「プラトン 理想国の現在」納富信留著 書評
<概要>
プラトン著「国家(ポリティア)」というタイトルは正確には「理想国」の意だとし、プラトンの唱える理想国家論が歴史上、内外でどのように受容されてきたのか、そしてその本意は何か、現代に生きる我々にとって、どのように受容すれば良いのか解説・紹介した著作。
<コメント>
プラトン専門家の著者、納富信留さんの翻訳したプラトン著作を数冊読んでいたのに加えて、納富さんが1965年生まれで私と同世代なので感性的にも近いのではないかと思い、今回3,080円出して購入して読んでみました(電子書籍なし)。
■プラトン主張の「正義」の特異性
我々が一般に正義といえば法律や社会制度に則った行為や利他的行動など、他者との関係において生じる概念ですが、プラトンは違います。
プラトンの正義とは「各々が自らのことを行う」あり方、として説明される概念で、私たち自身の内的なあり方、人間の「生き方」の形。
利他主義的正しさは、打算的な正しさであって本当の正義ではありません。本当の正義とは「私の魂・私の正義」として考えていくべきで、私に幸福をもたらす正義のこと。
本来人間の魂は、善きものであって、そのまま発現させれば自ずと理性が発揮され、正しい考えや行動に向かいます。正しい考えや行動に向かえば、我々人間は自分の本性がそのまま発揮されていることになり、その人の善きこと=幸せにつながっていきます、みたいな感じで、本来の魂に沿った理性的な考え方や行動こそが正義。
正しさとは、理性を育てる事で幸福を実現する人間の自然本性(フュシスという)(29頁)
そしてそのためには、人間本性の発現を邪魔している身体から発する欲望を制御すべく、子供の頃から体育と勉強(読み書き計算&哲学対話)に取り組ませるのが大事(=教育)、となります(まさに「プラトニック」ですね)。
■「理想」という概念について
理想という概念は、明治時代以降誕生した概念で、プラトンの提唱する「イデア」を説明するのに西周が考案した造語だそうです。
*西周は「フィロソフィー=愛知」に対して「哲学」という造語を当てた人でもであります
理想という概念はあっという間に日本人の間に広まり、現実と理想=あるべき姿、という対比の中で広まっていったそうです。
江戸時代までは「理想」という概念は、日本にはなかったんですね。面白い。
■全体主義に利用されたプラトン
日本でも海外でも共通しているのは、プラトンの政治思想は、全体主義・国家主義の大義名分のツールとして活用されてきたということ。
民主制を否定し、哲人による独裁制を肯定(僭主独裁は否定)していたからだと思いますが、素直に原書を読めば、これは誤解。
ナチスドイツに翻弄された哲学者カール・ポパーはニュージーランドに逃避し「開かれた社会とその敵」という名著を著した中で、第1章を全てプラトン批判に当てているらしい。プラトンの理想国家は、市民がポリスのために滅私奉公すべきという部族主義だとして批判。
日本国内でも、戦前の全体主義に相性がいいということで、国家主義者の鹿子木貞信(A級戦犯)などの超越的国家主義に大きな影響を与えたという。これも「国家が主人で国民が召使い」みたいなイメージから来たのでしょう。
■プラトンの提唱する理想国家とは
では、本書や「国家」読後に、私が解釈したプラトンの理想国家を一言でいうと
「適材適所で役割を担っている市民(ポリーティース)によって構成されたポリスが、エリート教育によって本質を見極める力を持った最善者によって統治されている国家」
となります。
リーダーは、一切の私有財産保持が許されず、リーダーこそ滅私奉公の精神でポリスを統治するのがプラトンの理想国家であって、国民に滅私奉公を要請しているわけではないですね。
それでは「具体的に何をやるか(政策)」は、その時の国家の状況によって大きく変わってくるはずで、その時代の要請に応じつつ、未来を見据えながら、あるべき姿(理想)に向かって国家を運営していくのが最善者=リーダーの役割です。
これは当然現代にも通じる考え方。
あるべき姿(理想)は、それぞれの価値観によって大きく異なっていて、まさに今は「理想」分断の時代ですが、それでも一旦自分の価値観は脇において、納富さん曰く
プラトンの「理想国」を「悪しき政治」と読んで批判する者も、実は「理想」をめぐる言論のやりとりに加わる限りで、プラトンと共同の作業に参画している(268頁)
とのごとく、
開かれた自由な言論のなかで本質を見極め、共通了解の道筋に沿って政策を遂行していくのが、最善者たるリーダー(=哲学者)
なのではないかと思います。
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