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性と声と生と ~淡雪屋電影譚を観て~

(ヘッダーは夢乃屋毒花さんのTwitterから拝借しました)
(これはあくまで個人の日記です。あと、ネタバレをします。一応お断りを。お断り入れたからね! 入れたからね!!)

2021/10/24に、あんっ♥HappyGirlsCollection(通称フココレ)の「淡雪屋電影譚」@ひつじ座を観に行きました。

俺が「全身演劇家」だと思っている夢乃屋毒花さん(おはなさん)が主宰する団体さんの、1年ぶりとなる復活公演。
おはなさんの作・演出作品としては去年2月の「豚にブラボー!」以来。

フココレの特徴は、過剰なまでの情報量と描写、場面の同時進行で情報圧縮。
同時進行で進んで行って、どこも進んでいっていくからカオスになる。
プラスして、シャッフルキャスト。
全公演全日程、キャスト・演出が違う。
簡単にやりたいとは言えないことだけど、やってしまうのがフココレだ。
(簡単にやっているという意味ではありません、念のため)
そのため、中毒性が強い団体さんだ。

性風俗店を舞台にした淡雪屋シリーズの最新作。
前回の『流寓譚』はマッドマックス的世紀末世界観に屹立するストリップ嬢たちの話だった。

今回は、現代のような、近未来。
パイパンバンパイアと呼ばれる疫病によって、上や下の口を噛まれたり性交を交わすだけで男女構わず不幸女子になってしまう世紀末的世界。
小劇場劇団主宰・三木桜が劇団存続のためにバーチャル風俗(VR風俗)を始めるが、インターネット空間の波にまきこまれて……という筋立て。

これまでは群像劇の手法が多く、かなり混乱することが多かった。
今回は情報量が過去最多なくらい盛られていた。
だけど、俺としては、群像劇ではなく、桜と、彼女の分神であるVRの風俗嬢・アバターの泥沼みずあめちゃんのストーリーが主軸にあったので、見方を整理する(観客の勝手だが)ことで、脇筋・小ネタを横に見つつ、ストーリーとその奥にあるものを観ることが出来た。

今までのフココレは、「ノンフィクション」を「フィクション」にして舞台化する手法を使っていた。
今回感じたのは、「ノンフィクション」の「フィクション化」をして、舞台上で役者たちが「ノンフィクション」として見せる、と言うこと。

今まで一番情報量の詰め込み方だったと思う。
情報が歴史的重さを持つもので、かつ量があったのが『豚にブラボー!』だった。歴史という名前で風化させてはいけないことの数々を、笑いをまぶすことで逆に笑えなくする、そしてラストにたたみかける凄惨さが強い作品だった。その分「不幸女子」が弱かったかな、とは思いつつ、中毒性は強かった。

今回は同時代性の情報量と、個人的経験&感情の表現の量が多かった。
今回は今までの中でも、最も書くのも舞台に立ち上げるのも大変だったと察しました。

事前に今回はカオス中のカオスだと聞いていたけれど、確かにカオスだった。。
だけど、今まで観たフココレ作品の中で、一番わかりやすく(個人的に青年団その他の影響で、同時多発に慣れているせいもあるけど)、一番整理されていたと思う。
そう思わせるだけに、台本の裁き方の労力と稽古量は並大抵のモノではなかったと感じ入った。

見やすかったのは、桜が出ずっぱり、と言うか、舞台からハケてないんじゃないかな、そのおかげもあるし、桜のサポート役・麻耶と野田が常に舞台上にいるので、俺はそこを主軸に脇筋として同時進行を観ていったので主軸を見失わずにすんだ。
(演出の変化によって麻耶と野田は別の役もやるのだけど)

今回は、おはなさんがこだわっている「不幸女子」を、桜ひとりがほぼ担っているのが、観る焦点がブレない点だったと思う。
その点、一番最初のパイパンバンパイアの「感染すると不幸女子になる」という設定が入り口だけになっちゃったかな、と思った。でも、見方を変えれば、他の「女子」は「不幸女子」だった、と取れるし、出てくるのは欲望にまみれたVR空間の男たち(と、VRと現実をはき違えた男たち)だ。
パイパンバンパイア=コロナと簡単に受け取れるけど、それだけじゃない闇が待っている。

俺が観に行ったのは千秋楽。バナナ回とモモ回と呼ばれる回の組み合わせ。
そして、これはワンセットだなと感じた
だからこそ、事前におはなさんは俺を最終日に誘ってくれたんだと。

冒頭とエンディングに何回も繰り返される「この物語はフィクションです」をどこまで飲むか。
それは毎回のフココレの趣向でもあるし、それ故にいかにフィクションのコーティングがしてあるかがキモなんだけど。
今回は「疫病が流行った国で、借金を返すためにVR風俗で稼ぎ、ネタを探して台本を書く劇団の主宰」という、某SNSで見ていたおはなさんにかなり肉薄していたので、どこまでがフィクションでどこまでがノンフィクションか、どこまでがフィクション化していてどこまでがノンフィクション化されているのか、そこが焦点のひとつかな、と。

もうひとつの焦点としては、そのSNS社会。
画面の向こうの「普通の人」の「加害者意識」「被害者意識」の「無さ」が、桜を絞めていく。
桜の分身であるみずあめのライバル、いちごちゃんは回によって見え方が違うのだけど、俺の観た回は通称「悪いいちごちゃん」で、意識的にみずあめを陥れていく。だけど、それだって、彼女の中の人だって不幸でないと出来ないだろう行動で。
そのいちごちゃんや「クソ男」たち、「世間」という名の「自覚のない殺意」に弄ばれていく桜。
そしてラストスパートの叫び。
「あたしを殺そうとしたら演劇にされるって思いしれくそ野郎ども。」
そしてあの演出……。

ここから先は完全に「桜=おはなさん」の解釈で話を進めます。

6公演6パターンあって、俺は2パターンしか観ていないのでなんとも言えないが、千秋楽の2公演は、本当におはなさんが「今」やりたかったことなんじゃないのか、と感じた。

マチネのバナナ回は、おはなさんの理解者の(と俺は思っている)三枝ゆきのちゃんが桜を演じることで、おはなさんが客観的に自分を演出したと思った。
ゆきのちゃんというフィルターを通して、桜の巻き込まれていく世界という「フィクション」が舞台上で「ノンフィクション」になって展開されていっているな、と。
また、桜の一番の理解者である麻耶(女性)を男性の末永全さんが女性として演じ、その上で一番のクソ男・三浦を兼ね役で演じる、と言う演出。そこに、世間の表裏一体を表現しているように観た。
桜が崩壊していく様が徐々に徐々に丁寧に演じられていく。
そしてラストのカタルシス。
(あの役作りであの役演ったら、そりゃ痩せるよ)


モモ回はストレート回というか、ストレートな表現回だったな、と。
本当につらい想いをしていないと書けない「フィクション」を、あらゆる手を使って「ノンフィクション」で舞台上に描いているな、と。おはなさんが直情的になればなるほど、他の登場人物(=世間)が冷たく、桜が恋に落ちた三浦の正体が「感情の薄い何でもない男」つまりは、ただの「世間代表」だということが浮き彫りになっていく。
ゆきのちゃんが「役」として桜を演じていたのに対し、おはなさんの桜は舞台上で「ノンフィクション」として生きた。それ故、ラストの畳みかけとおはなさんの桜がとるあの行為、あの台詞は……。
だから麻耶がゆきのちゃんで、純が湯木しをんさんで…という配役が絶対的条件だったのだろう。

この感想にはうまく盛り込めなかったけど、インターネットは「不幸」でSNSの誕生は「不幸」だということを、しっかりと描いていたと思う。

毎回のことではあるけれど、今回は特に男の性に踏み込んだ内容がよかった、と。
おはなさんの考えが反映されたなって素直に思った。
世間の性的人間をばっさばっさ舞台上で復讐していたのがその証拠だと思う。
俺の知っている男性の、性の感情の具体例が出てきては消えていった。
それが男たちの「無責任な欲望」を「ネタ」にすることでの復讐なのだと思い、俺の中の性への考えに訴えかけてきた。

性的なことに関してのおはなさんの向かい方は感情移入できたのは、セックスワーカーに対しての考え方が、俺の中にひとつある考え方に合ったからだろう。
俺はセックスワーカーに対しての世間の風が大嫌いで。
それはセックスワーカーに対して、単純に性産業=惨め・欲望のはけ口、は違う、ということ。最近出てきている性産業を取り扱った映画がどれをとっても性産業を否定していることに対して、俺はセックスワーカーへの侮辱だと感じていて。
おはなさんの言動・劇作の中には、性と欲望への肯定と否定・愛情と憎悪を感じている。
だから、フココレの、おはなさんの芝居が俺にはフィットしているんだと思う訳で。
そこが俗世間との感覚の違いであり、だからこそ様々な表現方法を使って表現していきたいし、闘っていくんだな、と。

若干、話がズレたかもだけど。
今回は現代の「性」と、情報化という名前の「声の」無責任とその中での「生」を、やろうと思えばゴリゴリの社会派でやれる内容を、下ネタというオブラートで包み、舞台上でいっぺんに「世界」を見せることでカオス化させて、ラストで情念を「燃やす」、小劇場演劇でしか出来ない表現を存分に感じ、楽しみ、男としてぶっ刺してもらいました。

座組の男性キャストが全さんだけ、というのが、見やすさのひとつであり、全さんに女性を演じさせることで男を殺しにかかっているな、と、思ったところで、なんだかわかったようなわからないような長い感想、終わり。

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