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『SO YOUNG』「吉井和哉についての二、三の事柄」(Re-mix)

『SO YOUNG』

今を生きるのは過去があったから
わめきちらして未来を探した

 吉井和哉はインタビューでこう答えている。
「(前略)一度は失敗して、『バカヤロー、失敗したけど……』っていう、そういう区切りの歌なんですよ」

 俺自身「バカヤロー、失敗したけど……」の、心境で、今からすべてやり直そうと思っている。
 「やり直す」というか、「生き直す」というか、そういう区切りの時を迎えている。

それはなんて青春 赤く開いた天国の扉さ

 自分の中には、自分でも抗えない気持ちがある。
 嫌だと思っても、膨れてしまうものがある。

 「嫉妬」だ。

 自分の中で、常に自分を動かしているのは嫉妬だと思う。
 「あの人には負けたくない」というような嫉妬。

 劇作・創作の道を志し、大学で挫折した足を再び踏み出したのがだいたい15年前。
 ’09年に劇作セミナーに通ったこともあり、創作についていろいろと考えた。
 同年代の劇作家・演劇人の多くは羽ばたいている。
 そりゃそうだ、俺だって今年厄年だ。

 このところ、嫉妬が止まらない。
 まっっったく接点はないが、俺と同じ大学を出て、第一線で戦っている人が大勢いる。
 まあ、俺はまぐれ当たりで潜り込んで、勝手に挫折して、精神の病の道へ迷い込んでしまったのだから、嫉妬もSITもないのだが。

 「演劇」という分野は大きな岐路に立たされた。
 トップランナーが流行病に声を上げるタイミングが早い分野であったし、出る杭は打たれた。

 俺はずっと「芝居が書きたい」と言ってきた。

 「芝居が書きたい」

 この言葉がもうひとつの、途切れない気持ちだ。
 ずっと俺の中で残り、今現在に至る。
 時に「呪術的」であり、時に「希望」である言葉だ。

 とは言え。
 俺の目指したい方向性が、演劇・戯曲でしか成し得ない表現なのか。
 小説やエッセイなどの「文字の文学」に向いているかもしれない。
 演劇でしか成立しないようなことを書き続けてきた俺が、これからどう生きるのか。
 方向転換することはナンセンスなのだろうか。

 今、自分の見えている景色、自分の中で描きたいと湧いているものを「どうやって」「表現」するか。

 それにしても、足りないものが多すぎる。
 何が足りないって、新しい景色を見るための「武器」がない。
 「勉強不足」も甚だしい。
 何も知らない。
 40を過ぎて、何もない。

 言い訳は出来る。
 「病気」だ。
 「統合失調感情障害」と大学2年生の時に名前がついた。
 こればっかりは事実のひとつだから、どうしようもないのだけれど。

 文章力もまだまだ弱い。
 だからこうしてnoteを使って文章修行をやり直している。

 10年くらい前までは、毎日鬱状態にあった自分の日常を、それでも何とか明るく出来るように努めた日記をmixiに書き続けていた。
 毎日毎日、同じようなことでも、とにかく書くことをやめなかった。
 それが日記のみであり、イコールで作品ではなかったのが、自分でもミスだと思うのだけれど。
 それでもある人に「あなたの文章が読みやすいのは、こうして日記を書き続けて文章を紡ぎ続けているからでしょうね」と言われた。

 ある日を境にmixi日記はパッタリと止めてしまった。
 ある場所への入所と、そこでのトラブルによるノイローゼの発症・統合失調症の悪化が原因だ。
 ただただ「芝居が書きたい」という想いのみを残して。

 「芝居が書きたい」

 「芝居をやりたい」
 ではなく
 「芝居を書きたい」
 なのは、何故か。

 これについては、未だに自分の中でも明確な答えを持っていない。
 ただ、昔ある有能な舞台制作の女性から、
 「ニイモトさんは、今現在売れたいんですか? 後世に名前を残したいんですか?」
 と、問われ、その場での返答に窮した思い出がある。
 要するに「同時代性」を持たせたいのか「普遍性」を持たせたいのか、ということだと、今は解釈しているけれど。

 mixi日記が止まったのが2012年の夏。
 障害者支援の作業所へ通い出した時だ。
 ごく一般に想像されるような障害者の作業所と違い、最低賃金保障・交通費別払いで、1日6時間拘束・4時間労働・将来的に障害者雇用への就職斡旋が保証されている、そういう事業所だった。
 だが、俺はそこで手ひどい目に遭う。

 ひとつは急に現れた、作業時間中に寝落ちしてしまうこと。
 体の反応だと思われる。
 ま、これはまだ、自分の体のことだから、仕方ないと言えば仕方ないのだけれど。

 しかし、そのことを端に発して、上司であるところの、福祉士の女性から、パワハラを受けるようになる。
 介護福祉士がパワハラをする、などと言うことが起こりうるのか、と思う人もいると思うけれど、実被害を受けた俺が言うんだ、間違いない。
 これは事実だ。
 介護現場という名前の職場を「介護職員」という立場で自分の手で押さえ込み、自分の意のままに操っていた。経営者から実務的な経営・営業業務を任されている「代表者」には手を出させない。自分の意に沿って働く従業員だけを尊重し、少しでも気に入らなければ、何か理由をつけて辞めさせる。
 いわゆる「独裁」だ。
 俺は、この福祉士に何故か気に入られた。
 毎日、他の利用者にはない「特別扱い」をすることで飴を与えられ、他の従業員より手厚い「介護」を受けていることを理由に言葉の暴力のムチに打たれた。
 日々日々言動を支配され、洗脳され、抗うことなく服従し、精神を病んでいった。
 次第に事業所の中でも孤立していき、話の合っていた人たちはどんどん辞めさせられていき、俺の相手にしてくれる人も1人だけになった。
 そんな灰色の日々を送っていた。

 それでも「芝居を書きた」かった。
 何かを残し、それから人生を終わらせたかった。

 作家の友人に「俺はどうやったら作家になれるんだろう?」と疲れ切った声で相談したことがある。
 友人には「書くしかないんじゃないですか?」と、当惑気味に、それでも真摯に言った。

 2013年3月。
 精神的摩耗が強くなり出した頃。
 仕事の効率が悪い俺に対し、業を煮やしたのかもしれない
 上司の福祉士が、いとも簡単にこう言った。

 「いつまでも夢なんか見てないで、作家なんか辞めなさい」

 「……殺された」
 そう思った。

 その日から、8月辺りまでの記憶がない。
 毎日通っていたサンマルクカフェで、コーヒーの味がしなくなったのはこの頃だろう。

 ノイローゼが完全に体内に巡ったのは2013年の6~7月頃。
 その当時、久しぶりに会った大学時代の友人には後日、「完全に目がイッていた」と言われた。
 そして、本人にはその自覚は全くなく、日々は陰々滅々と、鬱々と続いた。

 投薬治療の薬も限界に達したらしく、これ以上の薬は出せない、というところまで行った。
 俺は、今思えば、人生で最もモノクロに近い色の日々を送っていた。

 2013年8月、主治医より、正式に入院勧告。

 (次の日、介護士にそう告げると、「そうでしょ、私もそう言おうと思ってたの」、と……)

 準備をして、9月に入院。
 3ヶ月の療養入院。
 入院生活を送った3ヶ月間、毎日書いていた日記には、毎日この文字が書いてある。

 「芝居を書きたい」

 入院時に、精神状態がどうなるかわからないけれど、と思いつつ、何冊か本を持ち込んだ。
 その中には戯曲集も何冊か入っている。
 特に繰り返し繰り返し読み込んだ戯曲はケラリーノ・サンドロヴィッチの「祈りと怪物」と、井上ひさしの「天保十二年のシェイクスピア」だった。

 俺には「文学史」の知識は多少あっても、「文学的体験」が圧倒的に足りない。
 とにかく足りないのだ。

 「芝居を書きたい」=「本を読みたい」

 頭の中のモヤが邪魔をして、その願いは空転し続けたのだけれど。

 それでも、あのどん底の日々、そこから這い上がるための日々にも想い続けていたこと。
 「芝居を書きたい」
 これを、裏切ることは出来ないのだ。

 何回か病気が暴れた。
 いわゆる「狂気の淵」も見た。
 何とか、「向こう側」へは行かずに済んだ。

 退院して、事業所を退所。
 自宅療養を経て、2016年に演出家の小住優利子さんに誘われて執筆再開へと駒を進める……。

終わりのない青春 それを選んで絶望の波にのまれても
ひたすら泳いでたどりつけば
また何か覚えるだろう

 「芝居を書きたい」
 どん底だった2013年のあの秋も。
 書くことしか考えていなかった2016年のあの冬も。
 病気の自宅療養を余儀なくされている2023年現在にも。
 絶えず流れる想い。

 「芝居を書きたい」

 「書きたいなら書きゃいいじゃん!」
 そう思うようになったのは、恥ずかしながら、最近だ。
 そのために……と思って行動したことで、だいぶ遠回りをしてしまったけれど。

 何もしないのも時間の無駄だ。
 こうしてnoteに自分の体験やら恥やら想いやらを書き連ねて、人に丸裸に自分を見てもらうのも、ひとつの表現だと思っている。

 そして、やっぱりどうしても。

 「芝居が書きたい」

 書くしかないんだ。
 俺に他の道はないのだから。

誰にでもある青春 いつかわすれて記憶の中で死んでしまっても
あの日僕らが信じたもの
それはまぼろしじゃない

SO YOUNG!!

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