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「哲学は対話する」西研著 ーサイエンスの限界を哲学が克服する

<概要>
誰にでもわかりやすいコトバで哲学の根本的意味を問いつつ、プラトン・フッサールの思想を通じて、共通了解に向けた哲学対話の具体的手法を提示した上で、分断→共存の社会の可能性を提示した画期的な大作。

<コメント>
本書には(自分にとって)特質すべき重要なテーマが満載で、かつ個人的に最も関心を寄せている「個人の虚構(=思考の枠組み)」「社会の虚構(著者は「物語」と表現)」についても言及。

とりあえず別途それは展開するとして「サイエンス」ではカバーし切れない領域、つまり価値の問題を19世紀の哲学者フッサール(とその後継者?たる著者)はどのように解決したか、について。

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■サイエンス(自然科学)の世界認識方法

サイエンスは、数値化可能な世界を創造する事で、誰もがそうとしか思えない共通了解の領域を広げました。フッサールはこれを「自然の数学化」と呼んだそうです。この背景には

世界の諸物体の運動やあらゆる諸性質もまた数学的な諸法則によってあらかじめ精密に規定されており、その諸法則は幾何学の体系のように合理的で統一的な体系性をなしている。従って一定の条件が与えられればその結果が必然的に導き出されてくる。つまり「構成的に規定」されるはずだ

そういうイメージが、ガリレイはじめとした初期の科学者の頭の中にあったに違いないとしています。

このような科学的思考方法は、キリスト教という一神教を信じた人たちの発想から生まれたわけで、なかなか多神教の人々からは生まれないのではと思います。

唯一無二たる神の世界においては、何らかの統一的な世界法則があるに違いない=この世界は神が創造した以上きっと数学的に統一された美しい法則によって成り立っているに違いない」

そう信じてガリレオやニュートン(両名とも信仰心篤いキリスト教信者)がサイエンスに邁進したのは間違いありません。

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■サイエンスの限界

しかしながら著者はフッサールの考えを踏まえつつ、物理学を事例に

物理学の形成した世界は真の世界ではない。むしろ感性的直感的な生活世界の中の事物や事態を見たり聞いたり触ったりする「知覚」こそが物理学の妥当性の根拠

なわけだから、

直感的な世界の知覚によって与えられるもろもろの「知覚事実」を関連づけて、それらに整合的な説明を与えたものが物理学の理論

つまり直感的な世界のうち、知覚を頼りに測定することによって数値化できるパーツを切り取り、かつ法則化したものだけが物理学の世界で、法則化はおろか数値化できない世界については、サイエンスではカバーし切れない。

具体的には、

神や来世の存在や私たちが生きる上での価値(善、正義、美など)の根拠、さらには認識の客観性などの問題について、(サイエンスでは)共通了解を達成しえなかった。しかし現象学は、これらの問いについても共通了解を達成しうる方法を作り出しているのである。

*直近では脳科学や心理学の成果に基づき、だいぶ価値の世界もサイエンスによって説明できる領域が増えてきていることは間違いありませんが、それで全てがわかるというのは残念ながら無理(詳細は以下ブログ参照)。


■現象学の世界認識方法

ではどうやって現象学は、サイエンスではカバーし切れない世界であっても共通了解に達しうる方法を作り出したのか?

それが「超越論的還元」というちょっと小難しい言葉で表現された手法。でもちょっと視点を変えるだけのカンタンな方法。

あらゆる認識を意識体験においてのみ生じるもの(意識の内部で生じるもの)とみなし「意識の外側にあるだろう客観世界」を考えることをしない、という姿勢のこと。意識から独立した超越的(目の前にあるコップなど)なものがあることも、意識体験の中で確信されている。

全ての現象の出発点は意識から生じているわけで、それ以外の何者でもありません。最初に「外に何か(コップ)がある」のではなく、ワタシの意識の中に「外に何かがある」と認識したから「外に何か(コップ)がある」のです。

こうやって「自分の最初の立ち位置を常に”意識”におく」というふうに考えれば、当然「他の人も各自自分の意識からスタートして様々な事象を認識しているに違いない」というふうに考えるはずです(間主観的確信)。

そして我々は何に意識を向けているか(=志向性)といえば、自分の関心(や欲望)に沿って意識を向けているのがわかります。これも自分の心にしたがって内省してみれば深く納得するはずです。

自分に無関心なことは目に入ってこないし、音も入ってこない。脳が無意識に自分の関心事のみを取捨選択している感じといったら良いのか。このような志向性によって我々は他者と関わりつつ自分の世界像を作っているのです(行動経済学者カーネマンのいう「システム1」のイメージに近い)。

人々は絶えず語り合いながら人々に共通な一般的な必要や欲望に相関する仕方で世界を分節しているのである。事物を分節するだけでなく、例えば、学校・職場・公園・市役所・商店のように、空間もまた、それが生活に役立つ仕方によって私たちは分節している。

なので、数値化できようができまいが(サイエンスの領域かどうかに関係なく)、全て人間は、自分の関心事に応じて他者とコミュニケーションし、絶えず”すりあわせ”作業をしながら他者と共通の世界像を構築しています。

こうやって根本から考えてみれば、全ての世界像がこの認識の方法によって説明可能なことがわかるはずです。まず先に世界があるのではなく、自分の関心に応じた世界を自分が作っているのです。

したがって「誰もがそうとしか思えない」という認識を生み出すためには、絶え間ない対話によって、もともと異なる他者の世界像と「すり合わせ」していくしか方法はありません。サイエンスは、実験・検証の繰り返しによって世界像の共通化に成功しましたが、数値化できない世界においては、お互いのコミュニケーションの絶え間ないやりとりしかない。

しかし、ただ単にコミュニケーションするだけで共通の世界像は現れるのかといったらそう単純なものではありません。もともとのお互いの世界像が違えば、双方が納得する結論なんてそう単純に出るわけではない

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■サイエンスでカバー切れない領域の認識方法「本質観取」

したがって著者は「本質観取」という「本質を問う方法」によってコミュニケーションしましょう(著者は「哲学対話」と呼ぶ)、と提言しています。

本質観取とは

主題となっている事柄(正義、美、不安等)の体験世界における「意味」と「成立根拠」とを問うこと

前述のように万人が万人個別の世界像を保有しているわけだから、そこからスタートしては共通の世界像は生まれません。「何か(正義など)」についての共通の認識(共通了解)を生もうと決めたら、これまでの自分の「何か」についての認識は一旦脇に置いて(エポケーという)、まずは「(意識に端を発する)体験」からスタートしましょうといいます。具体的手順は以下の通り。

①各人の「主題」に関する問題意識の確認
②様々な体験例を出す
 ・主題(正義など)に関する言葉の用法
 ・主題の関する実感的な諸体験
③体験例に即した主題の「意味」の明確化とカテゴリー分け
④主題の「成立根拠」の考察
⑤最初の問題意識や途中で生まれてきた疑問点に答える

この手順を踏めば、主題に関する共通の「意味」と「成立根拠」が明確になるといいます。著者は「正義」を事例に具体的な本質観取を本書で展開していますが、この結果、正義の本質とは

人びとが互いを、社会を構成する対等な仲間として認め合い、自分たちの平和共存と共栄のために努力しようと意志するところから生まれる「あるべき秩序の像」や「正しさの感覚」これが正義と呼ばれる

という結論を導き出しています。

以上のように、科学が扱えない領域については「本質観取」という手法によってこそ、共通了解への道が開けるというのが著者や竹田青嗣の主張。「なるほどそうとしか思えないな」と納得するしかありません。

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*写真:2021年 栃木県 塩原

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