ゴミ山で見た、豊かさ≠幸せということ〜セブ島スタディツアー#2〜
皆さんこんにちは。
大学2年生の大杉と申します。
本日は、セブ島スタディツアー編第2回となります。
第1回もぜひご覧ください。
こうやって文章にしたり、写真を見返したりするたびに色々な思い出が出てきて、本当に行ってよかった、やってよかったと痛感します。
今日のテーマは、「豊かさと幸せ」です。
「幸せ」って?
今回も問いかけから入ります。
皆さんは今、幸せですか?
って言っても人によって定義は違うと思うし、難しい人もいるかなと思います。
ちょっと質問を変えます。
皆さんは自分の現状に心から満足してる、やりきれてるって言えますか?
どんな場面でもいいです。でも特にどれかっていうと、自分の今の生活とかやってる活動がどうかって観点から考えて欲しいです。
今回は、前述した通り人によって定義が違うということはもちろん踏まえた上で、「『自分の生活が心から満足できる』=幸せ」と定義します。
とすると、最初の問いに対しての答えは出てくると思います。
ちょっとその答えは持っててください。
セブ島でみた「幸せ」
ここから、私がみたセブ島の人たちの話をちょっとします。
その人たちは、いわゆる「ゴミ山」に住んでいました。
ゴミ山に生きる人たち
先に、ゴミ山のお話をしようと思います。
あたり一面、見渡す限りゴミが落ちてる。場所によってはそれが山みたいになってはるか遠くまで連なってる。
ゴミ山に初めて着いた時の感情を箇条書きすると、
・「匂いがすごい。」これが一番でした。
・「あんまりいたくない。」これも到着後10分くらいで感じました。
・「子供が走ってる。」これはめちゃくちゃびっくりしました。
正直、こんなところに人が住んでいるとは思っていませんでした。
ましてや、こんなに小さな子供たちがいる。こんなところで、なんで、どうやって、何をして生きてるんだろう。そんな疑問が生まれました。
そして、そのゴミ山に住んでいるある家族とお話しする機会がありました。
その家族は今回活動を共にするNPO団体セブンスピリットが音楽の出張授業をしている家に住んでいて、お父さん、お母さん、音楽をしている子どもの三人がそのときにはいました。
そこでゴミ山でどう生活しているのか、その子の将来の夢はなんなのか、などなどたくさんのことを聞きました。
そして、話を終えてその家族の家を出た時、私のその日一番びっくりした瞬間に出会いました。
なんと、地面一帯に敷かれたゴミの上で、たくさんの人がバレーをしているのです。
それをみた時、私は驚き、喜び、そして疑問を持つことになりました。
なんで遊べるんだ?
まず驚きは、こんなところにバレーっていうスポーツが浸透しているんだってところに、
喜びはそれに関連してスポーツがどこでも行われてるんだってところに。
それに加えて、
「なんでこんなところで楽しむ、遊ぶってことができるんだ?」っていう疑問が生まれました。
私はそういったところに住んでいる以上、生きるのに必死で他に何かする余裕なんかないと思っていました。
子供が遊ぶのはもちろんわかるけど、今回遊んでいたのはお母さん世代のような女性ばかり。
先に住んでいる家族から、ゴミの中から生きるために必要なものを探したり、必要な家事をしたりで特に予定は決まっていないという話がありました。
それでも、「遊ぶ」が、しかも「みんなで楽しく」という形で存在するということにとても衝撃を受けました。
しかも、これは私の主観でしかないですが、遊んでいた人たちはとてもキラキラして見えました。
ゴミ山の人たちの「幸せ」
やっと話が戻ってきます。
私は、ここの人たちを見て、「この人たちは今が幸せなんだろうな」と感じました。
その根拠の一つとして、「全力で生きてる」ってところがあるなと思います。
これはスラムに住んでいる子たちにも、運動会に来てくれた子にも言えることなのですが、彼らはどんなことにもめちゃくちゃ「全力」でした。
これもまた次のnoteで話そうと思うのですが、とにかく、
全力でやってるからこそ輝いて見えるし、実際本人たちもやりきってるんだろうなって思いました。
豊かさ≠幸せ?
ここで、今更ですが私の幸せかという問いの答えも。
私は、今回の定義で言うと幸せと言い切れるかは微妙です。
ん、待てよと。
住んでる環境がこんなに違って、こっちにはなんでもあって、ゴミ山の人たちは正直日本と比べると限りなく物とかできることが少ない。
でもゴミ山の人は幸せに見えて、私はそうじゃない。
ってことは、豊か=幸せじゃないのか?????
もしそうなら、幸せってどう言うことだ?????
こんな疑問が浮かんできました。
それと同時に、
こんな人に向かってこんなことをしたい、こうしてあげたいって思うことはいくつかあるけど、それってその当人にとっては本当に幸せなことなのか?
という疑問も生まれました。
それこそ、ゴミ山に住んでいる人たちにとっては、ゴミ山から生きるために必要なものを探し出してそれを使って生活している。
そこに誰かがゴミを減らさなきゃ!って思ってゴミ山だけを無くそうとした時、それはゴミ山に住んでいる人にとって幸せなのだろうか?
と聞かれたら、そうじゃないなと思います。
必ずしも豊かになる、よくなることが=幸せに結びつくと言うわけではないことを、このゴミ山での体験を通して知りました。
知ることと全力でいること
この経験から、新たに二つのことを考えるようになりました。
まずは、自分の届けたいものが100%相手のニーズではないことがある、ということを理解すること。
一度セブでゴミ山を見た直後は自分のやりたいことは意味を持っているのだろうか、と迷ったのですが、ここで意味がないと振り切ることはしません。
自分がこういった思いをしたからこそこれを届けたいんだ、という信念を自分が持っている以上、それと同じ思いを持っている人は絶対にいると思うし、それが届くことで笑顔が増えるということを実体験から知っている以上、誰かには届くはずなんです。
ただ、その上でそれが必要でない、それはなくてもいいと思う人がいるという事実を知っておくことで、自分の気持ちにも余裕が生まれるし、それが押し付けではなくなると思っています。
自分が届けたい人に思いを届けるために、その思いが必要でない人もいるということを知っておくことをこれから意識してみようと思いました。
そしてもう一つは、全力でやることです。
当たり前じゃんって思うかもしれないですが、今回セブで何事にも全力で取り組み、輝いていたスラムの子ども、ゴミ山の子ども、運動会でスポーツをする子どもを見て、全力でやることのパワー、重要さを痛烈に感じました。
そして、自分にはそれが足らないのかもしれないということを改めて認識しました。
今の自分が全力じゃないと言いたいわけではないですが、今の自分が果たして全力なのか、そう言い切れる努力ができているか、改めて考えようと思いました。
全力でできたと胸を張って言えた時、幸せだなぁと感じることができれば、私の今回の仮説は正しいんじゃないかと言えると思います。
「幸せ」を探すためにも、輝いた自分であるためにも、全力で取り組んでいきたいと思います。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?