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陰謀論なんてもう、お腹いっぱい。本当のことを教えてよ。

世間は今、ジャニーズタレントの今後の処遇や、元社長の娘の処遇、資産の行方についての追求で忙しい。
だけど私は、ちょっとドキドキしている。

去年の年末ごろだっただろうか。
ネットでこんな写真が流れて来て、息を飲んだ。

これまでずっと、お茶の間のみんなを楽しませて来た国民的大スター。
嫌な予感が、多くの人の脳裏をよぎったはずだ。
それでも何事もなかったように彼はそれからものの数カ月で復活し、今もテレビで活躍を続けているようだ。
申し訳ないけれど、私にはこのような状態の病が、たった1、2ヶ月で仕事復帰するまでに回復し、テレビという融通の利かない第一線に出れるようになるとはどうしても思えない。

根拠のない話ではない。
そもそも、北朝鮮の金正日が亡くなった時、大変失礼な言い方だけれど、かようなお方でもちゃんと死ぬのだ、ということに、当時私は本気で驚いた。
どんな状態であろうと、周囲は生存を偽装し続けるのが当たり前だと思っていたからだ。
そして今はこんな状態。

肥満とかの問題じゃない。別の人だ。
それなのにこれらを全て同一人物、として世界は当たり前にそれをニュースで流し、認知している。

これだって私にはびっくりすることだ。

この人が、バイデン大統領ですよ、数年前までの。
この人が大統領になって年とったら、急にあんなとぼけた感じのおじいちゃんになる、と本当にみんな思っているのだろうか?
ワクチンを接種している彼の映像をみたけれど、若い頃にはツルツルだった腕毛が、フッサフサになっていた。男性ホルモンが変化して腕毛が年とともにフッサフサになっていく、なんてことがあるのだろうか?
さらに言えば、この写真の時よりさらに若かりし頃のバイデンは、ハゲだ。

まあ、陰謀論界隈を辿れば、こんな話はいくらでも出てくる。
その冗談みたいな話に、どんどん真偽が怪しくなって、バカバカしいと手を離したくなる。
だけどどう考えても、私の目にはこれらは別人に見える。
アナウンサーも視聴者もこれを、アイコンのように同一人物として淡々と報じ、受け入れていく。
何を持って人は、これとこれが同一人物だという判定を下しているのだろう。
体格?大体いつも似通った服装?髪型?


姉上のご結婚の辺りから、この方が突然出て来たときも、私は思わず声が出た。

確かにどちらも、どこか高貴で絶世の美人であることは間違いない。
でもどう考えても、冷静に見比べて、違う人なのでは?
そんな風に疑いの目を向けてしまうともう、長い間の闘病で国民の前から姿を消されていたこの方だって、

突然痩せたり戻ったりするこの方だって、

本当に本当に同一人物なのだろうか、という疑問がつい、頭をよぎってしまう。
やっぱりやんごとなきお立場の方には、影武者のようなものがあるのだろうか。
昔から古今東西、歴史上の偉人にはそんな話がつきものだった。

だがしかし。
では、これは?

浮腫んだとか整形したとかいうレベルじゃない。
テレビを毎日見る習慣のある人にはこの変遷が自然に受け入れられるのかもしれないが、テレビを見る習慣のない私には、数年ぶりくらいに突然この人があの人ですよ、と言われると、
はあ?????となる。
先日も、元女性アイドルの方のニュースに添えられた明らかに別人の写真をみて、ビックリしたばかりだ。
そういう方達は別に、やんごとのないお立場、というわけでもない。

真偽なんか、私にはわからない。
わからないけれど、この世界では、別人であっても誰かが看板を読み上げて、これは誰それさんです、と言い張れば
誰それさんであるとして受け入れられて、何もなかったように時間が回っていってしまう。
そういう「お約束」がある可能性がある、ということだけは確かだ。

そういう視点で見ると、冒頭のこの方も。

一体これは誰なんだろうとちょっと背筋がぞわりとする。

本当に病気が回復して元気になったのなら、そんな喜ばしいことはない。
どうか勘違いで、私の疑ぐり深い目の錯覚であってほしいと思う。
だけど、性加害なんて耳慣れない言葉で犯罪をマイルドに誤魔化しながら、みんな右と左に引っ張りっこ騒いでいるあの事務所が本当に隠している闇は、
実はもっともっと濃ゆいのではないのか。
そしてこの世界線はそこまで、そのもっと先の先まで、すべて暴き倒すつもりで進んでいるのではないか。
そんな風に、つい考えてしまうのだ。

私には、ジャニーズ事務所やマスコミが、まだ必死に崖に立って守ろうとしているものが、お金や地位であるようにはどうしても思えない。
だってどんなに取り繕ったってもう、残されたアイドルたちが表舞台に立ちスポットライトを浴びて、華麗なステップからのキラースマイルをして見せたって、培った演技力を発揮したって、
私たちにはもう、彼らに対してどこか可哀想という気持ちしか持てなくなっている。憧れや羨望の気持ちを保てなくなっている。
かつての魔法のような盛況が、このまま続いていくとはどうしても思えない。
今矢面に立って会見している人たちは、確かに当事者の家族であったり、黙認して来た共犯者、協力者ではあるかもしれないが、実際に犯罪を犯した犯人、主犯ではない。
お金なんてすでにたんまり持っているのだから、お金が大事なのなら、これ以上安泰の商売が続けられるか極めて危うい家業などさっさと放り出して、現金抱えて逃げてしまう方がいい。なぜそうしないのか。

逃げられないような、何か。
もっとどす黒い、もっとおぞましい、何か。
巧妙に絡み合っていて、簡単に一抜けたすることはできないような、巨大で統制のとれたシステム的な、何か。
彼らはそれを守っている、守らざるを得ない立場にいるのでは?

一体私たちは今まで、何を見させられて来たのだろう。
普通に立っていると思っているその地面は、本当にフラットなただのアスファルトなのだろうか。
その下には、本当は何が隠されていたのだろう。




先日、ニジェールからフランス軍が撤退するというニュースがあった。
すごいスピード解決で、こっちもまた、うそでしょ?って声が出た。
「マクロンはなかなか決断力のある男だ」なーんて・・・
バカを言っちゃいけない。

どうしても笑いを堪えられない、この世界で一番長いテーブル会談が行われたのは確か、ロシアのウクライナ軍事侵攻が始まった直後だったか。
ビビり散らかしたマクロンが走って母国に逃げ帰って真っ先にやったことは、
フランスの原子力発電所の増設。
それがアフリカの資源を当てにしての政策だったことは明らかだ。
つまり今回のフランス軍ニジェール撤退は、人道的な立場から決断した、
なんて大上段に構えた生ぬるい話ではないのだ。
原子力にエネルギーを頼り、自国の電源を100パーセントそれで賄っているフランスがここを手放すということは、両手を上げて投降することに等しい。
だけど、投降するって一体誰に?
アフリカ諸国に?
BRICKS?
それとも。


私はてっきり、アフリカ諸国の方々には気の毒なことだけれど、
またウクライナみたいにここから1年とかかけてズルズルと進んでいく話なのだと思っていた。
それがたったの1ヶ月で撤退の決断。
これが何を意味するのか。
本当に、EU始め西側諸国の内側は、みんながイメージしているような頑強な一枚岩として結束できているのだろうか。

そこにお財布を持ってちょこまかと走り回る、我が国日本の首相…

そしてここに来て、ガザ地区のイスラエル侵攻
各国がその立場を明確にするように、焚きつけられている。

また騙されてしまうんだろうか。
ワクチンの時のように。
ウクライナの時のように。
もどかしいのは、わざとやっている人と、気がつかないで自分はいい人だと思ってやっている人の、境界線がよくわからないことだ。

右と左、という言い方に語弊があるなら、AとBでも❶と❷でもなんでもいい。
とにかく私たちは、対立する二つのどちらかが一方的に正しくて、どちらかが一方的に可哀想な被害者、という列にいつも並ばされ、争いに巻き込まれてしまう。
それを誰が誘導しているのか。
紛争を、争いを、戦争をけしかけているのは誰なのか。

争っているうちは、私たちはその世界から出られないようになっている。
だから相手は、私たちの感情を揺さぶり煽って来るのだ。逃さないために。
これは私たちのすぐ目の前にある、最も身近な人間関係でも同じことだ。
今度こそ、そこを冷静に見極めることができるか。
この使い古された十八番芸、カラクリを学べるか。
何度でも私たちは試される。
ここでも失敗すれば、次はいよいよ最後に残されたここ日本、私たちの眼前で、その最終試験が行われるようになるのではないか。


もう、私たちの足元はミシミシと音を立てている。崩れていっている。
それなのに、気がつかない人は気がつかない。
気がつかない人はとことん気がつかない、というのはもう、ワクチンのところで痛いほど学んだから驚かない。
それでも変化のスピードはどんどん上がっている
だいたいこれぐらいかな?と目測していたものが、次の日にはもっと早く、さらに早く、そのスピードが上がるスピードが、どんどん早くなっている。
ここまで準備して来た人、薄々感じ取っていた人はある程度いいだろうが、
神国日本が負けるわけがないと本気で信じていた人が、ある日突然、玉音放送を聞いたらどんな衝撃を受けるのだろう。

藤原直哉先生「日本と世界にひとこと」大詰めの軍事作戦
いよいよ大詰め。まもなく虚脱状態がやって来る。
まだ自分の中に残っている変わりきれない観念を、一人一人が変えるように努力し続けること。そしてとにかく人に会って、やれることをやる。
日本には実は、見えないところですでにたくさんの素地が出来ている。


何年か前、家族でアメリカに赴任した時、実はものすごくお金がなかった。
生まれて初めて、本気のサバイバルを経験した。
ホテルにいつまでも滞在している余裕はない。
なんとか家を探して潜り込んでも、船便といって、日本から送った最低限の荷物は届くまでに時間がかかる。
それでも当面それを補うものを、買うお金がない。
ちょっと歩けばスーパーやコンビニが、大通りに出れば何台もタクシーが走っている日本とはまるで別世界。買い物に行く交通手段もない。
乳飲み子を抱えて、子供たちにもなんとか、日本でやっていたのと遜色ないレベルの、
食べ物、飲み物、遊び道具を日々、用意しなければならない。
夜は床の上に、タオルケットだけ敷いてみんなで雑魚寝をした。
毎日が必死だった。

それでも実は、そのサバイバル体験は楽しかったのだ。
子供たちと床いっぱいに小麦粉を敷いて、それをこねて餃子の皮を作ればそれが、最高の遊びになった。
英語が全然わからないのに、子供が熱を出してしまって、とにかく必死に探した病院に飛び込んだ。頭から湯気を立てそうになりながら医者の説明する専門用語を聞き取って、「今、〇〇って言ったの?〇〇という意味であってる?」
と、いちいち幼児のような英語に言い変えて確認する私に、
担当してくれた医師は、ゲラゲラと笑って、「ああ、そういう風に言えば伝わるのね」って根気強く対応してくれた。
その体験は一つ一つは冷や汗ものだったけれど、なぜか細胞がプチプチと弾けるほど、楽しかった。
達成感があった。
そしてその追い詰められた体験の先には、必ず誰かが待っていて、手を伸ばした私の手を握り返してくれた。
しかし、しばらくしてやりくりが奏功し、周囲にお金がないことがわからないように取り繕うだけの余裕が生まれてしまうと
それは途端に、強烈な苦痛となり、つまらなくなった。


関東大震災の後、どうやって庶民が立ち直っていったかという資料映像を見た。
大切な人を亡くし、家や財産をなくしてどんな虚脱状態になってうずくまっていても、人間だからお腹が空く。
政府や誰かが、かわいそうですねって手取り足取り助けてくれるわけでもない。
そんな極限状態になった時、私はてっきり、人間はもっと自分の残された持ち物をぎゅうと抱えて疑心暗鬼になって、固くした身体にギラギラと目だけを光らせ互いを牽制し合う、
そんな荒廃した世界になるものだと想像していた。
しかしそこにあったのは、
あるものを集めて、被災者同士が助け合う姿。
物を持たない者は労働で貢献し、あるものを集め、とにかく協力して炊き出ししてみんなで力を合わせてその日一日を生き延びる。
そりゃあ、商魂逞しい悪意を持った人間も、暗躍しただろう。
自分だけ少しでも得をしようと、チマチマした動きをした者もいたはずだ。
それでもそれらを内包したまま、とにかく全員でサバイバルしていく強さ。前に進むたくましさ。

人間の根幹にはやっぱり、誰か困っている人を見捨てては置けない
弱さに負けてしまった人をも仕方ないと許してあげる、そんななにかみたいなものがあって、
誰かのために一生懸命に働けた時、青空に向かって突き抜けるような清々しさを感じてしまうものなんじゃないだろうか。
それを、ああ自分は今生きてるなって、感じてしまうんじゃないだろうか。
そんな部分が人間の本質にはあって、
それはどんな悪魔にも打ち勝ってしまう最大の武器なんじゃないだろうか。

中途半端にお金があって、中途半端に幸せぶっていられる余裕があるうちは、
私たちはすぐ、どちらが金持ちか、どちらが良いポジションを取るか、
あるいは、あなたと大体同じくらいのレベルの同類です、と相手に思ってもらうことに必死になって、取り繕って、
そのくせ、どちらが痩せててどちらがまつ毛が長いかなんてくだらないことで張り合って、互いに壁を作り始めてしまう。
でも極限に削ぎ落とされて開き直った時、
出てくる本質はシンプルで最強の、人間の本性だ。

そんな、みんなが裸になって助け合えるようなタイミングがもうじききっとやって来る。
きっと誰もが誰かのために、何かをしたくなる。
きっと人間が本気を出す時が来る。
そしてその先に待っているのは。

自ら覚悟を決めることが出来なかった者が、突然玉音放送を叩きつけられる。
それはどんな恐怖だろう。
だけど、みんな、自分を騙し続けているだけで本当は、深い部分でとっくに分かっているのだ。
波が来るのを分かっていて、身構えた状態で飛沫を浴びたいのか、それとももっと芯からビックリして足元を掬われてから立ち上がりたいのか。
それだけの違いだ。


酷暑と蚊を避けて足が遠のいていたお気に入りの公園に、久しぶりにやって来た。
秋を探してみたけれど、東京の10月は時折涼しい風が吹いて来て、ようやく暑かったあの猛暑を忘れてほっと息をつけるばかり。
毎日スピードが上がっていくこのめまぐるしい世界に生きているなんて、まるで嘘のようだ。


それでも水面下で、大きく物事は動いている。
最近では、日本には夏と冬しかなくなってしまった、なんていう農家の方の声も、あちこちで聞かれるようになった。そうかもしれない。
こうやってわざわざ秋を探しに来ない人は気がつかないまま、季節は突然、冬になってしまうのだろうか。

コロナが始まったばかりの頃、トイレットペーパーとマスクが町から消えてしまったことがあった。
トイレットペーパーは買占めが収まって少しずつ店頭に戻って来たが、マスクだけは世界的に争奪戦のようになって、戻らなかった、あの時。
日本人は、あちこちで布製のマスクを自分で作ってそれを補っていた。
そのうち、大きなマスクの方が小顔に見える、とか、どんな色のマスクだと自分のファッションに合うか、なんて細かく分析して、マスクの供給が戻って来た頃には色とりどり、微細な変化をつけた形状のマスクが店頭に並ぶようになった。
世界的に見たとき、その器用さや技巧、細部に気がつく性質が、やはりどこか世界とは違う、何かに抜きん出ることが出来る個性なのだと改めて実感した。

ポストイットというものを発明されてから、ノリの性質、接着剤の用途にはより細かい意識が向くようになった。最近では、接着剤コーナーに行けば、強力な接着から緩めの接着、縦方向に引き抜けば強力に接着させたものを簡単に剥がせるなどのあらゆる種類の接着剤が、当たり前になった。
それでも、ノリの用途をここまで細分化して商品化してコンビニから文房具屋までずらりと並んでいる国は、日本の他にはない。

日本にいれば、中国で始まったはずのラーメンも、イタリアからやって来たはずのパスタやピザも、インドの本式なカレーも、イギリス式のアフタヌーンティーも、本場の味と遜色ないものが食べられる。
昔、私がイギリスで寒さに震えてようやくたどり着いたMISO ラーメンには、味噌が入っていなかった。


こうした個々の探究心と、もっと細かく工夫を加えようとする意識、より微細なニーズに応えようとする精神、モノづくりの名人芸は、やはり世界では稀有なものだ。
MADE IN JAPANだからクオリティが高い、なんていうのはまだまだ入り口、日本という文化の表層の分析だ。



この先、たとえ金融が崩壊し食糧難がやって来て、私たちの生活に何かが足りない、何かで行き詰まった、という場面があったときも、きっとあのマスクのときのように誰かがアイディアを絞り、誰かが代替案を思いつき、それをスピード感を持って補い助け合って、今よりもっと安全でシンプルにみんなのことを考えた、面白い世界を作っていける。
過渡期はそんな生易しいものではないのかもしれないが、私にはぼんやりとそんな未来が見えている。

これからは、この細部にこだわる個性が、きっと私たちの身を助け、自分にも世界を助けることが出来る、って突き抜ける楽しさを、味あわせてくれるようになる。

問題はそんなやって来る新しい世界で、私に何が出来るのか、だ。



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