誰を想って教え育てる?

「教育と愛国」を観て。

私は歴史という分野が好きだ。
過去に生きた人々が何を思い行動し、どんな軌跡が生まれてきたか、
想像を膨らませながらも、日々学者さんたちの研究により明らかにされる
成果を知り、「現在」生きている自分とどう縁(えにし)が結ばれているのかを実感するとき、とてもワクワクする。そう、ワクワク。
それは、点でしかなかったものが、奥行きと繋がりを持って、より実体化していくような感覚で、歴史はやっぱり誰かが生きた軌跡なんだと感じられる瞬間でもある。

だけど、先日リベルテで観た『教育と愛国』が教えてくれたのは、今の教育の実体、正確には、教育を包もうとする存在によって、こんなことを思うことさえ許されなくなりそうな、そんな実情だった。
私はこの映画を観て、悲しくて、悔しくて、気持ち悪くて、憤りを感じて、
なぜだか涙が込み上げてきた。

劇中、ある学者が「歴史を学ぶ必要はない」と言っていた。
「正しいことだけを学ばせればいいのだ」と。
国の影の部分を見せることは、正しい歴史教育ではなく、
愛国心を育むためには不要だと。

人文科学系の場面で使われる「正しい」という言葉には
"誰か"の主観が入っていると常々感じている。
その誰かは、本当に"誰か"である場合もあれば、「世間」という実体を持たない"誰か"の場合もある。
いずれにしろ確かなものではない場合が多い。

一体"誰"にとって「正しい」教育なのだろう。
国の影の部分を知ったら、本当に愛国心は育めないのだろうか。

彼らには彼らの正義があり、思うところがあって、行動を続けているのだとおしはかることはできる。でもその正義や行動を、私は理解したいとは今は思えない。

国じゃなくて、家族や恋人や友人に置き換えても、その人の良いところだけを見て、その人を真心で愛すというのは、表面的・短期的にはできたとしても長くは続くかないように感じるし、清濁合わせもつことは、悪いことではなく、むしろ、その人がその人である(その国がその国である)ことの大切な要素だと思う。
それらを鑑みた上でどう感じるかは個人の自由で、その考えや想いを強制することは誰もできないのではないだろうか。

「子供たちの未来」を盾に、策略的に振りかざされる「正しい教育」という矛が、こんなにも狂気性と凶暴性を孕んでいることを、私は映画を通して痛感した。
それは知らなかった(知ろうとしてなかった)だけで、昔からずっと存在していたのだと思う。度が過ぎてきているのが、昨今というだけで。
もちろん全てがそういうわけではないが、その側面が強いという話。

私自身は教師でもないし、何かを教える立場でもない。映画という、意志を持って制作された作品を観たにすぎないし、意志を持って作られている以上
100%それとして受け取るのは違うとも思う。
だけど、2000年代の教科書の仕様が変わっていく過渡期に、児童・生徒として教育を受ける側だった身としては、もっと違う学び方があったのではと感じてしまうし、今教育を受ける側にいる子供たちには、さまざまなものに見て触れて感じ、自分の未来を作る糧にしてほしいと感じる。

ただただ批判的な言葉を述べても仕方ないし、そういうのは既にやりつくされているだろうと思う。きっと今までいろんな人たちが、かき消されながらも声をあげ、その一方で誰かに強制される正しさに振り回されて(振り回されることを選んで)きたんだと思う。
そんな世界に、なんでもない、ただの一般人の自分が触れる余地はほぼないだろうけど、私は私の想いを胸に、土地と人の軌跡を識ってもらうためにできることを諦めないでやっていこうと、改めて感じた機会だった。

納得はできずとも、対立ではなく理解をし、同調を強要するのではなくただただ己の信ずることを直向きにやるだけ。

end

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