差別との戦い その2

(差別との戦い その1 https://note.mu/grin/n/nac0efe9fb15c)

 ここでひとまず、差別との戦いの勝利条件とはいったいなんなのかということを確認しておいたほうがよいかと思う。私的にはそれは、『かつて差別されていた"自分たち"が、ごく普通の存在として社会から受け入れられるようになること』ではないだろうかと考えている。

 あくまでも『自分』と『自分たち』(つまり私の場合は男性同性愛者)が差別されなくなること。そこを目指していくのが最も効率的で現実的だと私は考えているのだが、こういったことを吹聴すると必ず、「お前は自分さえ良ければいいのか」といったような批判が返ってくる。

 自分(たち)さえ良ければいいというスタンスはたしかに一般的には良くないことかもしれない。しかし自分の立場や環境を自分の手で改善していく努力や工夫は一般的に良いことだともされている。

 一方で、実現する可能性の低い、または時間的に途方もなく遠くにある目標や夢を掲げ、それを(公言することによって結果的に)他者をも扇動しておいて結局は何の成果もあげられず、ただただ多くの人の貴重な時間を浪費させただけで終わるというのでは、それは単なる自己満足ではないのかと考えることもできる。場合によってはこれもまた「お前は自分さえ良ければいいのか」「ただの理想主義ではないのか」などの誹りを受けても仕方がないレベルの行為ではないのかと思うし、もう一段飛躍すると、そういう流れに持っていくことがホモフォビアに罹患したヘテロ社会の一部の潜在的な思惑なんではないかという邪推さえ(酔っぱらってるときなどには)浮かんできたりするぐらいである。


 ここで私が実現する可能性の低い目標や夢であると断じているのは、『世界中からあらゆる差別をなくすこと』である。とても美しく魅力的だが、しかしこれはただの幻想であると私には思えてならないのだ。

 ホモ・サピエンス、ホモ・ファーベル、ホモ・ルーデンス、ホモ・シンボリクス、などといった人類と他の生物とを分ける「ホモなんとか用語」はけっこうたくさんあるのだが、ホモ・ディスクリミナーテ(差別するもの)というのは見当たらない。だがそれは意外でもなんでもない。なぜなら動物界において『差別する』という行為はごく普通に行われていることで、人間特有の行動などではぜんぜんないからだ。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/042000151/

http://ディスカス.biz/archives/61

https://www.google.com/search?client=firefox-b-d&q=%E3%82%AA%E3%83%A1%E3%82%AC%E5%80%8B%E4%BD%93

https://www.google.com/search?q=%E9%A0%86%E4%BD%8D%E5%88%B6&client=firefox-b-d&sxsrf=ACYBGNQ4Y89hWCfR5oWzxGUJiDv3SBftZA:1571843023736&ei=z2uwXYy5LJCh-Qb2nIeQBg&start=0&sa=N&ved=0ahUKEwjM3MnI07LlAhWQUN4KHXbOAWI4ChDy0wMIcg&biw=1536&bih=767

 例えば捕食者と被食者が1対1で対峙した場合、かなりの確率で被食者は助からない。だが群れを作って行動していれば個々の生存率は高まる(希釈効果)。その効果をさらに高めるには、捕食されやすい弱い個体をあらかじめ用意すれば良いという意図もあるかもしれない。これは食物の不足や災害や事故による危険にも当てはまるだろう。

 人間もまた群居する生物である以上、生物学的に差別やいじめを行う素地は持っている。「そうだとしても人間は人間らしく理性によって自身の行動を制御しよりよい社会を目指すべきだ」という意見には同意する。が、人間としての『理想』を早々と引き下げて『本来』の位置にとにかく置こうとする傾向には反発する。自分の、動物としての生来の姿から目をそらすことは、理想の実現をかえって遠ざける結果しか生まない。

 簡潔に言うと、人間は差別をする生き物の一種なのだ。誰かが誰かを差別するというのは悲しいかな、(今のところは)普通のことなのである。

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