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「宗教の本性」佐々木閑著 書評

<概要>

「リア充を味わえないなら、リア充の源となる欲望そのものをなくしてしまえばよい」という仏教の本性を中心に「一般に宗教の本性とは何か」を紹介した著作。

<コメント>

「サピエンス全史」の著作で有名なイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの唱えた概念「虚構」をイコール宗教とみなして、自身の信仰する「釈迦の仏教」の教えをベースに展開。

ハラリのいう通り「貨幣」「国家」「宗教」も皆同じ虚構なので、みんなが信じている時は成り立ちますが、みんなが信用しなくなった途端に崩壊します。この辺りは「サピエンス全史」をわかりやすく著者が解説しているという感じ。私自身も「社会も個人も、何らかの虚構によって成立している」と思っているので、著者の考えにおおよそ納得。

■宗教の本当の姿

宗教は主観的な視点が大事だといっています。「宗教で人生を支えなければ一歩も前に進まない」というくらいの深い信仰がないと、主観的とはいえないと著者は言います。ところが明治政府が導入した国家神道については、

もしすべての国民が本気で国家神道を信奉していたのならば、いくら上から禁止されても、それまでの信仰をいきなり捨てたりはできないはずです。それなのに日本人は、敗戦と同時に、あっさりと国家神道を捨ててしまった。

とし、国家神道は、完全に日本国民に内面化された宗教ではなかったと言います。著者からみると国家神道は「見せかけの宗教」。なぜなら上から強制されて身につくものではないのが本来の宗教の姿だからです。

とはいえ、当時の人は現人神たる天皇に命を捧げて戦争に負けてしまったわけだから、その影響も大きかったのではないかと思います。それでも本当に国家神道を信仰している人は一部残存し、再び活性化しつつあるのかな、とは思います。

■釈迦の仏教

元々の釈迦の教えに帰依している著者は、ルーツオブ仏教を「釈迦の仏教」と称し、世界で普及している大乗仏教(日本や中国)や上座部仏教(スリランカやタイ、ミャンマーなど)とは区別しています。この辺りについては以下「ゆかいな仏教」で、より詳しく紹介されています。

仏教は現世を煩悩に満ちた世界(一切皆苦)と捉えているので

「苦しみを消滅させる唯一の方法は、欲望の充足を望むのではなく、欲望そのものを消すことにある」

逆説的ですが「幸せになりたいのであれば、幸せになりたいという欲望を無くせばよい」と釈迦が説いたそうです。ちなみに仏教のいう幸せとは動的なものではなく静的なもの。「平穏」だとか「安寧」だとか、英語的には「Piece of Mind」という感じでしょうか。

ただ釈迦は「リア充」(著者曰く「世俗的価値観の充足」)を否定しているわけではなくて、「リア充」を味わえない人を対象にしているから、このような教えになったと言います。なので著者は仏教を「心の病院」と呼んでいます。

そして、「正見=自己を正しくみる」をベースに瞑想(※1)などの自己鍛錬による修行を進めることで欲望そのものがなくなった状態=涅槃(※2)に至る(=解脱)のが仏教の目的。

※1:瞑想=呼吸を整え、精神を集中して「自分が今、何を考え、何をしているのか」を客観的に観察する状況を作る。そしてもう一人の自分が座っている自分を見ている

※2:涅槃=輪廻のループを断ち切った二度と生まれ変わらない究極の安穏の状態

もともと仏教は自分を鍛錬するためのパーソナルな思想なので釈迦自身、全く布教するつもりはなかったのですが、天から梵天(バラモン教の最高神ブラフマン)が降りてきて「勿体無いので布教しなさい」となったので他者への説法を開始(梵天勧請という)。

■大乗仏教

ただし「釈迦の仏教」のままでは出家して自己鍛錬が必要なので、こんなに世界中に仏教は広まりませんでした。なぜこんなに普及したかといえば、普通の人がもっと簡単に欲望を断ち切る方法を大乗仏教が提供したからです(上座部仏教の方は別の手法らしいが本書では触れず)。

例えば大乗仏教のうち、浄土宗の場合、自己鍛錬は不要です。「ひたすら念仏を唱えて祈ること」で現世の欲望は消滅し、死後は必ず阿弥陀様が極楽に連れていってくれるからです。

■良い宗教(イエスの方舟)と悪い主教(オウム真理教)の違い

良い宗教=私利私欲のないリーダーと、フラットで健全な組織
悪い宗教=私利私欲を持ったリーダーと、強権的な権力構造を持った組織

イエスの方舟は、一部メディアから糾弾されるなど、カルト的集団ではないか、と長年目をつけられていたそうですが、リーダーの千石イエスは私欲をほとんど持たず、この世界に居場所がないと感じた人たちの最後の砦として信者を分け隔てなく受け入れ、彼女らと共同生活を送っていたといいます。

一方で、
オウム真理教は、元々の「修行によって心の中の煩悩を消し去ることで苦しみは消滅する」という教義は釈迦の仏教と同じで問題なかったのですが、教祖である麻原彰晃の絶対的な権力とその権力に裏付けられたリーダーの私利私欲に基づく暴力性によって、過激なテロ集団と化してしまいました。
欲望を捨てるつもりで入信した若者が組織構造に引き摺られ、教祖の欲望を満たすために殺人まで犯すようになってしまったのです。

■科学の時代は、不幸な時代

著者は現代は科学が発展したことによって、これまで経験したことのない「不幸な時代」が到来した、といってます。

科学が世界に与える影響があまりにも大きい近現代においては、あたかも科学が価値の領域にも及ぶかのような認識になってしまいがちです(この問題については既に哲学者フッサールが「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の中で90年前に提言)。

しかし私が学んだ考えでは、科学は事実の領域のみを扱うので、「良い悪い」などの価値の領域で科学の手法を使うのはナンセンス。

例えば「万有引力の法則がこうだ」からといって、そのこと自体に「良い」「悪い」はありません。水は二つの水素原子と一つの酸素原子で成り立つ分子ですが、これは単なる事実であって、価値の領域の話でないことは、容易に理解できると思います。

以上、仏教は、リア充を味わえず不幸に感じている人を対象にしています。したがって仏教は、

「リア充が味わえないなら、リア充の源となる欲望そのものをなくしてしまえばよい」

そのために「修行しなさい」「祈りなさい」というのが仏教。仏教は実にシンプルな教えだったのですね。

*写真:2020年10月 竜頭の滝と中禅寺湖

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