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はじめての哲学的思考 苫野一徳著 書評

「その奥義、あますところなく伝授します」というオビに始まる著作。

竹田青嗣先生の弟子の方の著作なので、竹田現象学=欲望論に基づいた、極めて簡明で実践的な哲学の本。宗教・科学・哲学の関係と違いにはじまり、哲学的思考を学ぶことによって解決できる世の中の問題が、こんなにあるんだなと実感できます。

今でもトップランクに入っている「WEBちくま」で紹介した記事を大幅修正の上、加筆した著作とのことです。

一般的な哲学書とは違って、あっという間に読めてしまいます。かといっていい加減に書いているわけではなく、哲学のキモをちゃんと押さえてあって「こうやって説明するとこんなにわかりやすいんだ」という感じ。

以下、私にとって印象的だった内容。

◼️事実には必ず「色」がついている
夫婦喧嘩した時に私もよく「これは事実なんだから納得しろ」的発言をしてしまいますが、実は私の「事実」は、私にとっての事実であって妻にとっての「事実」とはいえません。この場合の「事実」は私にとっての都合の良い「事実」。私の主張を裏付ける「事実」です。

これは欲望相関図式といって
「僕らは世界を僕たちの”欲望”や”関心”に応じて認識している(97頁)」。どんな”事実”も、それに僕たちが”意味”を見出さない限り、僕たちにとっては存在しない(98頁)。
ということ。

つまり、私たちの信念や世界は「欲望」の別名ということ(105頁)。

「私の世界」は私の欲望・関心に応じて展開された「私だけの世界」。「妻の世界」は妻の欲望・関心に応じて展開された「妻だけの世界」。そして「あなたの世界」も同じ図式。

著者の内容に沿って私なりの解釈では、人間は人それぞれ別々の意味と価値の世界を生きていて、私にとっては「プレートテクトニクスの理論によって地震が起きる」のは重要な科学的事実ですが、それは私が地球科学に関心があるから私の「意味と価値の世界」に存在するわけで、興味のない人にとっては「プレートテクトニクスの世界」は関係ない=存在しません。そもそもこの理論を知ったからといって地震がいつ起こるかはわかりません(実際わかるのは近い将来の発生確率ぐらい)。

だから、
自分の経験を過度に一般化してしまう「一般化の罠」に気を付けよう、と著者は提言します。「自分の物差し(自分の意味と価値の世界)で相手の考えを判断してしまいがちになるのを気を付けよう」という著者の提案です。

また、
二項対立的な「問い方のマジック」や「ニセ問題」に引っかからなようにしようとも。

皆別々の意味と価値の世界を生きていて、それぞれ信じているもの(=信念)も違っていて普遍的な正解はありません。さてどっちを選びますか?と言ったってどっちが正解なんてないということです。

したがって
二項対立的な問題は、ニセ問題(65−66頁)。

「人間は生まれながらに平等な存在か、それとも不平等な存在か」

→意味のある問いに変換(お互いにとって納得しあえる正解=お互いの共通了解を導き出す問いのこと)
「僕たちは、お互いにどの程度平等な存在として認め合う社会を作るべきだろう」

ニセ問題その2(68ー70頁)。これも二項対立的ですね。
「私たち人間が生きている絶対的な理由はあるのか、ないのか」

→意味なる問いに変換
「人間はいったいどんな時に生きる意味や理由を感じることができるのだろう」

◼️人々はみなそれぞれの意味と価値の世界を生きている。だから社会は「自由相互承認(22頁)」の社会を目指すべき。

私も全く同感です。社会の虚構としての「近代市民社会の原理」そのもので、やはりこれを基盤に我々は生きていくしかないのです。

自由相互承認の原理に基けば近代民主主義社会にとって「なぜ人を殺してはいけないのか」も明確です。

「誰もが自由に生きたいという欲望を思っている。だから人類はこの欲望を満たすために、お互いの自由を侵害しないという約束を相互に交わしたのだ(129頁)」

となります。もちろんこれも絶対ではありませんよ。あくまで「自由相互承認」を共通の価値観として認め合った近代民主主義社会を実現した国家・地域のみです。

北朝鮮などの違う価値観を持った国家の場合は同じような原理は適用できないかもしれません。ここが難しいところでは、あります。世界の3分の2(約50億人)は民主主義国家ですが残りの3分の1(約25億人)は中国をはじめとした独裁国家なので(21世紀の啓蒙下巻第20章)。

もちろん「メシが食える社会」が最優先ではあるものの、中国などすでに「メシが食える社会」になった国々は、近代市民社会の原理に基づく価値観に転換できないものかどうか、と思います。

◼️哲学や科学が宗教に劣っている領域もある。
*哲学や科学に対する宗教の優位性。
「信じるものに宗教は大きな意味を与える。哲学も科学も、その点では宗教にとてもじゃないけど太刀打ちできない(33頁)」

*社会の虚構としての宗教の優位性
「人類は疑うことよりも信じることを大事にしてきた。みんなが同じ信仰を持つことによって共同体はひとつにまとまることができたのだ(33頁)」

*その他
社会学者ドゥルケーム曰く「宗教とは、聖と俗の区分(28頁)」。
「聖」は、「神」「天」「山」「海」「故人」など、いろんな「聖」があるのに対して、「俗」と言ったら世間でしょうか。

ブラタモリでは、門前町には必ず近隣に俗の世界「歓楽街」があるとタモリが言っていましたが、本当にそうですね。浅草も伊勢神宮も善光寺も清水寺もみんな同じ構図。

以上、一気に読めて中身が濃い本書。ぜひ一読をお勧めします。


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