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ピダハン「言語本能を超える文化と世界観」書評


<概要>

言語学者でありプロテスタントの宣教師である著者が、アマゾンの狩猟採集民族ピダハンへの布教と新約聖書のピダハン語への翻訳を目的に長期間家族と共に滞在し、最終的には無神論者になった著者の記録。前半は著者の冒険記とピダハン族の文化紹介。後半はピダハン語の紹介と言語学的分析に加え著者自身の心境の変化についての記録。

<コメント>

◼️ピダハンの価値観
これは数十年間にわたる著者の人生と信仰をかけた壮絶なる記録。本書はチョムスキーなど主流となっている言語学のセオリーとは異なる希少言語の事例としてピダハン語に焦点が当てられた著作。

ただ個人的には宗教以外の個人の虚構、つまり「個人の心の”よるすべ”とはなんだろう」を考察するにあたって実に示唆に富んだ著作で、私自身は本書を読んで「こんな価値観もありかな」と思い、思わず唸ってしまったのでした。

私含めた一部偏屈な人間は「生きるための信念」というか「生きる目的ってなんだろう」「どうやって生きれば満足した人生を送ることができるのだろう」「そもそも幸せとは何か、何が正しいのか」など、価値観の普遍性(社会の虚構)や自分性(個人の虚構)を考えざるを得ない。

例えば「個人の虚構」に関して、脳科学や行動遺伝学・認知心理学・人工知能に関する書籍を齧ってみると「確かにこうやって考えて行動すれば、生物の法則にしたがうので私も幸せに感じられるかもしれない」と自然科学でもある程度参考になる知見も散見されます。

しかしこれら自然科学の知見は理論的モデルの殆どが統計学的アプローチに基づく知見であり、どこまでいっても「傾向値」でしかありません(茂木健一郎「クオリアと人口意識:第6章 統計とクオリア」より)。

また価値観学問の本流たる哲学を勉強しても、根本的な解決はこれら科学では解決しないということが、この2年間でわかってきました。

一番簡単なのは、なんらかの宗教を信仰する事なんですが、宗教のように「疑ってはいけない、なんらかの前提」をおかずに、ロジックだけで考える思考(=哲学的&科学的思考)に慣れ親しんだ私には信仰には向いていません。

そうしたときに、ピダハンの価値観に何かしらの安心感を感じてしまったのです。著者エヴェレットも子供の頃からプロテスタントとしてのエリート教育を受け、各種布教活動も熱心に行ってきたゴリゴリのキリスト教信者にもかかわらず、これまでの家族含めたキリスト教社会に背を向けてしまったのが象徴的。

彼らの価値観にどっぷり浸かってしまうと聖書にまつわる物語やイエスへの信仰などが迷信に感じてしまったというのです。

ほとんどの狩猟採集民族は「生きる」ことに精一杯で徹底したプラグマティズムの価値観。にもかかわらずほとんどの狩猟採集民族は宗教(なんらかの神話や超自然に基づく価値観)を持っています。クロマニヨン人やネアンデルタール人でさえ持っていたらしい(昨日までの世界下巻166頁)。

ところがピダハンにはこれが全くない。聖書に関しても翻訳に成功してピダハンに何度も話して聞かせ、完全に理解させることができたらしいのですが全く興味を示さない。著者曰く

「彼らに無意味な生き方をやめ、目的のある生き方を選ぶ機会を、死よりも命を選ぶ機会を、絶望と恐怖ではなく、喜びと信仰に満ちた人生を選ぶ機会を、地獄でなく天国を選ぶ機会を、提供しにきたつもりだった」

ピダハン曰く

「なあ、ダン(著者の愛称)、その男(イエス)を見たことも聞いたこともないのなら、どうしてそいつの言葉をもってるんだ」

として実際にみたことがない男についての話には全く興味がないのです。ピダハンが信じるのは「直接体験」のみ。著者はこれを「直接体験の原則」と呼び、

「直に体験したことでない限り、それに関する話はほとんど無意味になるということだ。誰もがじかに目撃していない遠い過去の出来事を頼りに伝道を行う立場からすれば、ピダハンの人々は話が通じない相手になる。実証を要求されたら創世神話など成り立たない」

と言います。

結局著者は「精神の専制者」から解放されたというのです。精神の専制者とはトマス・ジャファーソンの言葉「自分自身の理性よりも外部の権威に従うこと」。著者はキリスト教という「精神の専制者」から自由になったのです。

様々な臆見や人の噂、溢れるネット上の情報から一旦離れて、自分が感じること、自分が体験したこと、ちゃんと内省して自分の理性や気持ちに寄り添って本当に自分が求めるのは何か?自分が大切にしているものは何か?そのことだけに集中してみるのもいいかもしれません。

「ピダハンにとって真実とは、魚を獲ること、カヌーを漕ぐこと、子供たちと笑い合うこと、兄弟を愛すること、マラリアで死ぬことだ」

このように「今そこにある現実」のみに価値をおくピダハンは、この現実が最高の状態だと思っています。だからこそ文明社会に同化したがらず、自ら孤立した生活を望んでるのです。

彼らにとって「現実が天国」。自分たち以外の社会に対して強い優越意識を持っているのもそのため。他の言語や文化に劣っていると考えるどころか、ピダハンは自分たちの生き方こそが最上だと信じているのです(ある意味、徹底的保守思考)。

◼️狩猟採集民族に関して
狩猟採集民族の分析については、ピダハン含めあらゆる狩猟採集民族を集約的に整理したジャレド・ダイアモンドのベストセラー「昨日までの世界」(これは必読)のほか、

ボルネオ島の狩猟採集民族「プナン」

さらには先日アメリカインディアンなどの著作

も読んできましたが、ピダハンも「宗教を持たない」などの特殊性はあるものの、おおよそは「昨日までの世界」のある狩猟採集民族の一般的な姿に近い。

ボルネオのプナンに関しては「挨拶」の概念がないということですが、ピダハンにも全く「挨拶」の概念がない。いつも同じ人間同士で生活しているので、もしかしたら挨拶する必要がないのかもしれません。数人単位や数十人単位で暮らしている彼らは、我々現代人のようにいわゆる「他人」に会う機会が極端に少ない。その影響ではないかと思います。

そして彼らの社会は「治安が良く目立ったリーダーがいない」というのも面白い。これはアメリカインディアンも同じで、西洋入植者がインディアン相手に交渉しようと思ってもリーダーがいないので困ったらしい。

狩猟採集民族は共同体単位でギリギリの状況で生きているため、属する共同体から仲間外れにされてしまうと即「死」に繋がる。共同体の規範を守って生きなければ即刻「死刑」ということで共同体の規範を守らざるを得ない。これは究極の同調圧力なのかもしれません。だからリーダーも不要なのではないかと思います。

*写真:2004年 メキシコシティ国立宮殿 ディエゴ・リベラの壁画

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