差別との戦い その4

差別との戦い その1  https://note.mu/grin/n/nac0efe9fb15c

差別との戦い その2  https://note.mu/grin/n/n953098a7ceff

差別との戦い その3  https://note.mu/grin/n/n3042005d8b02

 私は本稿のその2でこう言った。差別との戦いの勝利条件は、かつて差別されていた"自分たち"がごく普通の存在として社会から受け入れられるようになることではないかと。だが、ただしそれは、差別という堅固であまりにも古く巨大な、人類の営みそのものと言っても差し支えないような相手とあえて戦おうとするならの話だ。

 もっとも、差別と戦って勝利するなんてどだい無理なことなのだなどとは私は言わないし、思ってもいない。ただ、それがものすごく長大な時間と地道な努力の途方もない積み重ねを必要とする、かなりの難事業であることは間違いないと考えてもいる。同性愛者に限定してもその目立った戦いの歴史はすでに60年近い時を経ており、それでもいまだ終わりは見えない状況だ。しかも、私個人の見立てではあるがこの戦いが決着を見るまでには、たぶんあとまだ数世代ぶんもの長い長い時間が必要となりそうだ。

 遠い未来の同胞たちのために、今はまだ報われないとしても懸命に戦い、そして新たな、血縁や養育といった繋がりを持たない世代にも夢を託し続けていくなどという難事が実際に可能であることを、過去のあらゆる同性愛者解放主義者たちは示してきた。そうでなければ、大勢のたゆまぬ努力が何十年も継続されることなどありえない。これはこれで確かな、とても大きな希望であると私は思う。同じ夢を受け継いでゆくというのもまた人類の大きな、そして大切な営みなのだが、そこに必ずしも血縁というパーツは必須ではないのだということが、すでにここでは実証されている。そのことに私は感動を禁じ得ない。

 だが、である。

 私は強欲だ。なのでそこで満足はできない。確かに、まだ見ぬ未来の同胞たちのための礎となることは大変に気高いことだ。でも私は今ここに生きている同胞たちにもできれば今生のうちに安寧を得てほしいと、そう思わずにはいられない。

 今この瞬間にも、絶望し自死の願望にさえ囚われ苦しんでいる同胞は確実にいる。たくさんいる。私はそれを骨身にしみて知っている。

 頼りないこの単身で大勢の他者を救うなどという大それたことがおいそれとできようとは思ってもない。どれだけ心血を注いでも人知を尽くしても、伝わらないことはある。だが、だからといって何もしないで見ているだけも私にはできそうにないのだ。


 この、やたらと長い記事のそもそもの立ち位置にここで戻ってみよう。私は本稿のその1でこう言っている。「そもそも差別と戦うべきなのだろうか?」

 未来の可能性のために戦い、だがいま現在の自分自身のためにはあえて戦わない。そんなめちゃくちゃなやり方をこれから私は示そうとしている。とても難しい。現に、だいぶ前からキーボードを打つ私の手は止まってしまっている。

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