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やめてと言ったら、やめてほしい?

「笑っていても、怒っていてもやめてと言ったらやめてほしい!」とポットキャストで話しているキャスタ?がいましたが、どんな時でもという修飾に、ちょっと異論を感じます。

 じゃれあっている際、両者が楽しんでいるレベルでの「やめて」は、もっとやって欲しいという希望もあります。これは、事実です。子供とじゃれあっていて、本当にじゃれあいをやめたら、もう一回と自分から言ってくるケースもあります。
 度が過ぎて、子供が本当に嫌がっているケースでは、これは当てはまりませんが、両者のコミニュケーションがしっかり取れていれば、相手の言葉の真意を読もうとすれば、その「やめて」が本当にやめるべきことか、続けることかが、見えてくるでしょう。

虐待に近い行為

 その若い女性キャスタは、父親がスパルタで、やめてと言ってもやめてくれなかったと話しています。
 この話を聞くと、バイアスが働いていることが理解できますね。どんなことでも、と修飾したくなる気持ちは、父親との怨恨にあります。本来は、やめてと言ってもやめてくれなかった、自分の子供には、やめてと言ったら、どんなケースでもやめるように育てると話しますが、それよりも自分の父親と対話し、潜在的に働いているバイアスを取り除くように働いた方が良いでしょう。

 そうしないと、自分の子供を、自分の偏ったバイアスで育てることになりますよ。「やめてと言ったら、必ずやめなければならない」という、思考の偏りは、成長したときに、楔として、呪いとして、その子供を深く苦しめるでしょう。
 本来は、相手の気持ちを思えるように育ってほしい、と考えるべきではないでしょうか。やめて、の言葉の後ろに何があるのかを、考え、そして理解できるようにする。理解できない場合は、対話する。間違った行動を取ったら、反省し、対話し、かけ間違ったボタンを直せるようになる方が、よっぽど良いと思います。

 その思考の偏りは、失敗したら、母親に怒られるという鎖を手足に縛り付けることになるでしょう。若い女性キャスタが「やめて、と言ったら、必ずやめてほしい」と、偏りを持っているように。

やめてと言っていても、やめてはいけない時

 人生には、やらなければならない時があります。

 虐待、セクハラ、パワハラなどの話とは別次元で、使命として、自分の生命を賭しても、やらなければならない時があります(あえて、大袈裟に書いてますよw)。

 例えば、仕事の過労で鬱病になりかけている人間に対して、その人間が持っている仕事を取り上げることは、やめてと言っても、やめられません(やり方は問われるが)。
 例えば、自分と子供が出血多量で死にそうな時、自分しか輸血できない場合は、自分が死んでも子供が助かる選択をとるかもしれません。やめてと言われても、やってくれというでしょう。

 事例では、大袈裟な例を出しましたが、つまり、ケースバイケースということです。

 相手が言うやめてレベルと、やらなければならないレベルを測定して、必要に応じて、実行すべきです。
 若い女性キャスタは、おそらく勉強に対して、かなりスパルタを受けたようです(話のニュアンスを聞く限り)。しかし、それで高学歴と学力を手に入れて、それを仕事にしている点は見過ごせません。
 父親のやり方は問われるべきでしょう。しかし、教育を受けることで、獲得できた現在のステージもあります。初期段階の教育においては、親が先導しなければならないケースがあるでしょう。その時に、教育虐待をしてしまうと、このキャスタのように歪みを抱えてしまうかもしれませんが、教育を行うこと自体は、悪いことではありません。

 つ ま り、コミュニケーションの問題です。
 相手を思いやれるか、相手の気持ちに気づけるか、気づけなかった時、対話して調整できるか。そう言うことができることが求められるのではないでしょうか?

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