころには、沖縄の入れ墨はすでに野蛮な風習として1899年に禁止されていた。本土人からは好奇な目で見られていることを知っていた伊波にとっては、國男がこれをきっかけに沖縄に興味を持ったことは気まずいものだったことだろう。

伊波の学生時代の沖縄差別
 彼の沖縄県尋常中学時代の1894年から翌年にかけて、鹿児島から赴任した校長が「普通語(標準語)もままならない沖縄の生徒には、気の毒だから英語の受講を免除する。」と、「人情」と「上から目線」が交差した理由によって英語科を廃止したことに対し、伊波らはストライキを決行した。さらに生徒たちに理解を示し、信頼のあった新潟県出身の教師が解雇されると、彼らは退学して反抗の意を示した。歴史的に琉球を支配していた薩摩人に対する反発もあったのかもしれない。
 そのような過去を経て東大に進学した伊波と、国内にあったそのような差別や偏見に気づかず進学した國男。支配者側と被支配者側という壁に阻まれていた彼らの意見が完全に一致したわけではないが、民俗学というフィルターを通せば大和も沖縄も上下はないことを信じていた。これは民俗学という学問のもつ客観性だったといえよう。
 伊波の墓碑から離れて歩いていると、「ようどれ」という岩盤をくりぬいた王陵にたどりついた。ここは城であるが、王陵でもあったのだ。目の前は広々とした東シナ海だ。五、六人の若い米兵が通りすがった。ここは彼らの曽祖父世代が攻略しようとし、多くの人が命を失った場所でもある。彼自身は本土にいたため、沖縄戦を体験していないが、敗戦直後の混乱で困窮に苦しむ本土在住の県民の立場を向上させるべく、「沖縄人連盟」の初代会長を務めあげることも能わず、沖縄を想いながら敗戦二年目の1947年に東京で亡くなった。
 彼の想った沖縄の持つかなしさが詰まった浦添を後にし、離島に向かった。

石垣「南ぬ島」空港と八重山のマレビト信仰
 國男が大正時代に沖縄を訪問したとき、彼はあくまで政治色によって沖縄を見たくなかったので、なるべく「沖縄」という日本側の呼称も「琉球」という明清に冊封していた時代の呼称も使わず、奄美も含めて「南島」と呼んだ。ところで八重山諸島には漢字表記でその名も「南島」という空港がある。厳密には「南の島(ぱいぬしま)石垣空港」だが、那覇空港を飛び立ったジャパントランスオーシャン航空の小型機がこの空港に近づくと、日本語のアナウンスに続いて那覇の言葉とは異なる八重山の言葉で、機内アナウンスが流れる。
 レンタカーで北に15㎞ほど走らせ、目指したところは「野底マーペー」という山だ。登山口が分からなかったので途中の食堂で位置を聞いてから山の中腹の路肩に車を停めた。シダ植物など、亜熱帯の森の中、急な坂を20分ほど登ると、ようやく岩が見えてきた。本土のどこにでもあるような巨石だが、そこから見る風景は、目も覚めるようなマリンブルーの海だ。リーフのところではっきりと色が変わるのが分かる。リーフの向こうにはニライカナイという常世(とこよ)があるという。そこは死後の世界でもあり、楽しい世界でもあるのだろう。
 そういえば紀伊半島熊野でも、海の向こうには補陀落(ふだらく)という観音浄土があると信じられてきた。そして隠岐の島は浄土ヶ浦、三陸海岸は宮古の浄土ヶ浜、下北半島は仏ヶ浦等、日本各地で海の向こうに西方極楽浄土があると信じられている。また、八重山ではニライカナイから白塗りの面をつけて黄色い衣に身を包んだミルク(弥勒)が「天下泰平」という軍配をもってやってくるという行事がある。日本最南端の「マレビト信仰」である。
 2018年にユネスコ無形文化遺産として登録された「来訪神:仮面・仮装の神々」であるが、登録された10件のうち最北端は秋田県男鹿半島のなまはげ、そして4件が鹿児島県の離島(甑島のトシドン、悪石島のボゼ、薩摩硫黄島のメンドン)と宮古島のパーントゥである。その多くが海の向こうから現れるこれらの「マレビト」のうち、南島が四割を占めるというのも驚きだが、國男は南島から日本文化が伝わったと考えているため、発祥の地での分布密度が濃いのも彼にしては「我が意を得たり」と草葉の陰で大喜びだろう。
 絶景ポイントである割には観光地として開発されていない野底マーペーから、石垣島観光のメッカである川平湾に向かった。ガイド付きのグラスボートでサンゴ礁を戯れる熱帯魚が見られるが、グラスボートからもじょうろを逆さにしたような形の野底マーペーの磐座が見える。見える、というより、野底マーペーがこの島の隅々まで見守っているかのようだ。

八重山の人頭税と間引き
 美しい海の八重山だが、悲劇も多い。それは100日間の沖縄戦によるものではなく、300年にわたる首里による直接統治と、薩摩藩による間接統治によるものである。薩摩藩は琉球王国を事実上統治し、奄美にサトウキビを作らせるとともに、通常の税以外に首里の王朝をして宮古島、八重山の15歳から50歳の庶民に「人頭税」を課した。収入のいかんにかかわらず、である。八重山や宮古の美しいことこの上ない上布は、これら離島の女性たちが負わされたものだった。
 妊婦であろうが容赦なく、島では妊婦に岩と岩の間を飛ばせ、落ちて強制堕胎させたという。その税はなんと1902年、つまり明治時代後半になるまで課せられていたというから驚きだ。この国には20世紀まで事実上の奴隷制度があったのだ。
 ちなみにこれを法的に廃止させたのは、遠く日本海側は新潟県の中村十作だった。そういえば中学時代の伊波ら沖縄人をかばった教師も越後出身だった。南国薩摩に比べると北国の人は沖縄に対する思いが強いようだが、幕末に新政府軍と戦って敗れたという「同病相憐れむ」思いもあったのだろう。
市内の八重山博物館の入口には、「人頭税廃止百年記念の碑」が静かに過去の悪政を訴えていた。

石垣市を見下ろすバンナ岳
 息子が3歳になってから、私は年に数回、彼を連れてあちこち歩くようになった。いわば「父子の修学旅行」である。常磐地方から始まり、上越、立山黒部アルペンルートなどを歩いた後、4歳になったばかりの息子を連れて向かったのが八重山だった。
 この4歳児と二人で石垣港付近のホテルを夜明け前に出た。夜明け前とはいっても、冬至を過ぎたころの石垣島の日の出時間は7時半だから、朝7時だ。東京とは事実上1時間ほどの時差がある。
 目的地は市内を見下ろすバンナ岳の展望台だ。標高230mほどだが、ここから朝日とともに天地が徐々に明るみを帯びてくるのが一望できる。そして次第に目の前に島が姿を現し始めた。赤瓦屋根の重伝建で知られる竹富島だった。そしてその向こうの青黒い黒潮の向こうに往年のNHKの朝ドラ「ちゅらさん」の舞台になった小浜島、そしてマリュドゥの滝、カンピレーの滝など、エコツーリズムやネイチャーツーリズムの拠点、西表島が姿を現し始めた。何度も地図帳で見てきた八重山諸島の「平面図」が、私の頭の中で立体化していった。
 初めてこの島に到着した直後にも野底マーペーに登ったが、私はいつからか初めての土地に来ると、高いところから見下ろす習慣がついた。それはおそらく國男の弟子の中でも「異端」に属するかもしれない、山口県周防大島出身の宮本常一の影響だろう。瀬戸内海の漁村で生まれ育った彼の父は、時おりふいにいなくなり、仲間と連れ立って旅に出た。常一少年はそんな父親の影響を受け、旅を通して人々の暮らしを知る、あらたな民俗学を大成させた。そんな父親が息子に送った十ヶ条が次の通りである。

宮本常一の父が息子に送った言葉
①汽車に乗ったら窓から外を良く見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちが良いか悪いか。村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうところをよく見よ。駅に着いたら人の乗り降りに注意せよ。そして、どういう服装をしているかに気をつけよ。また駅の荷置き場にどういう荷が置かれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。
②村でも町でも新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登って見よ。そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮やお寺や目につくようなものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ。そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへは必ず行って見ることだ。高い所でよく見ておいたら道にまようことはほとんどない。
③金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。
④時間のゆとりがあったらできるだけ歩いてみることだ。いろいろなことを教えられる。
⑤金というものは儲けるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。
⑥私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえに何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十をすぎたら親のあることを思い出せ。
⑦ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻って来い。親はいつでも待っている。
⑧これから先は子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。
⑨自分でよいと思ったことはやってみよ。それで失敗したからといって親は責めはしない。
⑩人の見のこしたものを見るようにせよ。そのなかにいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。

 このうちの③の影響で、私は初めての土地ではできるだけ高いところから眺めようとしているのだ。また、旅から得た知見を子に伝えた父に憧れたこともあり、息子が3歳になっておむつも取れ、自分のことがある程度自分でできるようになったら「お父ちゃんと民俗学の旅」をするようになったのだ。

八重の汐々を眺めながら
 父の言葉に触発され、宮本常一は旅を通して日本の民衆を見つめるだけでなく、旅先の人と触れ合い、地元の役に立つことを模索した。これは「マレビト」が地元にもたらす技術や智慧の現代版といえよう。彼は例えば佐渡島では気候や地質を生かして柿の生産を提案してみたところ、それが地元の特産品となった。船大工の町で重伝建に指定されている宿根木(しゅくねぎ)の廃校を利用した佐渡国小国民俗民俗資料館でも、彼は顕彰されている。
 また、おりしも観光ブームの昭和40年代には、積極的に地域の観光資源を発掘することを提言している。それはもちろんハコモノや都会の大資本に頼らず、その土地の風土を十分に生かした、地元の人々の生き方を尊重するものである。そこで大切なのが民俗学的見地であるが、昭和四十年代に、すでに民俗学×観光=村おこしという図式を提唱した先見の明には驚くべきものがある。
 國男も精力的に各地を歩いて回ったが、常一から見ると御膳立てされた「大名旅行」であった。東大卒で官僚になった國男と、大阪府立天王寺師範学校専攻科を卒業して小学校の教師となった常一にはエリートとたたき上げという出発点の違いがある。また、國男が農民を中心とした「常民」にフォーカスを当てたのに対し、常一はそこから漏れる「被差別民」や流浪する人にも着目した。父の言葉⑩「人の見のこしたものを見るように」という言葉が影響を与えているのだろう。
 とはいえ、常一が大阪で空襲に遭って大切な資料や書籍、論文など一切合切が灰になろうとしていたとき、なんとか持ちだした本は「遠野物語」だった。やはり民俗学の原点はこの著作にあると思ったのだろう。
 趣味でやっていた三線を出し、調弦してから八重山民謡を数曲、黒潮と島々と朝日に捧げた。ふと「椰子の実」を思い出し、音を探り探り弾いてみた。「♪思いやる 八重の汐々」が目の前に広がる。この黒潮を眺めながら、柳田國男、南方熊楠、折口信夫、伊波普猷、宮本常一…様々な個性あふれる民俗学者たちを想い、山を下りた。
私と息子の日本のこころを追い求める「民俗学の旅」は始まったばかりだ。(終)

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