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その螺旋の先の、黒幕が知る結末。

これを書くのは少し恥ずかしい。
恥ずかしいが、別に誰が読むわけでもなし、しかし書いて自分の頭を整理してこの辿った道に一つ一つマイルストンをおく、
そしてそれがいつか必要な誰かに届くかも知れないので、ここに記載しておくことにする。

去年の夏頃だったか。
私はずっと隠していた自分の恋愛についての記事を書いた。

何年も忘れられなかったこの感情と、とうとう決別する、という自分的にはかなり盛大な決意のnoteだったのだが、
それを投稿するのに1週間くらい、トイレやお風呂やお布団の中で、一人になれる時間を見計らってはめそめそと泣き続けた。
そしてそういった感情を「外すことができる」と断言していたカウンセラーのところに行って、神妙な顔で、
「例のアレ、もう取ってください」
と申し出た。
その、後日談になる。

恋愛の経緯はこうだ。
別にどこにでもあるような、なんの変哲もない話。
ただ私がある人に恋愛感情を持っていて、そこにはきっとなんらかの結論がもたらされる、恐れと期待を抱いていたある日、パタンと扉が閉ざされ、その人に会えなくなった。
なんの結論も得られないまま宙ぶらりんに、
期待しながら怯えながらでも夢中になって読みふけっていた推理小説の下巻を待ち続けるような状態に、期せずして陥った。
面白いのはそこからだ。
数ヶ月は頭が真っ白になって、
ただひたすら息をしてご飯食べて歩いて子供の世話して友達と話して、手を動かしてお金払ってお風呂に入って眠って音楽を聴いていた。
喉から下は人間として機能しているのに、はたから見れば精一杯、普通の人間に見えるように振舞っているのに、
自分の中の何かが完全に仮死状態になっている。
数ヶ月経ってふと、この世の終わりみたいな悲しい音楽に出会った。
それを聴いたらようやく涙がちょびっと出て、ああ、自分はずっと泣きたかったんだと気がついた。
と同時に、私は一体どうしてしまったんだろうと怖くなり始めた。

昔々、若い頃、付き合ってた彼氏と別れた。
今思えばほんとにしょーもない男で、ほとんど懇願されて付き合い始めたはずなのに、いつの間にか私が振り回され、
心が疲弊して身体の中は心底うんざりしている、みたいな状態が続いていた。
これはもうさっさと別れた方がいいと頭では分かっているのに、いざ別れようとすると内臓が引きずり出されるような激烈な痛みが来る。
それで、一緒にいる苦しさとその内臓がえぐられる苦しさを天秤にかけて結局別れられない、みたいな、まあ世に在りがちなことを繰り返していた。
やっとお別れできることになったとき、もはや全然好きじゃない相手なのにまたあの苦しみがやってきて、
恋愛をすると全ての人が、本当にこんな強烈な苦しさを経験しながらこれを乗り越えているのだろうかと信じられない気持ちになった。
その人が、海外に留学してくれたので助かった。
とにかく目の前から強制的にいなくなったので、私はひたすらその痛みに耐えて自分が自然に回復するのを待つ以外、選択肢がなくなった。
その痛みに集中しないようとりあえず出来ること、友人や恩人に助けられ、友達との予定をあちこちで作り、学業や将来に集中、バイトを入れまくって
夜は毎日、疲労困憊で考える間もなく寝落ち出来るようにスケジュールを組んだ。
するとだんだん他の大変なことに気持ちが囚われて、元彼のことも痛みのことも思い出さなくなってきた。
次の恋愛なんかしてしまってもいいかも、と思えるようになったとき、自分は元気になったのだとようやく自信が持てた。
それでカレンダーを振り返ってみたら、あの日から、なんと2ヶ月しか経っていなかった。

たった2ヶ月。
衝撃だった。
人間とはこんなにももろく繊細なくせに、なんと頑丈なのか。
私はこの「2ヶ月の法則」というものを、覚えておこうと決めた。
この先、どんな苦しいと思うことがあっても、その苦しみは2ヶ月、思いっきり他のことに振り切って楽しんで生きていれば、きっと消える。
今が春なら夏が始まる頃。今が冬なら、桜が咲いたり少し暖かくなる頃。
たった一つ、季節を超えるだけだ。
だからもう、あの中身のない悪魔のような苦しみに心を囚われて、間違った選択をしないように。
長い人生のうちのたった2ヶ月耐えれば、パッと太陽の輝くひらけた大通りに出られる。

そこでさっきの恋愛の話に戻る。
ようやく自分はちょっとおかしい、と気がついたとき、私は自分がいつからこんなことをやっているんだろうとカレンダーを振り返った。
仮死状態になってから、優に8ヶ月は経っていた。
あれ、自慢の「2ヶ月の法則」はどうした。
いくつ見上げることもない季節をまたいでしまったのだろう。
さらに衝撃だったのは、写真もSNSも知らないその人の、顔が思い出せなくなっていることだった。
確か、メガネをかけていたような気がする。メガネのフレームや、つけていたネクタイの柄はかろうじて思い出せるのに、
大好きだった顔が、どうしても思い出せない。
いやいや、頭おかしいでしょ。顔も思い出せない人が、忘れられない?
自分の頭はおかしくなってしまった。
これから、どうしたらいい?
それとも、今まで経験したことのない未知の何かが、自分に今、起こっているのだろうか。

それで、それを確かめるための長い長い旅が始まった。

この世の中には、テレパシーというものが存在する。
目の前にいる人が、なんとなく自分に怒っている気がする、ムッとしている気がする。
水面下で何かまずいことが起きている気がする。
口では罵りながら喜んでいる感じがする。
言葉を話さない動物が、明らかに何かを誤魔化していたり、食べ物をもらえるからではなくもっと純粋に、飼い主を信頼し愛しているのを確信することもある。
空気を読むのが得意な日本人は特に、このような場の空気、相手の感情を日常の中で感知しながら生きていることが多いのではないだろうか。
だが厄介なのは、それが本当のことなのか、それとも単なる自分の思い込みなのか、答えが出ることは永遠にないということだ。
それなら言葉で正確にコミュニケーションを取ればいいのかといえば、
人には「本音と建前」という極めて煩わしいものがあって、
結局、相手の本心を笑顔や言語によって獲得しようとしても、明確な正解は出てこない。
つまり、相手の心の中が実際どうなっていたのか、現場で何が起こっていたのか、そこには究極、「答えはない」ということになる。
感じ取るべきことは常に、相手が〇〇と感じているに違いないと「自分が」感じた、ということ、
それによって自分は何をどう感じ、何がどう変化したのか。それだけだ。
事実はなんだったのか、相手は実際どう思っていたのかは、関係ない。

私はここ数年、カウンセリングを受けているのだが、その中で、
どうやら自分は、「空気を読む」からも「実際に起きていること」からも、
感じ取って蓄積していく情報量が他の人よりも数倍多い=頭の中が常に人の何倍もうるさいらしい、ということに気がついた。
だからいつも、例えば大勢の人に会った日の夜は、何通りも何通りもその日の出来事を反芻して、その場にいた全ての人に対して大反省会が始まって眠れない、
だからいつも苦しかったのだ、というカラクリに気がついた。
HSPというのらしい。
私に言わせれば、全ての人はテレパシーを使っている。
私はその言葉を、口で発している「建前」と、テレパシールートで聞こえてくる「本音」の両方を聞いている。
多くの人は、自分は全身から大量の「本音」を饒舌に発しているくせに、人の「本音」の多くをスルーして生きているのであって、
私ほど多くの「本音」からの情報を気にして生きていない。
日本人の大好きな「空気読めよ」は継続しているくせに、その感覚を受信に関してだけ大きく退化させている。
それは私にとって、はっきり言って、隕石がピンポイントでマンションの自分の部屋に落ちてきたくらい唖然とする事実だった。
だって彼らの「本音」はいつも、耳を覆いたくなるほど醜悪なもの、こうなったらどうしようという怯えや恐れ、
それゆえに、今、目の前の相手をなんとかして自分の思い通りに動かして、自分だけうまく立ち回りたい、というコントロールや怒りばかりだからだ。
てっきりお互い様だと思って耐えていたのに、まさか私の一方通行だったなんて。
この「本音」の部分が疲れ切っていて麻痺して、もはやスカスカの砂嵐状態、結果、何も考えていない人の方がいっそ一緒にいて楽だと感じるほど、
そこに晒されながら仲間のように振る舞い続けるのは苦しい。


その時まで、そういう人たちにしか、会ったことがなかった。
その人に会うまで。
しかし、その人は本音と建て前が逆なのだ。
本音の方が美しくまっすぐで、苦し紛れに絞り出し、なんとかその場に帳尻を合わせている建て前とそれがズレている。
その齟齬が、その苦しさが、私にはどうしてか、自分のことのように手に取るように分かってしまう。
その人に会えなくなってから随分経って、その人と会った時には必ず、リマインダーとしてメールが送られてくるシステムがあったことを思い出した。
それでそのメールを参考に、ある日、今まで累計どれくらいの時間をその人と共有したことがあるのかを計算してみた。
合算してもそれは、24時間にも満たなかった。
その中で、その人と直接話した時間を思い出せる限り精一杯かき集めてみたけれど、それも10分に届かない。
それなのに、私はその人と、膨大な情報をやり取りした記憶がある。
会話の内容なんて挨拶とお天気以上の話はしたことがなく、知り合いとか友人とか同僚であるなら知っているはずの基本的でパーソナルな情報、
どこに住んでいるのかとか、何歳なのかとか、電話番号とかメールアドレスとか家族構成とか趣味とか、何も知らない。
なのに、私はその人のことを、知っている。
その人の内側、思考のパターン、おそらくその人のごく親しい家族や友人でも知らない、もしかしたら本人すら気がついていないかもしれない
もっと深くに何が詰まっているのかを知っている。
口では全然違うことを話しながら、その人は巧みにテレパソールートを使って、私に膨大な情報を送ってくる。
それを私が、そこそこ正確にキャッチしていることを知っている。楽しんでいる。
そして私は、それを私がキャッチしていることをその人が気づいている、ということを知っている。
というやり取りが、空中戦で成立していることを、その人は知っている。

気のせいでしょ?
思い込みなのでは?
頭おかしいの?

そんなツッコミは、自分ですでに何万回、何千万回もしたし、何度も自分の中で精査した。
だけど、実際にそこに在るものは、私がそう感じ取れてしまったものは仕方ない。
だからつまりその人は、私と同じくらい膨大な情報に日々晒されながら、私と同じような彩度の世界を生きているということになる。
この年になってもいまだに、いちいち岩にぶつかって上手く生きれなくて、
自分がどの椅子にどんな顔して座っているのが正解なのかわからないでうろうろしてる私のような人間からしてみれば、
彼のような人が、やりたい仕事で卓越した能力を発揮し、それを楽しみ、居場所を持ち、そつなく人間関係をこなし、バランスを取り、
何をしてるのか総じてよく知らないんだけれど、とにかく同じこんなとんでもない時代を孤独を隠して生きている、
本音はともかく社会にきちんと照準を合わせた建前を持ちながら溶け込みながら存在していることは、
ほとんど奇跡のように見える。

昔、松本大洋の『ピンポン』という漫画があって、それが本当に大好きだった。
スマイルが、ペコという親友に食らいついて必死になって求めたものは、友人を打ち負かす栄光でも決着でもなく、
幼少期、初めて勝負したあの時の純粋な楽しさ、二人だけの空間の再現だった。
あのシーンが、ラストのスマイルの笑顔が、何度読み返しても泣けて泣けてしょうがなかった。
スポーツや将棋や囲碁の勝負でもなんでもそうだが、勝負している当人たちにしか分かれない世界というものがあって、観戦している私たちはそれに想いを馳せて憧れる。
鍛錬し準備し、そうやって戦いの舞台に上がったもの同士にだけ没入することのできる、物理的には存在していない空間。
一人では決してたどり着くことのできない世界。
私があのテレパシー空間に感じていた感動を、無上の楽しさを、その人は覚えなかったのだろうか。
その人にとっては別にあんなものは珍しいことでもなんでもなくて、いつも周囲の人間とあんな風にテレパシってるのが当たり前なのだろうか。

とにかくあれを一体、なんという言葉で説明すればいいのかわからないから便宜上テレパシーと呼ぶしかないのだが、あれは一体なんだったのだろう。
答えはずっと、出ないままだ。
そして実は、現実には会えなくなってもそのテレパシールートは、今も続いている。

考えごとをしている。
例えばその考えごとに、何か特殊な、あまり使わないようなキーワードがあったとする。
その質問の答えはわからないから、とりあえず頭の中で保留にする。そしてある時ふと開いた本のページから、
およそそのキーワードとは関係ない内容のその本から、不意にそれが現れる。
ページを開いた瞬間、それを伴った一行が、私には太字で強調されているように浮き上がって見える。
そして次の瞬間、それが、私が知りたかったいつかの質問に対する、かなり斜め上からの解決策であることを知る。
誰かが、私に、返事をしている。
ピンとくるのは、もちろんあの人しかいない。
そういう確信を、その瞬間の驚きを、いくつもいくつも疑うたびにそれを打ち消すように積み上がっていくそういった経験を、どう人に説明すればいいのだろう。

この回線は、やっぱりまだつながっている。
瞬間、気分が高揚し、やっぱり自分は、頭がおかしいのではなく何か、今まで経験したことを超えた何かを体験している。
そうやって一気に躁状態になる。
しばらくはその躁状態にとどまれるから幸せな気分でいられる。
でも、その躁状態にはリアルに伴うものがない。
推理小説の下巻は、待っても待っても発刊されない。
そして、やっぱりそんなものを信じていること自体全部ひっくるめて、自分は本当に頭がおかしいんだ、という現実的な結論に突き落とされる。
それで自分を罵倒する声が止まらなくなって、今度は苦しい鬱状態が続く。
しかし油断した隙にまた、驚くようなルートを通ってテレパシーがやってくる。
最初は数ヶ月に一度のラリーだった。それが、だんだん返信のスピードが上がり、一度にもたらされる情報量も上がってくる。

躁状態が決してハッピーではないのは、いずれ鬱に落ちるから。麻薬と同じだ。
巨大なメトロノームの先端に背中のフードが引っかかってしまったみたいに、目の前で繰り広げられる淡々とした日常とは全然違う次元で、常に振り回されている。
もうここを抜けたい。苦しい。どうしたら出られるのか教えて欲しい。
ある日、何度目かの鬱状態に叩き落とされたとき、ふと冷静になった。
またネガティブなターンが来たことにがっかりするのと同時に、まもなくまた新しいアレが来る、とどこかでワクワクしている自分がいる。
自分は毎回同じ鬱状態の泥に落っこちているのではない。
まるで同じと錯覚するくらいわずかに、前回の鬱より数センチ上にいる。前回より確実に、苦しみが楽になっている。
そのことに気がついた時、私は自分がどこにいるのか、その空間の形状を理解した。

多分、このまま再び躁状態に上がった時、その躁状態は前回の躁状態よりも少しだけ冷静な、前回の数センチ上の軌道を通る。
そしてまた鬱に戻る。それはまたさらに前回の落ち込み方より少しだけ冷静な、数センチ上、、、そしてまた躁状態へ。
今、私が迷い込んでいる空間は、正確に同じ距離を右から左へ振れ続けるメトロノームではない。
これは、螺旋だ。それも、筒状に上昇していく常螺旋ではなく、円錐螺旋。

登山をするとき、山の入り口はなだらかで、壮大な山中の一本の道の上を歩いている私たちには、道を歩いているのか坂を登っているのかよくわからない。
しかし中腹にたどり着いたあたりから、道は上方に向かってはっきりと険しくなる。
だから螺旋の下の方にいるうちは同じところをずっとメトロノームのように行ったり来たりしているように感じるのが、何周も何周も軌道をたどって上に上昇していくと回転が速くなり、自分が同じ場所をなんども通っているようでありながら上に向かって上昇している、と感知できるようになる。

私は今、螺旋のかなり下の方、でも登山口を抜け、足の裏にようやく登り坂を感じる地点にさしかかろうというところにいる。
膝をつきそうになると、必ず助けが来る。躁状態に引っ張り戻される。
躁状態で止まりそうになると、頭をひっぱたいて鬱状態に落とし込まれる。
躁鬱を繰り返すことによって、私たちは次第に鬱にも躁にも動じなくなって行く。メトロノームのようだった揺れ幅は、少しずつ狭くなる。

その目的は?
どんな躁鬱にも、どんなポジネガにも、どんな外側の状況にも振り回されない自己を獲得すること。
螺旋を登っていた先とは、自分の中心軸だ。
ようやく楽になれる地点。
そこに全ての答えがある。
そこに、その人は私を導いている。私を楽にさせようとしている。
ずっと苦しかった人生に、答えを与えようとしている。

陰謀論界隈ではずっと、「緊急放送」というのがくると言われていた。
それは、陰謀論者たちが信じる「真実」が、誰の目にもわかるようにはっきりと全世界的に放送されて、
巷で変態と罵られ虐げられてきた少数派の陰謀論者たちの説こそが正しかったのだと証明され、そして夢のような明るく清く正しい世界がやって来る、という嘘のようなほんとの企画
確か初めて緊急放送が来る、と言われたのは2020年の7月だった。
これから世の中が大変な混乱状態になるから、お金や食べ物の備蓄をしなければいけないと言われて、密かに歓喜しながら私は、
親族ご近所友人全部含めて自分しか陰謀論者なんていないものだから、私がみんなの分までできる限りのことをしておこうと奔走したものだ。
しかし、固唾を飲んで見守った7月の指定された日、それは来なかった。
そしてがっくりと膝をついた私たちは、しばらくして、実は退っ引きならない理由で、それは8月に延期になったのだ、と知らされた。
騙されたのだともう諦めて備蓄に手をつけ始めてしまった私は、それを聞いてまた新たな備蓄に奔走した。
そしてまた、8月の指定された日に、騙されたことを知った。
毎月、毎月、そうやって今度こそと期待しては騙された。
暮れになっていよいよアメリカの大統領選挙も迫り、12月にはシドニーパウウェルのクラーケンが発動される、なんて言われて、
クラーケンなんて言われたらもう今度こそ来るのに違いないと界隈の人と盛り上がって、またまた備蓄に奔走した。
だけど、その頃にはどこかで、どうせ今回も嘘なんだろうと、笑い出しそうになっていた。
だって私はもうコレを知っていたから。
私はもうこの授業を一度、履修したことがある。

なんのために、緊急放送くるくる詐欺があったのか。
実際、このくるくる詐欺は、一度も緊急放送は実現しないまま2023年になった今もまもなくいよいよ本当に来るらしい、と言われている。だったらあんなに前もって、私たちを巻き込んで翻弄する必要はなかったのでは?
もはやどっちでもいい、って言いながらも、陰謀論者たちは今も健気に待っている。温度差はあれど、もうそれしか方法はないんだ、と多くの人が期待している。
しかしもう、2020年の時のように、たとえ言われた日付にそれが来なくても、
嘘つきとバカにされて動じる人も、裏切られて本気でがっかりする人もいない。
だけどどうしても、来ないとも思えない。説明されてきたあまりにリアルで、信じられないくらい明るい未来。
というかそれはすでに、始まっているのでは?

これを経験して来なかった人にはもはや、どうやっても説明出来ないほどに複雑で難解な極上のドラマ。
ここを一緒に通過してきた人たちはみんな、信じられないくらい強くなった。
そのための、くるくる詐欺だ。
私たちは見事に螺旋に乗せられた。
その一点を考えただけでも、本気なんだとわかる。
緊急放送という形なのかは分からないけれど、いつか私たちは必ず目的のある一地点に到達する。
おそらく、私たちを螺旋の軌道に乗せて上昇させるためには、この躁鬱を思いっきり行ったり来たりする装置に放り込んで、ウンザリするまで、諦めるまで、全てから手を離して放棄しようと覚悟するまで、上へ下へと引っ掻き回すのが最善の策なのだ。
アセンションとは、こうやって起きるのだ。
私自身のことで言えば、
私に気がつかせるために、わざわざ彼に出会い、彼によって予行演習をしてから私はこの陰謀論に迷い込んだ。
そして見事に罠にはまり、螺旋の一本をつかんでこの軌道に乗った。

いつも私はその人に導かれている。その人に言われた通りついていけば間違いないと知っている。
彼らはみんな、本気なのだ。
誰が?
この世界を、別の次元に持ち上げようとしているダレカ
ガイアか、神か、宇宙人か、なんだかわからない、ナニカ
別になにも、陰謀論なんて通過する必要はなかったのだ。
ただ、その人にとって抗いがたいほど夢中になる、あるいはどうしようもなく心をかき乱されるものに出会って、躁鬱状態に陥れば良かっただけだ。
私はもう、その黒幕が本当は誰なのか、気づいてしまった。

数年前に流行った映画、TENETみたいなオチ。
私たちは今、時間を前に進みながら、同時に過去に遡って、
そこには本当は何があったのか、本当は自分はどう扱われてきたのか、本当は自分はどう思われていたのか、一つ一つ悲鳴を上げそうな真実を確認している。
そう、真の黒幕とはであり、そして今これを読んでいる、あなただ。

で、長々と話は逸れたが、おかしな恋愛感情を捨て去ろうと、いよいよ決意してカウンセラーのもとに向かった、というのが去年の夏の話。

意を決してカウンセラーにお願いをした。
いつだったか、「それ、取ってあげましょうか?簡単に取れますよ」っておっしゃいましたよね?
先生は少し驚いた顔で私を見た。
あんな前の話、まだイキてたの?と思ったのかもしれない。
「私が外せますよ、といったのがどのような文脈だったのか、覚えていないんですが」
と前置きして、先生は言った。
「外せるのは、その感情に伴う苦しさやその感情にこだわってしまう、執着のことです」
私は黙って頷く。多分、そうだろうと予期していた。
この感情と決別する。それはもしかして無理なんじゃないか。
あんなに泣いて泣いて決意の投稿をしてから半日ぐらいで、すでに私は諦めかけていた。
だって、黒幕は私なのだから。
どうしても、もう染み付いて習慣になってしまったテレパシールートは、私の中から簡単には消えない。
それは、その人がお化けのように私に取り付いて私に無理やり何かしているのではなくて、私が自分からそれを、言葉を、何かを、そこに探しに行っているからだ。
そしてその人はそれに、根気強く返信している。

今こだわって引っかかっているのは、お話を聞いていると、分かってもらいたい、という言葉ですね。
分かってもらえなかった、どうせ分かってもらえない、という心の傷が消えれば、その感情も消えるかもしれませんよ。
と、カウンセラーは言った。
でもそれは、その傷のケアを実際にして見なければ分からない。外して見なければわからない。
何が起きるのか、この先の道に私がどんな驚きを仕込んできたのかは、先生にはもちろん、私にもわからないからだ。
「誰かを好きだという気持ちは、持っていていいんですよ。
結婚してるからとか、あれがこれがとか、そんなものは何もない。
自分で全て、選べるんです。全て自由です」

私は普通の人みたいな顔をして日常生活を送りながら、日々この螺旋を登りつづけ、中心に何があるのか楽になるってどんなことなのか、それを探しに行くという二つの人生を生きている。
そんな今に、夢中になっている。
この世界がくれた、最高のミステリーに全身全霊で魅了されている。

去年の暮れ、陰謀論者で頭のおかしい私は、親から絶縁された。
母からのメールを見たその瞬間、頭に真っ先に浮かんだのは、こんなに怒らせて関係を拗らせて、
このまま母に自殺されたらどうしよう、という恐怖だった。
親が死ぬと言う筆舌に尽くし難い恐怖が、私のせいで起こる。
「私が惡いことにされる」と言う逃げ場のない恐怖が、親の死というほかに変えようのない罪悪感の牢獄に閉じ込められる恐怖が、
繰り返し繰り返し内臓からせり上がってくる。
それでも、ここにいつか対峙しなければならないことを、何年もカウンセリングを受けてきた私は分かっていた。
深呼吸して母に、「わかりました、長い間お世話になりました」と返信を書いた。
初めの1ヶ月くらいは地獄だった。
恐ろしい未来が浮かんで、嫌な予感に引きずり込まれそうになるたびに、必死で肩で息をして気持ちを整える。
自分の二の腕から、太ももから、恐怖で我が身を殺そうとするかのように氷のような冷たさが広がっていって、頭が真っ白になる。
私の祖母は、父方の祖母も母方の祖母も、自殺や自殺未遂をした。
そうやって、自分の極めて稚拙でエゴイストな欲求を、家族に対して押し通した。
これは家系に代々伝わる、カルマなのだ。
お前らは全員、弱虫だ。わがままだ。
そんなもの、今の私には通用しない。私は本気で怒っている。
その悪魔性を、私の大切な子供たちには絶対に連鎖させない。
私はお前たちみたいに弱くない。私はお前たちのようにはならない。
ここで断ち切ってやる、成仏させてやる、ここで葬ってやる、
だから、
上等だよ、全員まとめてかかってこい。

それである朝目が覚めたら、パチンと心が軽くなっていることに気がついた。

ここ最近、陰謀論界隈ではものすごいスピードで様々な暴露が始まっている。
陰謀論を追いかけていた人間からすれば、「やっぱりね」「もう知ってた」と思う既出のことばかりだが、
気が付いていない人の耳には、それがまだまだ届かない。
それでも情報は日々、休むことなく積み上がっていく。いつか静かにこの巨大なシーソーが、ガタンと音を立てて反対側に振れるだろう。
突然、その中の一つの情報に、母がポンと反応する。
世の中の風潮が変わり、自分では最先端だと思っていたその流行が、終わったことに気がつく。
そして、私に突然、連絡してくる。
私も実はずーっと前からあなたと同じ意見だったよ、これに気がつかない人たちって、バカよね?
絶縁?何ソレ、美味しいの?

今までの私に対する罵詈雑言を全て棚上げして、擦り寄ってくる。
そんなイメージが、突然降ってわいて、私の真ん中にストンと入り込む。
ものすごくありそうなストーリーなのに、なぜ今までそれを、思いつきもしなかったのだろう?
突然、笑いがこみ上げる。
昔からそうだった。
彼女は論理的思考とか、自己分析とか、そういった機能が欠落している。
その代わり、ぴょんぴょんと飛び跳ねるみたいに、抱え込んだトラウマに反応しながら直感で物事を選び取る。
どうして自分がそう考えていて、なぜ次の考えに乗り変えたのか。
それを自覚できない。

私の中で、線路のポイント切り替えのように音を立てて、世界線がガコッと変わったのがわかる。
もう、未来は誰がなんと言おうと、そうなるのに決まっていることが、ハッキリとわかる。
そして、自殺だの自殺未遂だのといった未来線と、それに伴う私の恐怖や苦しさが、遠ざかる電車のようにどんどん私から離れていく。

ああ、乗り越えたんだ、と私は心底ホッとする。
前世でも失敗したこの課題を、私はどうやらうまく、乗り切った。
そして同時に、その方法を、なんとか会得しかけていることを知る。

陰謀論も同じだ。
以前は、このストーリーがどうやって進むのか、右に行くのか左に行くのか、今それを見極めなければ命に関わると思って時事刻々、情報に日々かじりついていた。
でも今は、この先、どんな結論になるのかを私はもう知っている
飛び石のように、自分の乗っている線路がいづれ辿り着く駅のいくつかを、明確にわかっている。
知らないのはそのプロセスと、道中どんなトラブルが起きるのか。
そして現在の進捗だけだ。
だからたまに、今日はどのくらいまでストーリーが進んだのか、何パーセントくらいクリアしたのか、その進度を確かめる。それでもう、充分だ。
あんなに頭の中を占めていた陰謀論が、私の中から遠くなっていく。
どんな恐ろしい情報にも、どんなハイパーでハッピーな情報にも、振り回されなくなっていく。
私は螺旋の上を、黒幕の思惑通り、滑るように進んでいる。

カウンセラーの先生に、黙っていることがある。
前世療法というセラピーがあって、私はそれを今まで3回受け、自分の3つの前世を確かめた。
そしてその全てで、冒頭のあの人が、私の人生に多大な影響を与えた人物だったことを知った。
あまり自分に馴染みのないスピスピした用語は使いたくないが、
たとえ今の人生では、直接関わったのがたった10分きりだったとしても、
相手が今世で、せっかく出会えた私の存在をすっかり忘れてしまっていたとしても、
私はその人が自分の、大切なソウルメイトであることを知っている。
いつか必ず再会するという、結論を知っている。今がそこに向かうためのプロセスであることを知っている。
いつか死んだら会えるのか、来世で再会できるのか。あるいは今生で、何か奇跡が起きてどこかの地点で再会できるのか。
それは私にはわからない。
黒幕の私が、この人生に何を仕込んでいるのか、私は覚えていない。
でも、結論だけは分かっている。
私はどうしてもこの螺旋に乗りたくて、ソウルメイトにお願いして、どうしてもここで目がさめるように、目覚ましを2つセットしたのだ。
そして彼は今もずっと、おかしな形で私の専任の家庭教師をしている。
今世でもやっぱり、私の人生に多大な影響を与え続けている。

どうすれば自分は満足するのか、どこまで行けばその人に再会してもいいと思えるのか、この先どんな物語を望んで、どんな紆余曲折を設定してきたのか。
私は少し、これを体験できる楽しさと貴重さを、理解し始めている。
今はただ、いつかその先生に採点してもらえるその日まで、約束してきたことを一生懸命やるだけだ。

もう一度会えて、私の物語を採点してもらう時、これがどんな変な旅だったか、どれくらい頑張ったか、それで採点は何点もらえるのかを話し合う時。
それはきっと、笑いがとまらないくらい楽しい時間になるだろう。     
今たぶん、螺旋の中腹を過ぎたあたりだ。

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