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「目に見える評価」

みなさんこんにちは。
大学は夏休みに突入ました。とはいってもやっと羽を伸ばせる!というわけでもなく、むしろやることは増えてきます。頑張ります。大杉です。

今日は、スポーツと関係ない視点から少し話をしようと思います。


定性評価と定量評価

今日は「評価」という言葉をベースとして話していこうと思います。
まずみなさん、「定性評価」と「定量評価」ってどんなものかわかりますか?
指導をされている方、会社の運営部分に携わっている方はおそらくよく使う言葉なのではないかと思います。

「定性評価」・・・数値では表現できないものに対しての主観的な評価
「定量評価」・・・数値化できる客観的な判断による評価

簡潔に説明するとこんな感じでしょうか。
わかりやすい例を一つ挙げると、学校の通知表です。
意欲・関心・態度は定性評価を無理やり数値化したもの、運動技能はある程度定量評価できる部分をそのまま数値化したものであり、これには定量評価、定性評価どちらも使用されています。

「認める」ことの重要性

ちなみに通知表って、特に絵が描けない人とか体育できない人とかにとっては嬉しいところと悔しいところがあるなって思いませんか?
悔しいところはもちろん技能のところが低いことなんですけど、嬉しいところは真面目にやってたら意欲関心が高いところで、僕は中学の時とかはそれがちょっとモチベーションになってました。

そこから、できないところはできないで終わるんじゃなくて、「頑張り」を見てあげる、つまり定性評価をしてあげる、もっというと頑張りを「認める」ということをすることがとても大切なんじゃないかなって思いました。

例えば仕事をしている人に対して契約が一つも取れないからといってひたすらに叱り続けてだんだん見放してしまうケースと、一つも取れないのは特に初めは仕方ないことだしまずは頑張っているところ、その人の熱量があるところをちゃんと認め続けていく、そしてやる気を持たせ続けてあげるケース、どちらの方が会社、個人双方にとって利益があるでしょうか。当然後者かなと思います。

もちろんできない人を見放さなくてはならないほど経営難であったり、そもそもやる気がなくて実績もついてこない人であったりする時には仕方ないのかもしれません。
しかし、そうでないのなら後者の選択をしたほうが、その先の可能性は無限に広がるのではないでしょうか。

「両方」で「認める」ために「伝える」

「認める」という行為は、何も定性目標だけが対象ではありません。

当然頑張りや結果までの過程をしっかり認め、それが間違いでないこと、すごいことであるということを理解させるのも大切です。

それに加えて、定量目標でもしっかり認めることは大切です。
過程ばかりをほめてしまうと、逆に結果は出さなくてもいいのか?となってしまったり、結果をずっと出し続けている人が「認める」ことをされていないと、自分の存在価値や必要性を見出せなくなったりやる気を失ったりする、という事態が起きる可能性があります。

そのどちらをも認める、というところで重要なのは、僕は「伝える」ことだと思います。

できるが当たり前だから伝えなくていいや、頑張ってるのはいつものことだから言わなくても大丈夫だろう、と思って心の中では認めつつも伝えることを疎かにしてしまうと、それは結局相手にとっては認められているとは言えなくなります。そしてそれが気付かぬうちにモチベーションの低下を引き起こしていることも十分にあり得ることだと思います。

しっかり文面でも何か物でも、そしてもちろん声でも、どんな形であれ「認めているよ」ということを「伝えてあげる」ことが私はなによりも相手にとって必要なことではないかと思います。

このnoteもそうです。最初はスキが少なく、自分の文章が誰かに響いているのかがわからなくて不安でした。
自分の記録のためとはいえ、こういった場所に書くからには誰かに届いて欲しいなと思っているからです。

しかし最近では、スキだけではなくてコメントをくれる人や、インスタなどで見てるよと伝えてくれる人、対面で会った時に読んでるよ、めっちゃいいねといってくれる人など、多くの人が「認める」を「伝えて」くれます。それが今の私の一つのモチベーションでもあります。

誰かに指導している方、誰かといつも関わっている方、どんな方でも、定性でも定量でも、今一度誰かに対して持っている「認める」思い、伝えてみてはいかがでしょうか。

ちょっと長く書いちゃいましたが今回はここで失礼します。ではまた!




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