差別との戦い  その1

 プロフィールにもある通り私はゲイであるが、思い出せる限り、それによって差別されたと感じたことはない。しかしそれは私がクローゼットな(同性愛者であることを公言していない)ゲイだからであって、カミングアウトした同性愛者が差別を受けることはままある。

 言っても得しないと判断したことは言わない、というのは私にとっては至極当たり前の選択なのだが、律儀というかなんというか、沈黙は偽りの一種であると考える人たちは意外と多く、そういう人たちは友人や家族に対して自分が同性愛者であることを表明しないまま接し続けることに窮屈さや違和感や罪悪感を覚えるものであるようなのだ。

 本来の自分を知ってほしい、嘘偽りのない素のままの自分で生きていきたい、というその願いは(生きてきた時代の相違もあってか)共感こそできないが、かろうじて理解はできる。それに何より、当人が熟考したうえでそうした結論に達したものであるのなら、尊重したいと考える。だがそうした願いが差別という壁に阻まれて不幸な結実をすることも、少なからずあるのが現状だ。

 ニュースになるものからならないものまで、今までたくさんの、こうした同性愛絡みの不幸は繰り返されてきた。私が自身の性指向について明確な自認を持ち始めたのはもう四半世紀も前のことなのだが、その当時からすでに同性愛者差別に抵抗する運動は行われていた。以来、同性愛者差別と戦う人たちは増加傾向をたどり、今や同性婚も通常の婚姻であるとして法的に認められるまで、あともう一歩という所まで来ている。すごいことだなと素直に感じている。

 私も私のパートナーも同性婚は望んでいない。それに、同性婚が法律上では異性婚と何ら区別されなくなってもそれで全てが万々歳とはならず、相変わらずオープンな同性愛者たちの苦難はまた少し違った形でしばらく続くのだろうとは予想している。だが、同性婚と異性婚が法的に同義とされることは喜ばしいことだがそこが最終的なゴールではないのだという認識は、ほとんどの同性愛者たちも共通して持っているはずだと思っている。だから、水を差すつもりは毛頭ない。そこは明言させていただく。


 だが。

 とそう、残念ながら続けざるを得ない。なぜなら、同性婚にまつわる是非や意義についてのあれやこれやよりもずっっっと手前にある『差別と戦う』ということについて、私はたぶん(あらゆる被差別者たちの)大勢とは意見を異にしているからだ。

 多数決でいうなら間違っているのは確実に私の方だということになると思う。黙っていればいいものをわざわざ声高に奇異な意見を表明するのはただ単に新たな敵を増やす行為でしかないのかもしれない。だがそのあたりの事情もわかった上で、それでも私は言わせていただく。「差別と戦って勝ち目はあるのか?」「そもそも差別と戦うべきなのだろうか?」と。


 こうした意見がある。「同性愛者らは自らも差別を受けている身の上でありながら、他の(外国人などへの)ヘイトに対してダンマリを続けているのはおかしいのではないか」「同性愛者として差別と戦っている当事者が誰かを差別するのは明らかな矛盾である」

 ごくありふれた、そして的はずれな意見で、私からすれば「何を言ってるんだろうなこの人たちは?」という程度のことなのだが、意外なことにというか、(いやむしろ勢力図的なことを考慮すれば順当なことなのかもしれないが)こうした批判に対し敏感に反応し、反省したり反撃したりする同性愛者たちは少なくないようなのだ。

 そこに彼我の隔絶を感じる。というのも私は、差別的心情それ自体については容認しているからである。

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