『ナチスは「良いこと」をしなかった論法がジェノサイドを擁護するとき』/補論『現代左翼の反ユダヤ主義』

 前回の記事を書いたあと、健全な知的生活へと戻るためにもこの話題に再び触れるつもりはなかったのだが、

仲正氏が批判的に言及して田野氏の熱心な信者(仲正氏からは「ナチ・プロ」と名付けられた)たちから荒らされていたり、

最近米議会がイスラエルによるパレスチナ人へのジェノサイドを擁護・隠蔽しようとする動きを見て心を痛めていた時に、ふと以下のポストが目についてしまった。

 この「意図的な戦争犯罪の兆候はない」という簡潔で美しい一文はどのような意味を持つ言明なのだろうか?
 前回の記事で言及したように、帰結ではなく動機を根拠に善悪を語る際、本当の目的は自身や自党派が行った悪業を隠匿ないし弁護することにあることが多い。
 隠岐氏の代名詞となった(本業の方を知っている人からするとそちらで有名にならないのは仕方がないと考えるだろう)「うっかり暴力沙汰」という表現も、動機を根拠に暴力行為や殺人を正当化したいという意図から生まれている。

 とはいえ、一応は擁護された側であるはずの各セクトからすれば、自身の暴力行為を正当化する難解な理論──それが明晰な文体や構造ではなく複雑で難解なものであるほど、自己弁護と批判からの逃避が目的となる──の構築を求めているのに、うっかり粗相をしてしまったペットと同じ扱いを受けていることに苛立つのではないだろうか?
 また、彼女の場合はある種の陰謀論的歴史観を持ち、論敵や嫌いな党派の人間の主体性を認めず、このポストに限らず何かを論うたびに何度も都合良く現状認識を変えていくという、解釈や価値判断を扱う分野に取り組むには不向きな思考の方がよりクリティカルな問題なのだが、ここでは論じない。どうしても詳しく知りたい人は、普段のツイートか彼女の著作を少しだけ流し読みすればわかるだろう。

 ここで重要なのは、悪業を否定できないときに、動機による正当化が行われるという点である。
 今回アメリカが動機を根拠にイスラエルによる戦争犯罪の兆候はないと否定したのは、イスラエルが民間人へのジェノサイドを行っているという事実を、数多くの証拠があることもあり、到底否定することができないと考えたからである。そのため、聡明な隠岐氏の語録を借用するならば、イスラエルは"うっかり"パレスチナ人を大量虐殺しているだけであって戦争犯罪を行う意思はないのだという擁護論を捻り出す他なかったのだろう。

 この米国の声明と同じ論法を否定的に用いたものが、田野氏のナチスは「良いこと」をしなかった論に幾つか現れる。氏の本が「アウトバーンは引き継ぎしたものだからナチスのした良いこととは言えない」のような仕様もない詭弁の宝庫であることは今や多くの人に知れ渡ったことだと思うが、その中である社会福祉政策が人種主義に基づいていたから、あるいは女性を助けたのは家父長制によるから、実際は悪いことであるという主張が出てくる。
 先程の例では米国がジェノサイドを否定できないために動機を根拠に逃れようとしていると指摘したが、田野氏の場合はナチが「良いこと」(実際は括弧付きにする必要すらないだろう)をしたことを否定できないために、動機を根拠に否定する他がなかったことの証左となる。

 ある種の人たちは、善人がうっかり悪いことをしても許されるべきだが、悪党がうっかり善行をしたとしてもそれを認めるべきではないと考えるようだが、これが実際に正当な主張であるか否かは程度の問題であるようだ。
 例えば、善意からついた嘘が結果的に誰かを傷つけてしまった場合、多くの人はある程度同情的になるかもしれないし、同様に、やらない善よりやる偽善と称して名誉欲という一般に悪く思われがちな動機からボランティアに励む人がいたとして、ボランティア自体が悪業だと考える人はいない。

 一方で、善意から集団リンチやテロや大虐殺を起こしたと言われれば、多くの人は拒絶するだろう。つまり、善意を正当化の根拠として採用できると仮定した場合であっても、帰結の被害や悪性が一定の閾値を超えると許容できないものとなる。隠岐氏や現米国政府のように政治的・党派的理由からこれを擁護する場合、他者を加害しジェノサイドを引き起こすことは、その人物や党派にとっての「善」や「悪」とは無関係であることを暗黙の内に認めることになる。若年左翼に広がる反ユダヤ主義を擁護し、論文盗用のかどでハーバードの学長の地位を辞任させられたクローディン・ゲイが言うように、何が悪いかは全て「文脈次第」なのである。

 逆に、悪意からの善行を拒絶する場合、その心理的動機は悪意の主観的な悪性の高さに依存している。つまり、ある信条を抱いている時点で、どのような行為も良いことにはならないことになる。これを前回の記事では革命的正義(ファシズムもナチズムも革命を目指す思想である)は特定の状態──ブルジョワ・ユダヤ人・反革命・〇〇フォビアなど──であると見做されるのが罪であり、実態に依らず攻撃に晒されると紹介したが、こうした思考が成立するためには相手がある種の「絶対悪」であると想定していなければならない。
 つまり、上記の例で言えば、人種主義や家父長制なるものを「絶対悪」化することで行為の帰結までを悪いこととして拒絶しようとするのだが、これは善悪の基準を全て政治的・党派的イデオロギーに回収する試みであり、うっかり暴力沙汰や、意図的でない戦争犯罪と同じ形式の言説となる。
 結局のところ、動機から独立して帰結の善悪を判断することを拒絶するという態度は、善悪という区分自体を否定しているに過ぎない。彼らにとっては「善」も「悪」も引用符で囲った意味のない言葉であるため、集団リンチやジェノサイドを擁護することも、人命救助を批判することもできてしまう。

 これこそが全体主義者が利用した言語の濫用であるが、主に人文科学を中心にアカデミアにもこの濫用が蔓延し、現代の大学の内部崩壊を引き起こしている。
 全世界同時多発的に人文科学の価値が低下し、各大学で縮小・廃止が盛んに行われるようになった数多ある要因の一つと言われているが、長くなるので詳しい言及はやめておこう。

 仲正氏が絶対悪として扱っていると批判しているのは正にこの点であり、例えばドイツではイスラエルへの批判に対して反ユダヤ主義やナチシンパというレッテルを貼ることで議論や対話を拒絶し少しでも疑義的な意見であれ弾圧するのだが、これはドグマへの疑義の一切を「絶対悪」化することで行われる。
 仮に本当に田野氏が「絶対悪」化をしていないのであれば、例えば人種主義や家父長制を根拠に良いことと認めないといった幾つかの論は、その主張内ですら破綻するため成立し得ない。故に彼は自分で選んだトピック内ですらナチスは「良いこと」をしなかったことの証明に失敗したことになる。
 このことは理論思考の構造を理解していればわかるのだが、文字は読めるが書物は読めないという人間にとっては困難さを覚える作業のようだ。

 実際に彼らが行っているのは善悪の「相対化」ないしイデオロギー化であり、いかに善を「悪」に、悪を「善」に変えるかというレトリックなのだが、これこそがナチがユダヤ人の虐殺を、マルクス主義者がブルジョワや反革分子の粛清を正当化した論法であり、今現在イスラエルによる蛮行を擁護している思考である。
 この立場の主張を認めると次のようになる。この世界には善悪は存在せず、ただ政治的意見のみが存在する。よって私は帰結ではなく動機から「善悪」を決定する。故にナチスは「良いこと」をしなかったし、イスラエルは「意図的な」戦争犯罪をしていない。

 さて、田野氏は実際には幾らでも内容や議論への批判があるにもかかわらず、文脈を無視して全ての批判を「読まずに批判している」というフレーズで機械的に拒絶しようとしているが、こうすることで相手を「読まずに批判する人」という状態のレッテルを貼り批判から免責されようとしている。
 こうした批判から逃れようとする態度は現代的な病として特に左派の研究者で蔓延しているのだが、その人自身や党派の弱さの現れであると考えられる。信念やドグマへの疑義に耐えられないという態度は、学術的態度でないどころか脆いものですらある。同程度にドグマへの疑義を嫌ったマルクス主義者たちの末路を思えば、現代に主流の党派の末路も知れたものだろう。そういう点では未来を楽観視できる。結局のところ、あらゆる挑戦や批判に耐え抜いた頑強なものだけが生き残り続けることができる。

 動機から何かを擁護し批判するという論法は、暗に自分の非や誤りを認めているからこそ採用されるという話を思い出して欲しい。この論法を採用した時点で、氏は最後まで誠実な態度を取ることはできないだろう。
 かつて新左翼が支持を失ったように、あるいはこれからイスラエルの悪業が暴かれた際にその重い罪の歴史を背負うことにように相応の評価で終わると思われるが、その時には氏の研究と同程度には話題となるかもしれない。

補論

 現代においてより深刻なのは、若年左翼層で広まり続ける反ユダヤ主義の方だろう。ホロコーストの矮小化やナチスは「良いこと」をしたと主張するものたちは一応ユダヤ人への差別や虐殺に対して否定的な言動を取っていたが、現代左翼ではユダヤ人差別を肯定的な文脈で述べたり、ナチスはユダヤ人虐殺という良いことをした(括弧付きではなく)と主張することを厭わない人たちが増えてきている。そのため、彼らを嗜める必要がある場面も今後増えることだろう。

 左翼主義と反ユダヤ主義の接近はなにも新しい話ではなく、ソ連の反ユダヤ主義、新左翼の反ユダヤ・反シオニズム的テロリズム、少し前ではコービン体制下の労働党のように幾らでも例はある。

例えば、ヨーロッパ12カ国のユダヤ人を対象とした2018年の調査によると、反ユダヤ主義の加害者の21%は被害者からは「左翼」であったと報告されている。

労働党の反ユダヤ主義がピークに達していた2019年には、英国のユダヤ人の42%はジェレミー・コービンが首相になった場合は国を離れることを「真剣に検討する」と回答している。

 左翼による反ユダヤ主義には、典型的なものとして、イスラエルを帝国主義者・殖民地主義者の先鋒と見做す反イスラエル・反シオニズムから反ユダヤへと傾倒するパターンや、古典的なユダヤ陰謀論とマイノリティの守護者という自意識が合わさることで、権力者であり抑圧者であるユダヤ人と戦い滅ぼすことでマイノリティを解放するという世界観を形成するというパターンなどが存在する。
 またネオマルクス主義者のManolo De Los Santosのように、イスラエルを帝国主義や資本主義と同一視させ、これを滅ぼせば資本主義を崩壊させられるという独特な世界観を形成したりもする。

 真っ当な論者であればイスラエルへの正当な批判と反ユダヤ主義の区別が付くはずだと思うかもしれないが、実際にそれができる人は少ないし、両者間の線引きを巡る激しい定義・解釈論争がユダヤ人当事者と左翼主義の間で行われており、一様ではないのが現実である。

 左翼主義者に流行している反ユダヤ主義についてはまた別の機会に詳しく書く予定でいるが、現在の情勢ではイスラエルへの正当な批判と反ユダヤ主義とのギャップが無くなり、容易に憎悪へと走る人が益々増えていくと予想される。
 その時に現れるのは、もはや絶滅危惧種である括弧付きの「良いこと」をした論者ではなく、文字通りナチスはユダヤ人虐殺という良いことをしたと主張する者たちになるだろう。

 彼らを前に必要となるのは、なぜ論敵や敵対者や、あるいは加害者に見える相手であっても、差別や虐殺は許されないのかという言説だが、そうした議論に田野氏や周辺の界隈の人が貢献することはないか、むしろ積極的に加担すると思われても仕方がないだろう。
 仲正氏が指摘しているのは、そうした風潮・現状なのではないだろうか。

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