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教育に「第三者」のいる重要性

休校措置のため「おうち学校」で学習をしている、という状況に5月の連休明けからなっています。

やってきて思うのは、親と子供という登場人物だけで、学習を進めていくのは大変ということです。

「第三者」って大事

親と子供と二者の関係性には、現在の状況ではお互いに逃げ場がありません。家で四六時中一緒にいます。そういった親と子供の存在が急に学習についての「先生」と「生徒」という役割になるのは、ちょっとギクシャクが生まれます。

親は、すでに「親」という役割を持っていますから、子供の認識としては「どこまで甘えていいのか」と、わからなくなるでしょうし、親の側としても「どういったスタンス(厳しく?優しく?ほめる?指摘する?など)で子供の学習に接するか」と決めかねたりしますから、多少の混乱があってもしょうがないところでしょう。

(とはいえ期間が続くと、役割の棲み分けができてきたようで、さすがにスムーズにはなってきました。人間は慣れるものですね・・・)

こういったことを体験してみて思ったのは、学習には「第三者」的な役割がいてくれることが大事ということです。

第三者的なところから、少し俯瞰してみることでわかることもありますし、そういった立場からの話は腹に落ちやすいものです。

ここが学校の「先生」ということになるように思います。

「教える」ということを少し省力化したら・・・

正直、私は子供の学習についてe-ラーニングに切り替わってもいい、と思っています。むしろ効果的にそういった教材を使ったらいいと思うのです。

(余談:この外出自粛という期間で、NHKのEテレをみてみると、良質な教育番組がいろいろとあるように思いました。報道を見ると、各地域や学校ごとにオンライン用の教材を作っているように見えますが、活用できる教材は共通化したり、もっと効率的に活かせたらいいのにな、と思います)

教科を教えるということを少し省力化してもらい、その分、今後「先生」に求めたいことは、学習内容自体よりもその子供自身の相談やフォローといったことになっていくように思います。

親と子供というある意味狭い世界ではなく、第三者的な立場から俯瞰することで、見えるものもあるでしょうし、そういった立場だからこそ子供も耳を傾けやすいのだと思うのです。

今回「当たり前の生活」が崩れて「子供が家庭で学習し、親が面倒を見る」という体験から、私が「学校」や「先生」について望むものがちょっと見えました。

何事もなければ、学校、先生や子供の学習について、こんなこと考えることはなかったでしょう。この体験は今後にとって一概に悪いことではなかったはずです。

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