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手のひらの記憶

毎年1月7日には、七草粥を食べる。
一年の豊年を祈願し、無病息災を叶えるという。
実は私の七草粥は、お餅入りのオリジナルレシピで、
毎年子供たちが密かに楽しみにしてくれている自信作だ。

それで今年も、と勇んでスーパーに七草セットを摘みに出かけたのだが、帰り道から急に身体がぞくぞくとし始めた。
ちょうど去年の無病息災から今年の無病息災までの期限が切れる僅かな隙間に、魔に入られたのか。
仕込みを始めた頃には熱がコンコンと上がり出し、結局、ぐぬぬと唸りながらお粥を食べることになった。

前回のnoteに、7日間の絶食体験の旅に出たいなんてうっかり書いたものだから、あっという間にその願いが叶ってしまった。

声が出なくなる。頭が痛くなる。
始めは普通の風邪だろうと思っていたのだがそれが、熱が少し下がっても微熱のまま身体の強烈なダルさが取れず、また熱が上がっていって次の症状に移行して行く。
まるで子供の頃からのあなたの病歴を、ダイジェストでお届けしますと言われているみたいに、ご丁寧につわりのような謎症状までなぞりながら、治ったかと思っては次、治ったかと思っては次。
いろんな病状にノックダウンされてしまう。
食欲がなくなる。狂ったように痛い。吐き気が止まらない。
おしゃれが楽しいとか、キレイでいたいとか、どこかに行きたいとか。
あれが食べたい、あれが欲しい…
物欲も虚栄心も生命欲も性欲も、片っ端から、目の前の痛みと不快によって削ぎ落とされる。
私はその身体からの強烈な訴えと、私の心がそれにどう反応しているのかを、寝転がったままじーっと観察していた。

家族の風邪っぴき第一走者として走り始めたのに、息子が治っても娘が治っても、私だけがどうしても復帰できない。
もうこのまま、外に出れなくなってしまったらどうしよう。
病気の自分を労わるよりも、早く治して元どおりにしてやるべきことをやらなければ、と私の心の中はいつも焦っている。
1週間経ち2週間経ってもまだ起きられない自分を、甘えてるんじゃないか、サボってるんじゃないかって責めている。
今やるべきことを、いかに工程を端折って今の自分でも出来る作業に極限まで簡略化出来るかを、頭の中で常に計算している。
そしてどんな症状が新たにやって来ても、私はそれら全てを最短最速で押さえ込み、かろうじて動けるところまで持って行くための対症療法を心得ている。

それは、長い間に蓄積してきた、自分の取扱説明書だ。
次々にバラエティに富んだ方法を繰り出してくる自分に、これはなかなか凄いもんだな、と自分で感心した。
そんなことばかりを極めて来ちゃったものだから、けっきょく今まで、本当はそれぞれにあったはずの病気の声を、ちゃんと聞いたことがない。


子供の頃、熱が出て学校を休むと、やっと休めたってホッとした。
でも夕方になると、怖いくらい優しかった母は表情を変える。
「明日には熱が下がるだろうからちゃんと学校に行きなさいね、このまま休み続けたらクセになって、
登校拒否になって、そんなことになったら人生終わりなんだからね」
小学校6年で肺炎になって入院した時も、中学受験の勉強があるからって医者に直談判して、母は無理やり私を退院させた。
そして家で寝たまま、勉強をするように言われた。
退院する日に、肺炎だと聞いてせっかく病院までお見舞いに来てくれた友人たちが、母に言われた通りそそくさと着替えて荷物をまとめている私を、「え、肺炎って、こんな普通の風邪みたいに元気なの?」ってびっくりした顔で見つめていた。

そういう在り方がずっと、母が信じる正しい「愛情」なのだ。
母親の崇高な愛の形なのだ。

ずっとそうだったんだな、ってベッドの中で思い出した。
身体が発する熱も痛みも吐き気もみんな、未消化のまま私の身体の奥底にこびりついてしまった怒り不満だ。
その奥にある自分の声に耳をすますと、そこにあるのは、
理屈っぽく如何に苦しかったかを説明したり訴えたりする今の私の思考の声ではなくて、なにかアッタカイものにしがみついて、えーんえーんと泣いてしまいたいような、ただの「感情」だった。

私は小6で、それまで住み慣れた地域を離れ、都内の別の区に引っ越しをした。
当時は都内でも教育格差みたいなものが歴然とあって、新しく引っ越した地域は、
以前住んでいた地域よりも学力が低く、治安が悪いと言われていた。
だからこそ、公立小学校に通っていた私の中学受験に、母は頭から湯気を立てる勢いで必死になっていたのだろう。
大人になってから、私が毒親である母を避けて回っていることがいよいよ決定的になって、激高した母が泣きながら電話をかけてきたことがある。
「あの時受験に落ちたら、あなたを殺して自分も死ぬつもりだったのよ!それぐらい深い愛情で育ててきたのに、その親に感謝できないんだとしたら悲しいよね!」
後日、そのことを両親に話しに言ったら、母は、
「自分はそんなことは言ってない!中学受験の時はなんとか受かりそうだったから殺そうとは思ってない!殺そうと思っていたのは、大学受験の時だ!」
と言った。
こういう妻の発言を、夫として父親として、父はいったいどういう感情で聞いているんだろうと思ったら、
「まあまあ、実際に殺したわけじゃないんだから、いいじゃない」
と私を宥めにかかり、「え、そっち?」って愕然とした。

彼らがことあるごとに「こんなに愛してるのに!」って振り回す「愛」なんてものは、スッカスカの空洞で、邪悪で醜く、幼稚で狡猾、
むしろ悪魔と名乗った方が幾分潔いほどの、袈裟だけ立派な悪徳悪坊主みたいなもんなのだと、もう私は知っている。
子供に対する愛。孫に対する愛。
こんなに愛してるのに。こんなに愛してるのに……なんなんですか?
見返りばかりを期待する、嘘ばっかりの、からっぽの世界。
こんなに心配してあげてるんだ、こんなに考えてあげてるんだ。
そう言ってそれを錦の御旗にして、彼らはグイグイと他者との境界線を踏み越えてくる。
兄には遠慮して入らない境界線でも、私や私の家族には、「娘なんだから」「親子なんだから」と言い訳をしては、ブルドーザーのように無神経になぎ倒してくる。

エナジーバンパイアと呼ばれる人たちがいるが、彼らは自分でエネルギーを作り出すことが出来ない。
だから周囲からエネルギーを奪おうとして、被害者として振る舞い、
嫉妬や依存による自分勝手な行動で相手に迷惑をかけ、相手の注意を引きつけることでエネルギーを奪う。
それを、「自分の方が悪かったのかも」って罪悪感に惑わされ、なんとか相手との間を取り繕おうとする人は、取り憑かれる。
エナジーバンパイアの要求は際限がない。
彼らはそうやってますます自分が被害者であり、相手が悪者であるかのような理不尽な言動で相手を怒らせ、執着させて自分から離れられないよう手を緩めない。
やられる方は絶望的な苦しみだが、そこから抜けるにはまず、こちらが感情的になるのをやめること。
同じ土俵に立って、私が加害者なわけねーだろ、お前こそが加害者だ!とやらない。
争わない。
悪魔と争っても、必ず負けるのは私たちだからだ。

私は生まれて此の方、「愛してる」と言われたことがない。
「こんなに愛してるのに!」とかならなんども言われたことがあっても、誰かに「愛してる」と言ったこともない。
まあ、愛してる、という言葉が、日本の文化にはどこか削ぐわない、くすぐったいような言い方なのかも知れない。
それでも「愛」という言葉がある以上、どこかになんらかの「愛」は存在している。
私がどんなに明確に彼らに、あんたたちが振り回してるこんなガラクタが、「愛」であるはずがないでしょ?って証拠を突きつけても、
彼らは白目を剥いて乖離して、次の瞬間、烈火のごとく怒り始めるだけだ。
そして小学校低学年の子供みたいな言い訳を繰り返す。
こんな辻褄の合わないバカみたいな言い訳、流石に言いながら自分でもおかしいとわかっているんだろうとこちらは思うのだけれど、
思い込んでいるのか、本当に信じているフリをしないと死んでしまうと思っているのか、恥じらう様子もない。
会話なんて成立しない。

子供の頃からずっと、下水の澱のように嘘が染み付いたこの綺麗事ばっかりの世界が、大っ嫌いだった。
でも、そんな風に思っているのはずっと、自分一人だけなのだと思っていた。
私のように内側で悶絶している人に、会ったことがなかったし、嘘ばっかりの世界について
「絶対おかしいよね」「うん、わかるわかる」
って誰かと会話が成立したことは一度もなかった。
それでもコロナが始まって、私の世界は一変してしてしまった。
ぽつんぽつんと、私と同じように、
本当はこの世界の嘘に耐えられなかったのに、私なんかよりもずっと上手く、仮面をかぶって社会に紛れいてた人たちが現れ始めた。
ああ、なんだ一人だったわけじゃなくて、これぐらいの間隔で、そんな人たちはずっといたんだ、って
私は心底この世界にホッとした。
声高に言いたいのだけれど、私はコロナに、心の底から感謝している。
私はコロナに、芯から救われた。
コロナのことを考えると、感謝と感激で、涙が出そうになる。
ありがとうという気持ちがこみ上げてくる。
でも、多くの人は多分、そうじゃない。


昔、母が私に、外でトイレに入るときは気をつけるのよ、と言った。
大学生になって田舎から上京した母に、東京出身の同級生がトイレで意地悪く近づいて来たことがあったのらしい。
「トイレは、流すものなのよ」
田舎者だと思ってバカにされたと感じた母が、あら、ちゃんと流したわよと言い返したら、
「違うわよ、終わった後じゃなくて、しているときにも流すものなのよ」
とクスクスされたというのだ。
今や東京なんて地方出身者の坩堝だ。
私のようにたまたま東京の出身だった人間からしてみれば、高校までは地元の仲間がいても、大学にまで進学してしまえばもはや同郷(東京)の友達を見つける方が難しい。
周囲の大半がどこかの地方の出身者という環境にいて、わざわざ特に親しくない人がどこの出身かなんて聞かないし、まして自分が東京出身だから「勝った」なんてバカげた感覚は持ったことがない。
トイレで隣の個室の物音に耳をそばだてているなんて、なんと気色悪い女だ、としか感じないが、当時の世界は東京に住んでいると「勝ち」、田舎者が「負け」とか、いちいちそんな風に、物事に優劣のつく世界だったのだろう。

昔から、どこのお店に行っても店員さんに母が高慢な態度をとることが、本当に恥ずかしかった。
職業差別、病人や障害者に対する冷たい視線、言葉の端々に浮かぶ、他者に対する侮蔑的で差別的な態度。
本当にずっと、ウンザリするほど嫌だった。
でもその態度の内側に隠したものは、本心自分は立派でそこらへんの人とはレベチの人間なのだという過信自信などではなくて、
本当はお金なんか全然持ってない負け組であることがバレないように、
マントで隠して飾り立て、ふくらはぎをプルプルさせながら1センチでも大きく見せようと背伸びしてしている、可哀想なほどおびえた虚勢だ。
自信がなくて、でも小さく見られたら負けで、負けたら死と同等の恐怖を感じてしまう。
負けと認めたら最後、もう後一息も息を吸うことが出来なくなる、という恐怖。
彼らはずっと、そういう世界で生きて来た。

可哀想だ、とは思うけれど、こういう人たちと、これからの未来を私は一緒に生きて行きたくない。
それは明確な私の意思だ。
ということは、じゃあ逆に私はどんな人と生きて行きたいのか。

茫洋とどこまでも広がり、何を指針に進んでいいのかもわからない。
本当は地平の先の先まで全てが自由で、確かな羅針盤を得るのも大変なほどのこの世界。そこに彼らは、私に明確な答えを指し示してくれている。
貴重で重大な、ヒントを与えてくれている。

別に、私とは違う生き方を選択した人たちと、いつまでも同じ場所にとどまって、互いに同じになれないって苦しんで反目しあって、相手を変えようと奮闘したり、自分の境界線を死守しようと苦しむ必要なんてない。
ただ、コロナで見えて来たそうじゃない新しい人たちと生きていく世界を明確に思い描いて、そこに向かって歩いていけばいいだけだ。
私の小さな勇気によって生まれたささやかな変化に、母は必死で耳をそばだてている。そして周囲から聞きかじった私の情報をかき集めて、なんとかそこに自分も便乗しようと躍起になっている。

でも私たちはもう、この激動の時代に変わりゆく世界をどこに向かって進むのか、それぞれに選び取っている。もうルートは決まっている。
私は自分の信じたこの道を、ただ、そのとき出せる最大の勇気と喜びをもって、一瞬一瞬、もっともっと遠くまで歩いていくだけだ。

私が2年ぐらい前に、とうとう意を決して親に言ったこと。
電通は潰れる。テレビ局も全滅。NHKも潰れる。東電も潰れる。
日本の大企業は大半潰れ、東大も3分の1まで瓦解。
金融は崩壊し、ドルは終焉、バイデン犯罪一家はその悪行を全て暴かれ、
ウクライナやコロナの秘密が明らかになって医療製薬業界は終了。
アメリカも潰れて日本政府も崩壊する。
それを聞いた両親は、娘がキチガイになってしまったって白目が一周して黒目が戻ってくるほどショックを受けていた。

あの頃には、まだわかっていなかったことがある。
当時の私はまだ、誰かが逮捕されたり、何か大きな企業やシンボリックなものが目に見えて崩壊したり潰れたりすることが時代を先に進めることなんだと思っていた。
正義の誰かが出て来て、私たちには持ちようのない力をヒーローみたいに使って、絶大な権力を持ったそれを悪だと断罪すること。
それを待望していた。
でも、本当に恐ろしいのはそこじゃなかったのだ。
例えば、ジャニーズは終わりだね、松本人志はもう終了だね、って一般大衆が思ってしまったら、どんな絶大な力を持っているように見えたものも、一夜にして全てがそこで「終わり」なのだ。
今まで培って来た対処療法も人脈も、積み上げた実績も功績もお金も、うまい立ち回りも処世術も、なんの役にも立たない。
そこに付随するものは、時代とともに根こそぎ流され、消えていく。

本当に一番力を持っていたのは、権力でも権威でも、学歴や職歴、立場やお金などに裏打ちされた肩書きでもない。
私たち一般大衆の、意識の方だ。

「税金を払うなんてバカみたいじゃない?」
「なんでNHKに全ての人がお金を払わなきゃいけないの?」
「政府が言うことに全て従うなんて、誰が決めたの?」
「あんたたち偉そうにしてるけど、何言ってんの?」
私たちがひとたびそう思ってしまったら、もうそれは何であれ、消えて行くしかないのだ。

その変化に、付いて来れるだけの柔軟さを、一人一人が持ち合わせているか否か。
持てずに抗う者は、容赦無く流され消えていくのみだということ。

昨今の各国政府の暴れ方を見ていると、彼らも本当に終わっていくのだな、ってしみじみ思う。
以前は少なくとももう少し丁寧に、支持率だとか、国民の理解がある程度得られましたというエクスキューズがあってことを進めていたように見えた。
例えば小泉純一郎ブームなんて、私は気持ち悪くて大っ嫌いだったけれど、
世間があんな風にわーっと盛り上がっているのを見てしまうと、
じゃあ仕方がないのかな、って身を引いて、静かにしてなきゃいけないのか、と黙らされてしまう。
そんな空気があった。
それが、いよいよ冗談みたいに露骨に変わって来たのはやはり、イスラエルの開戦あたりからか。

ずっと騙されていたんだな、って手足の取れた得体の知れない生物みたいに堂々と暴走する各国政府を見てそう思う。
付け焼き刃で、雑なやり方。
もう民意を仰ぐこともない。私たち全員を取りこぼしなく巻き込もうとする努力もしない。
私たちの頭の上で、私たちのお金だけちゃちゃっとかすめ取って、政府が勝手に話を進めていく。
勝手にワクチンを国民総数の何倍も買い付け、製薬会社と秘密契約を結んでしまう。いらない人まで含めてそれを税金で支払うことに同意するのかどうか、議論することすらない。日本の税金を、諸外国のどこにいくらあげるのか、勝手に金額を決めて勝手に配りまくる。
彼らの一番の関心が、私たち国民の支持率なんかではないことは明らかだ。
それをもう、隠しもしない。
支持率なんて、本当にデータ取って言ってたんだろうか。
支持率が下がりました、って言えば、不満を持ってる人たちは、「ほらね」って少しだけ溜飲が下りて静かになる。支持率が上がりました、って言えば、「私は不満だけどみんなの意見は違うのかな」って不満分子を黙らせられる。
本当はずっと、誰かが適当な支持率を作っていただけなのでは?

戦争したがっている人が、勝手にもう一方の戦争したがっている人と戦争をおっぱじめ、軍隊に属する人と、住まいを戦場にされた人たちだけが巻き込まれていく。
戦況のニュースを見ているだけの私たちは、どこかゲームや映画の中の出来事のようで、一体何が起きているのかいまいちよく分からない。
今までなら、戦争したがっている人たちにずっと騙され煽られ、まるでそれが私たちの総意であるかのように操られ、巻き込まれ、まんまと前線に送られて、殺人に加担させられ命を奪われて来た。
本当に戦争したがっている人は、自分は絶対に前線には行かない。
そのセオリーが、だんだん怪しくなって来ている。
国民総出でやっていた「戦争」という行為は今や変質し、
戦争をしたがっている人と、前線に行かされるその軍隊が動くのみ。
しかしそこをシンプル化するのは、とても危険だ。
シンプルにすればするほど、感情をかき乱されなくなった私たちに、
戦争というものが引き起こされて来た本当のカラクリが、はっきりと見えてしまうからだ。
国民と暴走を続ける政府とが、頭と胴体が切り離されるようにひたひたと静かに、分離して行く。

ねえ、あなたたち一体、何やってるの?

もう隠せない。

もういっそ殺人兵器なんて大仰なもの使わないで、どっかその辺に土俵でも作って、何が何でも戦って相手を殺す必要がある、って信じている者同士だけ集まって、相撲でもとってくれたらいい。
ボクシングでもいい。ジャンケンでもいい。
かわいそうな一般人の命や生活を、もう巻き込まないであげてほしい。

今時、英語が喋れることを強調したくらいで国民が、
「きゃー大臣、素敵!もっとウクライナを支援しましょ!」
なんてなると思っているのだろうか。昨今、中学生だって小泉進次郎のことを「小泉構文」って呼んでバカにしているこのご時世に。英語は喋れるけど、彼が「30年後の自分が何歳なのかずーっと考えている人」だなんて、みんなが知っていることだ。
こんなおじいさんのセクハラまがいの発言に対するコメントを、紙をぷるぷると握りしめたまま読み上げてお利口にかわしたという実績を作ったぐらいのことで、大臣の評価が爆上がりなんかするものか。
もうこの手の感覚の絶望的な古さが、陳腐な手法が、彼らの避けられない「終了」を示している。
今までの「手口」を、津々浦々まで周知して、自らの首をギュウギュウと絞めているということにも気がつかない。

一枚一枚カーテンがめくれるたびに、こんな簡単な手品に騙されていたのかって私たちは驚いて、次の瞬間、そんなことに真剣になってた自分を思い出して、笑い出しそうになる。松本人志然り。ジャニーズ然り。

コノ政府ハ、オワッテル
マスコミモ、オワッテル。

一般大衆の意識がそこに向かう線路が、もうハッキリと見えて来てしまった。
これからきっと、一夜にしてそれは起きるだろう。
また再び感染症が蔓延しても、ロックダウンを誰かが宣言しても、新たな大ががりな戦争が始まっても、
世界のどんな情勢も、もう分かってしまった人たちを芯から震え上がらせることは出来ないのだ。

ここから抜ける力を得た人は、今の私たちの脳みそレベルでは思いつけないほどの新しさへ、信じられないほどの自由へ、向かっていく。


自分が風邪を引いてダウンして、立ち上がれなくなってみて、
そういえば両親も、定期的にそんな姿になっていたことを思い出した。
親たちの世代からしてみれば、自分たちが自身の親に対して尽くしたこと、
限界になりながらモヤモヤする気持ちを抑えて、それでも親だからって絞り尽くして捧げて来たものがあるのだろう。それらを思い返せば、その3分の1ぐらいしか今、子供に返してもらえていない。
借金の取り立てが終わっていないのに、帳消しにされかけているような。
こんなのは不公平だという怒りがあるのだろう。

両親はいつも不調を抱えていて、薬やシップみたいなものでギリギリまでケアして誤魔化して、いつもイライラ爆発寸前、家庭内に、ピリピリと怒りの感情が渦巻いていた。母のストレスが限界まで達すると、最近のお前の態度は酷すぎる、何にこんなに怒られているのか自分で自覚できないのか、って呼び出しがかかる。
そして夜中まで数時間のお説教。
父はそれをいつでも見て見ぬ振り。私の言い分を聞いてくれたことはついに一度もなかった。
そうやって対処療法とストレス発散でかろうじて綱渡りしてきた身体が限界を迎えると、両親は定期的にパタリと倒れてしまう。
そのとき、看病するのは私の役目だった。

私の手のひらが覚えている。
母は、耐え難い痛みで熱くなった頭蓋骨を、こめかみ、耳の後ろからまずは押さえつけて痛みを飛ばし、それから首と肩を温め、ほぐしていく。
父の場合は、肩から肩甲骨、それが腰に蓄積し、最後はそれをふくらはぎで受け止めている。上半身から揉みほぐしていって、触るだけで悲鳴をあげそうに緊張したふくらはぎをほぐすと、幾分元気になった。
そんな風に兄が親の看病をしているところなんて、一度も見たことがない。
兄の手はきっと、両親のそんな身体の感触を知らないだろう。

だけど、それが不公平だと思ったことなんて、嫌だと思ったことなんて一度もないのだ。
私は、自分の手がそれを覚えていることを、嬉しいと思う。
今の自分になぞらえて、両親があの時どれほど頑張っていたのかが、今になってよくわかるからだ。
私はそれを知っていることを、嬉しいと思う。

それでも、私が自分軸を彼らに再び明け渡すことはもう二度とない。
優しかった娘が、もうこれ以上、自身を犠牲にして自分の意に反して、あなたたちに奉仕することはありませんと宣言した。
両親には、どうやって頭のおかしくなってしまった優しかった娘を元に戻せばいいのか、わからない。そして使う手立てはやっぱり、もうじき死ぬだの、苦しいだのと、相変わらず自分たちを被害者にして、罪悪感と恐喝で私をコントロールしようとすること。

関係が決定的にこじれてこの1年、自分の苦しみや怒りが爆発すると、
母は2ヶ月おき、ひどい時は1ヶ月おかずに、ただただ自分の気分のまま、気狂いみたいに長い私を罵倒するメールを送りつけてきた。その姿はまさに、子供の頃からストレスが溜まると数時間のお説教が始まるあの姿に重なって見えた。
本当に、これ以外のコミュニケーション方法を知らないのだ。
心配し、お説教し、正しい方向に矯正してあげる。
そしてそれが感謝されて評価されて、愛されるのを待つ。
愛が、戻ってくるのを喉をカラカラにして待っている。それでも望んだものは何も戻ってこない。だからイライラして、どうして感謝の一つも出来ないんだ、ってまた心配してあげてお説教して…ずっと負のループ。
それ以外の愛情の示し方を、愛の交換の仕方を、知らない。
教わったことがない。見たこともない。
愛されたことがない。

両親が、悪魔だったわけではないのだ。
魔が巣食ったのだ。

では、彼らにいつもエネルギーを吸い取られていた私は、どこからエネルギーを得ていたんだろう。
今だって、怖くて全方位締め切っていたシャッターを恐る恐るひらけば、私の周囲にいるエネルギーの枯渇したバンパイアたちが一斉に色めき立つ。それほどの美味しそうなエネルギーを、これまで病気一つも向き合ってこなかった、およそ自分を大切にすることなど知らなかった私は、一体どこから得ていたのだろう。

エナジーバンパイアは、自分がバンパイアであることに気づかない。

だから、自分をいたわって愛して、喜ばせてあげること、楽しませてあげること、自分で自分を幸せにしてあげることは、
究極、世界を救うのだ。


令和が悲鳴をあげて崩れ落ちそうになっている現在、まだ「昭和代表」って書かれたたすき掛けをしているような彼らが、一体何と戦っていたのかは分からない。
何に「勝った」と自負しているのかも、何に「負けまい」としているのかも理解し難い。
けれど、とにかく彼らは「頑張った」。それだけは事実だ。

まだ父が若かった頃、アメリカの辺鄙な地域に単身、赴任していたことがあった。
夏休みを使って1ヶ月父のところに滞在した母と私が日本に帰る日の朝、父は持病のぎっくり腰になった。
一体それをどう誤魔化して動けるようにしたのかは知らない。
とにかく父の運転で空港に向かったのだが、早朝の、まっすぐで遮るものなど何もない広大な道路には、サングラスなどでは到底太刀打ち出来ないほどのアメリカの容赦ない朝日が差し込んでいて、運転を断念した車が一台、道の真ん中にいきなり止まっている事に気付かなかった。
直前でブレーキを踏んだが間に合わず、接触した。
幸い双方怪我もなく車も動かせる状態だったので、連絡先を交換し、事情を話し、保険会社に連絡をして私たちはとりあえず空港に向けて再び出発した。

搭乗ゲートをくぐりながら振り返ると、父は満面の笑みで笑っていた。
これから、腰の痛みをこらえ、あの面倒な車のトラブルを英語で解決し、仕事をして、また辺鄙な地域でたった一人の生活が始まる。
それを全部背負ったまま、笑っていた。


いつか両親を、「あなたたちほど頑張った人はいない」って花束を贈呈して表彰してあげよう。
今、私は密かにそんなことを思っている。

それが出来るのは、きっと、世界中でこの手のひらに彼らの痛みの記憶を持っている、私だけだ。


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