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私は私、という絶望



人は意外と変わらない。
心理学の授業で習った。
性格の半分は環境要因、つまり半分は遺伝で決まっていて、老いるまで変わらない部分が半分ある。

私は私、j-popで聞いたことあるね
人と比べて生きるのではなく、自分らしく生きよう!という気持ちがこもったことばだと思う。
でも、それって残酷だよ。
自分と対話するのはしんどい。変わらない半分を抱えて生きていくことから、なるだけ目を逸らしたい。
だから私は 「私は私」と反対の生き方をしてきたのだと思う。


憧れの人はいますか。

私にはたくさんいます。というか、今まで出会ってきた人のほとんどが憧れの人物になっているという恐ろしい「憧れ」っぷりです。

勤勉 謙虚 気配りができる 努力を惜しまない 教養がある 自分をしつけられる フットワークが軽い

憧れがごろごろくっついて、固まって、大きな執着が出来上がりました。

執着をゴロゴロ転がして十何年、
そろそろこいつを手放さなくてはならなくなりました。

執着は、私を無視してゴロゴロと巨大化し、それを押す手が痛くなり、
下り坂の時はすごい速さで転がり、上り坂の時は腰が痛くなるほどの重さになりました。

そうして、家族やカウンセラーさんとお話しして、執着、呪い、法律になってしまった憧れ、理想を手放すことを始めました。

絶望と向き合って、私を再始動

理想に手を伸ばし続ける人生でありたかったです。
でも、

私の場合、それはぼろぼろに壊れてしまう生き方でもあると、分かりました。


悔しい。


でも、このままでは
がむしゃらに理想の自分を追いかけて
はめたい型から溢れるものは悪になって、
型がどんどん小さくなって、溢れて、
最終的に全てを失う気がする。

私のnoteを見てくださる数少ない方の中に、
私の高校時代の勉強垢から見てくださっている人もいるのではないかと思っています。

Instagramの勉強垢で投稿したキャプションの
抜粋。

これを見ると本当に私は理想の自分像がはっきりとあって、それに到達するのが人生のテーマなんだな〜と、分かります。
(とにかく自分に厳しくて、志望校合格という
理想を達成したいのがよくわかる あと今の自分がとにかく嫌いというのもわかる)


これからは、それを手放していくことになるようです。

今度は自分と対話をして、生きるテーマを見つけてゆくんだね。

今、カウンセラーさんとお話をしています。
自分を構成するピースが、一度に何十ピースも外れてゆくのを感じます。

キラキラした瞳で、苦しみながらも希望を捨てないで、手を伸ばし続けてきた。
その行為は、間違っていたのかな。

まだ、理想を手放すのに時間がかかります。

ただ、生きる 生まれたから、生きる
というのが
どうも私は苦手なようです。

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