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「暇と退屈の倫理学」その2「原理論」

一応ここで「暇と退屈」について整理。

*暇とは客観的な概念で、生きるために費やす時間以外の時間
*退屈とは 主観的な気分。暇だろうが忙しかろうが「なんとなく退屈」という気分

さて人間は、暇ができたら一体なにをすればよいのでしょう。

■一言でいえば「退屈」の反対は「快楽」ではなく「興奮」である(ラッセル)

暇を持て余す社会を生きる、というラッセルのいう「不幸な時代」において、「考える葦」で有名な、ブレード・パスカルは大きな物語を失った人間が欲望するものは「対象」から「原因」に変わったのでは、といいます。

これを「ウサギ狩り」の事例で紹介。

人は獲物(ウサギ)が欲しいのではない。退屈から逃れたいから、気晴らしをしたいから、ひいては、みじめな人間の運命から目を逸らしたいから、狩りに行くのである。

なのに人間は勘違いしている。

おろかなる人間は、退屈にたえられないから気晴らしを求めているにすぎないというのに、自分が追いもとめるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる、とパスカルは言うのである。

*欲望の対象:うさぎ      →対象は何でもよい。

*欲望の原因:気晴らしがしたい →重要なのは熱中できること

整理するとこのようになり「何とも人間は惨めなものだ」だから「神を信仰すべき」というのがパスカルの結論なんですが、ニーチェが「欲望の対象」たる「神」を死なせて以降、神はもういません(少なくとも哲学の世界では)。

■なんでも「興奮」さえすればいいわけではない(著者)

バートランド・ラッセル(1872-1970)は、昨日と今日のギャップが興奮を生むとして、それが不幸な事件だろうと幸福な事件だろうと関係ない、としました。

退屈する人は「どこかに楽しいことがないかな」としばしば口にする。だが、彼は実は楽しいことなどもとめていない。彼がもとめているのは自分を興奮させてくれる事件である。これは言い換えれば、快楽や楽しさをもとめることがいかに困難かということでもあるだろう。

したがって幸福になるには。興奮させてくれる対象を求めることができる人。つまりそういった対象を見つけられて、その結果見つけた人が幸せだということ。対象は何でもよい。自分が興奮できる対象を求め、みつければよい、ということになります。

しかし、著者は興奮できる対象は、なんでもいいわけではないとし、

現代のそれなりに裕福な日本社会を生きる若者を、発展途上国で汗水たらして働く若者たちと比べて、「後者の方が幸せだろう」と言うのに等しい

といいます。

よく発展途上国にはじめて旅行した若者が「発展途上国に生きる子供は日本と違って貧乏だけど目はキラキラしていて幸せそうだ(わたしも若い頃そう思った)」というやつです。だったら人間は貧乏の方がいいのか?そんなわけはない。それは「不幸への憧れ」。不幸への憧れを目指す幸福論は幸福論ではないとして著者は否定。

■楽しみや快楽そのものをやめてしまえばいい(スヴェンソン)

『退屈の小さな哲学』(2005年)を著したノルウェーの哲学者スヴェンソン(1970-)は、大きな物語が無くなった現代においては「自分なりの小さな興奮を見出せばよい」という「ロマン主義」がはびこっているが、そう簡単に見出せるものではなく、だから我々の人生は退屈なのだ、という主張。

では我々はどうすべきか、といったらスヴェンソンは

「だからロマン主義を捨て去ること、これが退屈から逃れる唯一の方法である」

としたのです。「退屈」を「苦しみ」に置き換えれば、これは仏教と同じ解決方法。釈迦の教えは

「苦しみを消滅させる唯一の方法は、欲望の充足を望むのではなく、欲望そのものを消すことにある」

というわけだから、ほぼ同じ。しかし著者は、

退屈の原因となるロマン主義的な気持ちを捨て去るべし、という消極的な解決策である。そして、消極的な解決策は、解決策でないことがしばしばだ。・・・これでは退屈している君が悪いと言い返しているようなものである。

とスヴェンソンに手厳しい評価。

■著者の考え(と自分の考えをちょっと)

はてさてそれでは著者はどう結論付けたかというと、

暇を持て余すことに深刻になる必要はない。いろいろ経験して目の前に楽しめるものがあったらそれを楽しめばよい。かといって宣伝や、まわりの流行に翻弄されるのは良しとしない。自分自身を見つめて本当に自分が楽しめることを楽しめばよい。

という感じでしょうか。

わたしの考えでは、著者のいうように要は自分自身が本当に心地よいことを肩ひじ張らずに探してそれをしていればいいし、もし見つからないのなら自分の信頼する仲の良い人たち(&自分の所属するコミュニティ)の好みと同じようなことをすればいいのでは、と思います。

それが教条主義的なのは困りますが、何よりも人間は社会的動物なので

「仲の良い人の心地よいことが、おおよそ自分にとっても心地よいことの場合が多い」

からです。

*写真:和歌山県 上瀞橋より北山川(2022年5月撮影)

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