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一汁一菜でよいという提案 を読んで

たまたまアマゾンのお勧めで出てきていて、僕は料理に全く興味ないのですが、なんとな~く食事における、「足るを知る」、の提案の本なのかなぁ~くらいの気持ちで購入しました。

読んでびっくり、舐めてました、背筋がビッと伸びました。
大袈裟でなく如何に自分がふざけて生きていたかを思い知らされました。
この薯の中で土井善晴先生は、
「一汁一菜とはただの和食の勧めではありません。一汁一菜というシステムであり、思想であり、美学であり、日本人としての生き方だと思います」と書かれております。
たるみきった精神の僕でもそう思い共感いたします、哲学を感じます。

一汁一菜、清貧の勧めくらいに考えておりましたが、全体を通して、食を以って、けじめ、をつけろと。
「上(ハレ)下(ケ)ハレは神様のための料理であり、ケは人間のための料理で日本人はこの価値観を持ちながらケジメを使い分けてきました。
神と食べる料理を神人共食、と言います。」
ハッとしました、けじめなんて知っていたようで全く分かっていなかった自分にぶち当たりました。
いただきますに、ごちそうさま、これは礼、であり、礼とはけじめなんだなと改めて知らされました。
いえ、僕だってなんとなく、礼、仁、義、徳など薄らぼんやりは分かっていたつもりではありますが、ここに、けじめ、という言葉がはいると、全体がはっきりするというか、いや、わかってしまいました。
如何に今まで自分がけじめなく人生を過ごしてきたかが、、、、
礼節など知っていたようで理解はしておりませんでした。

「一汁一菜は念仏だ」とも書かれておられましたが、たるみ切った僕の精神には、一汁一菜は大変厳格な武士道のようにすら感じられます。
読んでいて途中から、あれ、これ、食の本だよな?とわからなくなるくらいえらく感銘を受け、全体を通してとても素朴で優しい事が書いてあるのですが、悪なる者が念仏を怯えるが如く、僕も感銘を受けたが故に、まぁちょっとちゃんとしないといけないな、と反省というか、なんかちゃんとするの面倒だけれどこれだけの思想に触れたら感化させられないわけには行きませんね。
弛んでいるからね、ちゃんとするのは力が居るのです。
後書きの養老孟司先生が、「一汁一菜は修身の第一歩である」と書かれておりますが、本当ですな。

精進料理は手が込んでおりますが一汁一菜は手が込んでないのが救いで、一汁一菜を初めて2日で如何に今まで自分がなんか無駄に食べ過ぎていたのかがわかり、ほんの少し清らかな気持ちになれます。
「お肉やトロの脳みそが喜ぶ美味しさと、身体全体が喜ぶ美味しさは区別するべきものです」まさにその通り。
「メディアの発信する情報的な美味しさと、一汁一菜の普編的な美味しさは区別するもので、これらは全く別物と理解し食を選ぶのです」
インスタ映えのことばかり考えていた自分がなにか非常に悪いことを考えていた気持ちになるのです。

一汁一菜から健康を考えるのは勿論として、歴史に芸術に四季折々の自然に贅に素に縄文からの進化論と、一汁一菜に至ったからここまで精通するのか一汁一菜からここまで突き詰めて行ったのかはわかりませんが、食から広がる世界観が自分には大き過ぎて、本当に念仏ですわ。
一汁一菜、この四文字から広がる世界のおおきさ深さ。。。

大きく感動、とりあえず一汁一菜は即実行できるので少し続けると更に世界観が変わります。
最近なんか嫌なことあっても、まぁ、めしとみそ汁、食えたらそれでいいのかなぁ~と気持ちが柔らかくなれました。
あとめし屋に入って外れてもなんかおいしく感じられるようになりました。
土井先生は味噌に任せろ、的なことを書いていますのでそれを大きく解釈すれば、まぁ運命に任せておこうと。
「一汁一菜のような身体が求めるお料理は、作り手の都合で美味しくならないことがあります。おいしい、おいしくないはそのとき次第でよいのです。
そう思い必要以上に味を気にしない」
また
「味噌は味噌に任せておけば多少の大小はあってもおいしく料理できます。
再現性はありませんが、そのうち美味しい不味いは大きな問題でなくなってきます」と、すごいですね。
更に
「よき酒、よき味噌は人間が作るものではない。俺が作ったなどと思い上がる心は、強く戒めなければならない」と、凄まじいです。
「繕わないみそ汁」うーんとっても優しい。

一汁一菜、ハマりますね。


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