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2024、反転をはじめる世界。

年末、娘の学校のクリスマス会があって、着物で参観に行ってみた。
以前の私ならそんなこと、絶対にできなかった。
なに子供より目立とうとしてんの?
なにその拙い着付け。
クリスマスなのに、そのコーデ?
うんぬんかんぬん南無阿弥陀仏…

着物を着たい、という自分の素直な欲求を一瞬で地ベタに引きずり倒す、ありとあらゆる罵詈雑言が頭の中に湧いてくる。
それでも着物参観を強行してみると、別にそんなの大したことじゃないのに、私は結果、謂れのない清々しさを感じた。
娘が一番仲良くしてもらっているお友達のお父さんが、なんとなんと、実は陰謀論界の有名人だったということを知ってしまったからだ。

着物を着ることと、有名人に出会うこと。
一見なんの脈絡もないこの話、私にははっきりとその因果関係が見えている。
もう陰謀論の最新情報を追いかけたりするのはすっかり辞めてしまってしばらく経つから、どこかで見たことある人だな〜、から、あの人だ!とピコンと来るまで悠に24時間を要した。
だからその場でその方とお話ししたり、何か接点が出来たというわけでも友達になったわけでもなんでもない。
今度、サインはいただくことになったけど、じゃあってそこから突撃していって仲良くする気も毛頭ない。
大したことじゃない。それでも私はSNSの中でしか見たことのなかった、かつて陰謀論に迷い込んで悶絶する中で救いを求めたうちの一人が、
自分のリアルな人生に立ち現れたという事実が、とても嬉しかった。
2023年の自分自身の集大成、自分のリアルな周波数が、とうとうここまで来てたんだと、実感することが出来たから。
そしてその最後のダメ押しをしたのが、「着物を着ていきたい」という自分のささやかな願いを、自分に叶えてあげたという小さな小さな勇気だ。

コロナでやめてしまったヨガを、昨年、改めて習い始めた。
以前はちょっと動くとすぐに寝込んでしまっていた体調も、最近になってだいぶ改善してきた。
それでもひどい貧血と診断されて以来、そのせいなのか無理が高じるとカクンと動けなくなる。
年末、ヨガを張り切りすぎた帰り、また具合が悪くなった。
新しく始めたスクールには周期的に、ヨガスタジオの親会社が開発しているらしい栄養補助食品の営業がある。
それを、インストラクターの人たちが必死になって生徒に売りつけてくるのだが、
それを見るたび、心の平安とかマインドフルとか言いながら、それとはおよそ真逆のサプリの営業の仕事なんかさせられて、大変だなあ、といつも可哀想になる。

昔、年賀状印刷のバイトに申し込んだら、いつの間にかデパートで年賀状の売り子をさせらていた、なんてことがあった。
売り子の研修なんてなにも受けていないのに、突然降って湧いた任務。それでも銀座の顔とも言えるデパートに泥を塗るわけにもいかなくて、「こんなはずでは」って思いながら、とにかく見よう見まねでお辞儀したり挨拶したり包んだり、なんだか大変な経験をした。
そんなことを、ふと思い出してしまう。

それはともかく、ヨガで具合が悪くなったという話。
とても驚いたのだが、いつも笑顔のインストラクターは、
心配するでも介抱するでも水をくれるでもなく、するりと逃げ帰ってしまった生徒さんたちを捕まえるのを諦めて、
「このサプリメントを飲めば治る」と、青ざめてヘナヘナ座り込んでしまっている私に営業をかけ続けた。
気分が悪くなってるのに、変なココア味のサプリなんか飲んで治るわけねーだろ、と思ったけれど、
その必死な姿を見て、この人たちはここまでのプレッシャーをかけられているのか、って悲しくなった。
「私も定期購入して飲んでいますから」
そういってサプリメントを握りしめたまま、彼女はちらりとカウンターの中にいる一人のインストラクターの方を見る。
ああ、あれがこのスタジオのボスなのか。
いわれてみれば、あっちの方が教え方も抜群に上手だし、いかにもそんな感じだ。
私は柔和な笑顔と如才ない態度を崩さないボスを、彼女と一緒に見やった。
本当は、ただヨガが好きで、ヨガが得意になって、これならインストラクターになれるかも、自分も誰かに喜んでもらえたり幸せにしたりすることで生計を立てられるかも、って夢見てこの世界に飛び込んだのだろう。
でも、じゃあそのボスこそが悪い人で、そこを改心させればみんなにとって窮屈なこの状況は改善するのか、といえばそうじゃない。
ボスもきっと、本部から多大なプレッシャーをかけられてそうしている。
じゃあ本部が悪玉なのだな、っていうと、本部の中にもプレッシャーをかけている誰かがいて、そのまた上に誰かがいる。
恐ろしいのは、そうやって手繰って行っても、悪の権化に辿り着く前に最後は雲散霧消すべて消えてしまって、
コナンのようにすっきりと、犯人を捕まえ自白させることは永遠に出来ないということだ。

お互い苦しくて、やりたくなくて、結局誰も救われないのに、
生きるためには仕方ないって息を止めてそこに邁進してしまう。
このシステムを、誰も換えれられない。
芯から悪い人なんて一人もいないのに、
どうしてこの社会は、全員がもれなく不幸になるようにみんなでスクラムを組む仕組みになってしまっているのだろう。
嫌なんだから、やめてしまえばいい。
おかしいんだから、おかしいって言えばいい。
それなのに、誰も止めようとしない。
誰か一人の、トップに君臨する悪い奴を捕まえれば何か解決するわけじゃない。
どうして社会は、こんな袋小路に入り込んでしまったのだろう。
なんでこんなことが、可能になってしまったのだろう。


お笑い界きっての大御所が、ピンチに陥っているというニュースを見た。
見た瞬間、きっとその人もその周囲も、自分は悪くないって争って抗って、醜態を晒して一定の膿を出してから突然サクッと引退していく。
そんな予感がした。
今はもう、全てがそういう流れなのだ。
本人たちは今まで当たり前に培ってきた観念の中で今まで通りに生きているだけなのだがら、自分の改めるべき箇所になんて気づきようがない。
突然過去から後ろ指をさされて、いやいや自分には言い分がある、自分には正当性がある、と本人たちは本気で思っている。
だから怒ってアクションして、まだ彼を使ってお金儲けしたい周囲の有象無象があれやこれや手を尽くし、
そこに一般の人たちの賛否までくっついて大渦になって、
それに飲み込まれるみたいに、端から見ればハラハラするような悪手に悪手を重ねて行く。
彼の場合、そうやってある地点まで行ってから、自分の生きてきた世界、観念帯が、もう時代とともに過ぎ去ってしまっていて
数年前には当たり前に許され許容されたことが、今はもう許されない、今更申し立てても理不尽だって騒いでももう逆らえない、と気づくだろう。
きっと、頭のいい人だからこそ、最後は言い訳も反論もパッタリとやめて引退を選ぶ。
そんな気がした。
でもあんな大物すら引退に追い込まれるという波紋は、きっとますます芸能界全体を瓦解させることになるだろう。

大阪万博は、どうなるんだろう。
あんな珍妙な東京オリンピックでもまだ、この世紀の大変革時代に気がつけなかった大勢の人たちのために、やっぱりヒーヒー言いながら、付け焼き刃のハリボテで開催にまで漕ぎ着けるんだろうか。
本当に世界が変わってしまったことを知らしめるために。
この現実を飲み込ませるために。
大阪万博なんて、誰がどう見たって誰も望んでいない。誰も求めてない。
それでもどうしてもやりたい人たちがいる。
東京オリンピックの関連グッツが大量に在庫が残って、またソレを保管する為にお金が発生している、なんて話を聞いた。
どこかで聞いたことのある話だ。
負債を抱えるだけなのに、それでももっともらしい美辞麗句を並べて、わざわざ矢面に出てきてそれを強行してしまうのは、
なんとか自分たちだけは中抜きで儲かる目処がたった人たちと、その直属の子飼いだけだ。
自ら名乗り出る。本人は悪人でやっているつもりなんてないのに、どんどん悪人にされる。
苦しいのに互いに互いを縛りあって辞められない。
もうやめましょうよ!って声をあげてステージを降りてしまうことが出来ない。
そして時間が経って、今までまかり通っていた当たり前は、もう通用しなくなったんですよ、って捕まってまた終わり。

いつになったらこのカラクリに気付くのだろう。
みんなみんなそうなのだ。
私の生まれ育った環境も、見事にDSの末端にしがみついているような生き方をしてきた人たちばかりが集まっている。これから末端の彼らにもいよいよその波紋が及ぶ。
その時それぞれの場所で、抗って言い訳して、善かれ良かれと結局、本人にとっては泥に足を取られるように膿を出し切ることに貢献して行くのだろう。
そうやって正しいと握りしめていたそれが、ポツンと時代に取り残されていることに気がついて目が覚める。
そのあと、怒ってさらに暴れ散らかすのか。それとも慌てて知らん顔して群衆に紛れこむのか。絶望して虚無ってしまうのか。

何を選択するのかはそれぞれの自由。
その人の持つ人間力にかかっている。

年末に、毎年の恒例にしている、ヒプノセラピーを受けに行ってきた。
選択したのはお気に入りの、前世療法
「今世、自分が何をしに来たのか、そのヒントになるような前世が見たい」
そうお願いしたのに、私の潜在意識が私に見せた前世は、びっくりするほど今の自分にそっくりな人生だった。

そこが何処の国なのか、はたまた時代考証もあやふやでいつのことなのかも分からない。
私はものすごい大自然の中を駆け回る、体力自慢の少年としてそこにいた。
筋骨隆々の村の人でも誰も入り込めない絶壁、天を突くような山を登り、誰も入ったことのない洞窟を探検していた。
その山には淡いブルーの美しい龍がいて、山頂の洞窟を辿っていった先に開ける空の向こうに、それが飛翔する雄大な姿を見ることが出来た。その場所に、私だけが辿り着くことが出来た。
日本では龍を当たり前にドラゴンと訳すが、私はずっと、龍とドラゴンは違う生き物だと思っている。
だって長さだって形状だって全然違う。それに龍は、金銀財宝のお宝をせしめて、洞窟に溜め込んだりはしない。馬とシマウマが似て非なるもの、みたいなものだ。

https://otonokko.com/happy-dragon/

そこは半裸での生活が普通の温暖な気候なのに、山頂だけは雪で覆われ凍っていた。雪山の尾根をいくつも滑って山を下るとその先に、多くの人が暮らす村があって、日常があって、褐色の肌に入れ墨をした男たちが火を焚き、まわりで歌ったり一緒にご飯を食べたりしていた。
そこには緩やかな家族があり、地域があり、たくましい男たちが楽しそうに協力して全体の生活を守っていた。
全てが穏やかで平和に見えた。
私はとにかくその大人たちに本気で憧れていて、信じていて、いつか彼らと同じように村を仕切り、盛り上げ、女子供を守り、
同年代の信頼できる仲間たちとあんな風に楽しそうに、生きがいに満ちた人生を送るのだと夢見ていた。

結局、その村に、見たことのない白い装束姿の外国人が入ってきて、村の人たちや生活スタイルはあっという間に崩れ、おかしなものに変質していった。
青年になって、村の代表者会議の末席に呼ばれるようになった私は、ただほぞを噛む思いで、村が彼らから何かを受け取り、代わりに何か重要なものを明け渡していく様を見ていた。
親友がいて、彼だけがその悔しさと苦しさを、理解してくれる相手だった。
仲間たちと共に抵抗したけれど、努力むなしく、
私たちが村の中心的な存在になって決定権を持てる年齢に達する前に、村はすっかり変わってしまった。
それで私は、怒りと絶望で一人、山に籠ってしまった。

どの前世を見てもいつもそうだ。
私の思いとは違う方向に、どうしようもない力で社会が変容し押し流されていく。
説明しても説得しても、誰も耳を傾けてくれない。
自分一人で抵抗する力も持ち合わせていない。
それで、結局社会は多数決なんだからって絶望して、私はいつも自分の内にある殻の中に閉じこもる。

最晩年になって、「早く死にたい、寂しい」が極まって、私はようやく山を降りた。
頑固な性格は、今の自分と呆れるほど同じだ。
村に入ってみると、以前にはなかった立派な橋がかかっていたりして見慣れぬ景色になっていたけれど、それが悪いわけではない。
みんなが便利に楽しそうに、新しい生活に馴染んでいた。
私が一人、絶対にコレが正しいと握りしめていたものは、なんだったのだろう。
もう、あの龍はきっといなくなってしまった。以前の私のように、命と引き換えにあの神山に登ろうとする者も現れない。
私は新しい生活に馴染みながら、一人ひっそりと失われた生活を懐かしんだ。
そして若い頃、洞窟を駆け回っていた時に見知らぬ男の石灰化した遺体を偶然見つけてしまったことを思い出し、禁足とされていたその洞窟について改めて調べ始めた。
あの遺体が一体なんだったのか、どうしても気になった。
そして苦労して、あの死んだ男が、何代も前のかつての村の酋長だったことを突き止めた。
尊敬した先輩たち先祖たちによって彼は暗殺され、そのまま村の決して暴いてはいけない秘密として隠蔽されていた。

完璧に見えた、憧れた人たちとのかつての美しい生活も、結局は脈々と続く人々の嘘の上に成り立った世界だった、ということを、人生の最期になって学んだ。
完璧なものなど、この世界には存在しない。
完璧な人も、存在しない。
自分がその完璧に憧れ近づこうとして何かを求めると、自分に厳しくなり、人に厳しくなり、他を拒絶し何もかもが許せなくなって、
そうやって孤独になって苦しくなって、巾着の口を閉めるように人生は綴じていってしまう。
私はそれを、なんども体験している。

実は、今までお世話になっていたヒプノの先生が引退されて、新しい先生にお世話になった。
以前の先生はカナダ式。新しい先生はアメリカ式、なんとなく今までと勝手が違う。
いつも前世を見にいくと、現在の私を取り囲んでいる家族たちが役柄を変え、実際の父親が親戚のおじさんになったり、今の夫が私の父親になったりしながら私の人生に登場して来る。でも、先生が違うせいなのか、今回見た前世では知っている人間に一人も出会わなかった。

唯一、一緒に変化に抗ってくれた親友だけが、現世での私の知っている人だった。
なぜか私の前世に皆勤賞で登場するその人は、毎回毎回、飽きもせず、
どうしても社会と折り合いがつけられないで世界中に背中を向け、お籠もり生活に入っていってしまう私を助けてくれる。
いつも現し身との唯一の架け橋になって、私をこの世界に繋ぎ止めてくれる。
今回も、山を降りた私を親友は待っていてくれて、そうしてすっかり老人になってから私は、彼の仲介で村の仕事をもらい、改めていろんな人たちとの関わりを得て、なんとかまともで幸せで、平和な最期を迎えることができた。

死の瞬間、ありがたいことだ、とは思ったけど、納得はいっていなかった。
あの龍のいた世界が、私にはどうしても、涙が出るほど懐かしい。
それでも社会全体が抗いがたい力で変わっていくとき、
人々の中に属して生きていきたいなら、どこかで妥協しなければならない。
親友にはそれができる。
でも、私にはそれが出来ない。
その精神性の違いは、どこにあるんだろう。
あのは、一体なんだったんだろう?
雲や木々が、たまたまそんな風に見えただけか。
私にはとても、そうは見えなかった。
どうしたら私は、彼のようになることが出来るんだろう。

完璧な人など、自分を含めて誰もいない。
完璧な人になろうとするのではなくて、不完全でちゃらんぽらんな自分を、許すこと。そんなもの全部包み隠さずご開陳して開き直って、自分を笑い飛ばすこと、愛でること。完璧に見せなければって肩肘を張ってる緊張感を、手放して行くこと。
その、折り合いをつけるため、自分を成長させ、答えを探すため、納得するため。
人間と一緒に生きていくって、結局どういうことなのか。
きっと私はそれを知りたくて今世、ここに生まれてきたのだ。
そう思った。


夫と離婚したい、って思った時、はじめは1ミリも動けなかった。
自分しか見ることのない、隠し持った変なメモ帳にすら、離婚の「リ」の字を書くのも怖かった。
夫を避けるようになり口をきかなくなって、そのまま何年も時間が経過してしまった。
夫にしてみたらそれはなにかの懲罰のように感じていたかもしれないけど、私からしたらそうではなくて、
私には、その時取れる精一杯の選択肢が、それしかなかった。
そうして前世同様、またおきまりのお籠もり生活に入って、私はそこで、考える時間、変容する時間、整理整頓して、分かって、
そしてそろりそろりとそれを行動に移していく、その時間的猶予をもらった。
どうしてこんなにも、動けないのか。
この数年それを考え続けて来た。
どうしてもそこから動けないのは、自分が悪人側に認定されるのが怖いからだ。
責められるのが、怖い。
口をきかない緊張状態の中、私はずっと、この状況に耐えられなくなって夫が外に女性でも作ってくれないかな、
どうしてよその男はそんな人いっぱいいると聞くのに、私の身にはそれが起こらないんだろう、ってずっと考えてた。
でもそんな状態になればなるほど、意地になって夫は、
お皿洗ってみたり、ゴミを片付けてみたり、
ネットに書いてありそうな、今まで足りなかったかもしれない自分を探して、ちょっと気の利くいい夫になることに躍起になる。
機能不全家族出身者の周りに集まるのは、みんなもれなく機能不全出身者だ。
どちらも、自分が責められるのが怖い。
それで、大した愛情も持ち合わせていない同士が意地になって「自分に非はない」「自分はいい人」と書いた札を取り合って、柔道の組み手争いのように、ずっと取っ組み合いをしている。
なんとも不幸なことだ。

それでもこの数年自分と向き合い続けて、少しずつそれが緩んで、ようやく苦しかった強張りが取れて来た。
そんな私のささやかな変化を感じた人は、やっと息苦しい時間が終わってこれで元の状態に戻れかも知れないとほっとするかもしれない。
でも、許しとは、何杯も水を飲んで、そこにある怒りを内蔵に流し込み、なんとか笑顔を貼り付けて仲直りすることではない。
好きでもないのに笑ったり、楽しくないのに参加したり、やりたくないのに大丈夫なんて言っていた私はもういない。
許しとは、分かるということだ。自分の真実と一体になるということだ。
許しとは、もう二度と、かつての場所には戻らないということだ。


年末年始、「今年は実家に帰らない」と宣言している若い女性のSNSを見た。
ずっと家族と自分は合わないと感じてた。苦痛だった。
でも、年末年始に帰らないという選択を取るのは勇気がいる。
世間の、年末年始は実家に帰るものだという風潮が辛い、私と同じ人、いませんか、って書いてあった。
彼女はその小さな英断が、どんなに偉大なことなのか、きっとまだ気づいていない。

親に絶縁されてから1年ちょっと。
私は今年、実家に帰らない2回目のお正月を過ごした。
結婚して子供もいて、こんな歳になるまで来てしまってからようやく限界がきて、
私はそれでやっと、勇気を振り絞った。
結果、家族や親族みんなを巻き込んで、祖父母に会えない孫、孫に会えない祖父母、微妙な空気の親戚、いとこに会えないいとこなんかを量産して、返ってみんなを傷つけることになる。

自分で自分を幸せにすることが出来ない人は、無自覚に他人からエネルギーを搾取する。
私は両親に、「私はあなた達に対してもう十分にやりました、ここまでやった自分を、私は自分で褒めてあげたい」と言った。
でも母にはそんな言葉は通じない。母にしてみれば、私に要求したいことリストはまだまだまだまだほんとはあと10メートルぐらいあって、それなのに遠慮して歯を食いしばってこんなにも堪えて我慢しているのに、そんな健気な自分になぜ感動しないんだ、何で分からないんだ、としか思えない。
いくら説明しても、境界線がわからない。
これぐらいのこと、娘なんだから、家族なんだからやってくれて当たり前、という観念から出てこれない。
お笑い芸人と同じ。
大阪万博を必死に遂行している人たちと同じ。

ああ、じゃあそういうことが日常に行われていたってことは認めるんですか?
合意の上なんだからいいだろう、俺のような人間に、一般人が会えてお話し出来るだけで奇跡ですよ、アホの一般人の皆さんにだって、流石にそれくらい分かるでしょ?
そういう彼の傲慢さを、陳腐さを、自ら暴いて出自を明かしてしまっていることに本人は気づかない。
それに周囲がドン引きしていることに気がつけない。
彼らは本当に、わからないのだ。わかれない。


優しい人は、限界まで頑張って、ある時プチンと糸が切れる。そしてすべてを断ち切ってしまう。やられた方は、その時になって裏切られた!って騒ぐけど、もうその時には全てが後の祭りだ。
そんなことを書いている人をよく見かけるけれど、優しい人って一体、なんだろう?
先のSNSの若い女性のように、周囲を巻き込む前に、本当の限界を迎えてしまう前に、勇気を出した方が優しいのに決まってる。
傷つく人が少ないのに決まってる。

お正月には家族で集まるものだ、と私だってずっと思っていた。
だけど結婚したばかりの頃、両家に全身全霊サービスするだけのお正月が終わって疲れきってテレビをつけてみたら、
お正月を海外で過ごした人たちの帰国ラッシュが始まっています、なんてニュースをやっていて、私はしばらく怒りで、リモコンを握ったまま固まってしまった。
もちろん空港にいた人がみんな自分の好きでそこにいたはずはないけれど、
私はいつになったら、自分のための、自由なお正月を過ごせるようになるんだろう。
親が死んだら?
子供が独立したら?
仕事を引退したら?
自分が歩行もままならない、老人になったら?
なんのために私たちは必死に長生きなんかしているんだろう。
ほんと、アホみたいな話だ。

私は昨年、母から譲り受けた少しも気に入っていないお重箱を思い切って処分した。
もう、おせちなんて習慣そのものからやめてしまおうか、とも思ったけれど、
以前、引越し業者のおじさんに怒られたほどのお皿もち、祖父譲りのお皿集め好きの私が、自分のお重箱一つも持っていないというのは、どうもしまらない。
結局、自分のテンションが上がるような、お手頃価格で使いやすい、お気に入りのお重箱を新調した。
おせち、という観念を捨てて、自分や子供たちの好きそうなものだけを目出たそうにカラフルに自分のアレンジで詰めてみて、今年初めて、おせちを完食した。
とっても、気分がよかった。




社会が、信じられない方向に、
どう考えても間違っているようにしか思えない方向にズレていく。
変わっていく。
今回の人生でも、私はコロナの騒ぎが始まって、みんながマスクをつけ始めて、
ワクチンに列をなすようになって、自分の信じる方向と違うベクトルに社会が流されていってしまう虚しさを、それでもそこに身を置き続けなければいけない苦しさを、イヤというほど体験した。

イエスキリストだって、ブッダだって、
王家に生まれたのに妻子も捨てて逃げ出した、当時でいえば頭のイカれた変態で、イエスなんて変な宗教を説いて回る、正真正銘のお尋ね者だった。
それのに、どうして彼らには、そばにいてその話をまともに取り合ってくれる人がいたんだろう。その話の内容を、ちゃんと精査してくれる、耳を傾けてくれる仲間がいたのだろう。


子供の頃から、宮崎駿の映画、風の谷のナウシカが大好きだった。
宮崎作品がどんなに新しく更新され記録を塗り替えていっても、私の中でナウシカが殿堂であることは変わらない。
だから、大人になってから風の谷のナウシカのコミック版を読んでみて、私は衝撃を受けた。
一見、映画はコミックの冒頭を切り抜いて作られているように見えて、両者の結論は、真逆だ。
その後の宮崎作品の根底にはいつも、映画ナウシカと同じテーマが流れている。
自然を破壊し、自らの大元を汚す愚かな人間と、それでもそれを許し、命を永らえさせてくれる雄大な神。許し。
ナウシカのコミック版に描かれるのは、やり尽くし、傲慢を極め、許されなかった人間が、地球から、この世から、永遠に切り離されてしまう絶望的な世界だ。
自分の生み出した作品を、あんな風に再構築するというのは、どんな気持ちだったんだろう。
今ならあのコミックの結論こそ、きっと受け入れられる。その震え上がるような魂からの警告を、真剣に受け止められる。
でも当時ならどうだろう。きっと私たちは理解できなかったし、世界的にこれほど宮崎作品が受け入れられることはなかったかもしれない。




もう、真実にしか生きられなくなる。
眠ったようにただ苦しい世界に没入していく過程は、もう極限まで極まった。
そしてとうとう、世界は反対周りを始める。
社会の潮流に乗っかって上手いこと渡り歩いて、その過程でそこにどうしても付いて行けない心情のマイノリティを侮蔑し虐げ、淘汰して行く。そういう理不尽が当たり前の世界。
変わり者のマイノリティーはそれでも信念を曲げられないまま、なんとか隙間に小さな幸せを見つけて慎ましく生きていくしかなかった。
でも、今回は違う。
今までマイノリティで、理不尽な目にあって、それでも内にある真実を曲げなかった人たちが、初めて表側になる。
初めて、逆回しの変化が起きる。
世界の反転が始まる。
そしてそれはもう、始まっている。
今までどんな理不尽な目にあっても歯を食いしばって耐え忍ぶしかなかった人が救われ、自分の真実をごまかし、要領よく社会に紛れて生きることを是としたは炙り出され、どうやっても生き残れない。
そういう世界がもう、私たちの足元で始まっている。
だから今こそ、みんなで棒を持って悪い狸を淘汰しよう、という話ではない。
みんなで狸を起こしましょう、という話だ。
そのために必要なのは、折り曲げて、包んで、相手にも持ちやすいよう洗練された、言葉だ。

きっと私の中にある怒り、すぐにお籠もり生活に入ってしまう癖をなおし、社会と折り合いのつけ方がわかって納得した時、
この世界の反転は、SNSの中だけではなく私のリアルに、もっと明確に立ち現れてくる。

瞑想の練習を始めるようになって、しばらくたった。
でもどうしても雑念が入る。上達してる気がしない。
ほんの数分ならうまく出来ている時間もあるような気もするのだが、自分ではよくわからない。
座禅でも組んで、後ろからパシーんと気持ちよくなんかの棒で叩いてもらったら、この雑念もどこかに行くのではないか。
そんなことを考えいたらちょうど、禅寺で実際にそんなことを体験させてくれるお寺の情報を見つけてしまった。
トレーナー付きで7日間、 一日一食の断食をしながら、書写、清掃、枯山水水引、茶道など、仏教体験をできるのだという。
合間にヨガやピラティスのレッスンも受けられるらしい。

でも7日間なんて絶対無理だよ、と私は一瞬で、内から湧き上がる喜びを抑え込む。その押さえ込んだ自分を、私はすぐに捕まえて壁ドンする。

その恐怖は、どこから来ているのか。
貧血だし、すぐに疲れてしまうのに絶食なんてムリムリ。
その言い訳はもう使えない。
だって体調がずいぶん改善して来ているってさっき言ったばっかりだ。
そんな風に説得すると、「体調悪いし」さんは背中を丸めて、黙ってしまう。
昔はこれに、お金のブロックもくっついていて、自分のためにお金を使うなんてとんでもない、どうせお金ないし、諦めざるを得ない、って元の道から少しでもはみ出しそうになる自分をいつも制してきた。
でもこの数年、お金のブロックも少しずつ外れてきて、
その下から今度は、家族のために身を捧げ全ての時間を使っていないとわがまま、というブロックが顔を出しているのを私はもう見逃さない。

「また変な宗教みたいなのに引っかかって!」
「お願いですから娘を、病院に入れてください!」
母に言われた、これまでのあらゆる罵詈雑言が頭に響く。
でも私はもう、その渦中に入り込むことはない。
さあ、2024年は、いよいよあなたに出て行ってもらいましょうか。
このブロックも外れてしまった後に見えてくる世界は、どんな世界だろうか。


電車に一人で乗れなくて、学校に行くのにいつも同伴しなければならなかった娘も、お友達にカラオケに誘われたことをきっかけに、突然一人で電車に乗れるようになった。
もう、私という共依存がくっついていなくても大丈夫。一人でどこへでも行けるし、なんだって出来る。
急に自由な時間が増えて、暇で暇でたまらなくなるのかと思っていたら、
それでもまだ、出かけると用が終われば家族のためのあれこれお使いを済ませて、そそくさと家に帰ってくるのをやめられない。
友達に会いに行くこともないし、自分の好きな行ってみたい場所に寄り道することもない。
行きたい場所、やりたいことを思い描いても、なかなかなにも浮かばない。
あれをしなきゃ、これもやっておかなきゃって、家族のための時間に追われてあっという間に毎日が過ぎていってしまう。

私が小さな観念をもっともっと振り払って自由になったら。
周囲はきっと、元のような、便利で重宝な私が戻って来てくれる、またみんなの優しい汚物処理係を引き受けて、強靭な力で事態を全て丸く収めてくれるなんてこと、もう微塵も思わなくなるだろう。
今の私はまだ、世間様と同じ、啓蟄に至る前の正月ボケだ。自分が何の虫なのかも知らない。
でも私はもっと、今の自分では想像もつかないくらい、遠くに行く。
とりあえず、今年の目標は、いい人をやめること。非のない自分を目指すのをやめること。
怖がらずにちゃんと、未熟でわがままで、いつも誰かのお世話にならないと何にもできない人になること。

私はきっと今年、7日間の禅修行に行くだろう。
ひとり旅なんて、思えば人生初の体験だ。
ご飯だって洗濯だって、きっと子供たちでなんとかしてくれる。
もしかしたら怖かった高速にもスイスイ乗れるようになって、そのお寺まで自分の運転で行けるなんて大冒険だって、出来るようになっているかもしれない。

そしてその先に、私は世界の反転をみる。

楽しみだ。



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