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カモミールのような人に会う。前世からの縁者?過去世からの敵同士?!「同席対面五百生」


カモミールのような人がそばにいる


カモミールはリラックス効果、安眠効果がありアロマテラピーにも用いられる植物。つつましく可憐な花を咲かせる。しかも、カモミールの近くに生息する他の植物を健康にする働きも、カモミールは持っている。いわば、利他的な効能があることから「コンパニオンプランツ」として利用されることも多い。

キャベツやタマネギのそばにカモミールを植えると害虫予防になるし、また、カモミールの浸出液を苗木に噴霧すると、立ち枯れ病を防ぐ効果もある。カモミールは存在するだけで、周りの役に立つ植物だ。

カモミールは、人の心を落ち着かせる美味しいハーブティーとして愛用される。安らぎを誘う入浴剤やお茶として使用した後も、使用後の花を土に埋めておけば、利他的なカモミール効果を発揮し、土壌をよりよく改良する。

カモミールのような人が今そばにいる。 

仏教的に言えば、菩薩行を身に着けている人たち。利他的な行為行動、振る舞いを、時には自己犠牲を払ってまでも断行する。人や社会に貢献することを喜びとして生きている。当然、感謝や報酬や賞賛などには関心が低く、それを目的にしているわけではない。

いやいや、
そんな大義たいそうなことをしなくても、

その人の存在が、はからずも、周囲の人たちの心を和ませる、そんな人が今わたしのそばにいる。


「同席対面五百生」


最近、父と死別した。大切な人をなくした喪失感は大きい。自分でも訳が分からないときに、ホロホロ泣けてくる。 

父と死別して、ようやく半年が過ぎたそんな時期、良縁がつながり、一人娘が嫁いだ。神戸から東京都内へ引っ越した。とても喜ばしい寿ぎのお祝い事だ。

とはいえ、食事をしたり猫を抱っこしたり、なにげない日常の中で、どういうわけか、オイオイとわたしは号泣している。喪失感は意外に大きい。

自分でもわけがわからない「泣きのスイッチ」が、日常の至る所にあるのだと思われる。感情の赴くままに、一人でオイオイとわたしは自分の気分がそれるまで泣く。

感情のコントロール方法は知っている。ランニングしたり、花を飾ったり、泳ぎに行ったり、オシャレをしたり、旅行に出かけたり、それなりにメンタルサポートはしている。ただ理由もなく、号泣してしまうのも事実。

さらに、先月、コロナ禍でクライアントの事業所が閉鎖になった。 
よって(営業力向上のためのメンタルトレーニングやコミュニケーションスキル研修などの)業務依頼がキャンセルになり、仕事が半減した。

とはいえ、落ち込んで過ごすのは時間がもったいないので、次の展開を考えようと思っていると、

今週、83歳になる母親と会話ができなくなった。意志の疎通がうまくできない母親は、医療介護施設に入所することになる。 

親もそういう年齢なので、それも自然な流れだ。
成人すると子供が親元を離れていくのも自然な流れ。

友人との人づきあいも三密を避けて少なくなった。これも自然な流れ。
まして歳をとると、家人友人知人との死別を嫌でも経験する。大切な親しい人は一人また一人と逝ってしまい、頭数が減る。これも自然なことだ。

悲しさや、寂しさや、辛さが一度に押し寄せてくるのも、あるいは自然な流れだろうと考えながら、昨夜は、深夜2時までウイスキーを飲んでいた。

「ボロンボロンバババババ」

バイク音がした。
ときどき、夜中の騒音がご近所でも問題視されている、三軒隣の金髪革ジャンのお兄さんが帰宅した音だ。

いつもなら、迷惑で不快で、苛立たしいバイクの爆音。

なのになぜだろう。

「ああ、人が居る。人がそこに暮らして居るってことね」

そう感じて、わたしは「おかえりー」と独り言をいいつつ、ウイスキーを切り上げて、和やかな気分でベッドに入った。
人類皆兄弟、ご近所皆家族、そんなマインドになっていた。

今、ここ
今、そばに居てくれる人は大切だと痛感する。
遠くの親戚より近くの他人とも言う。

以前、階段を落ちて腰椎椎間板ヘルニアで動けなくなり、救急車で運ばれたことがある。救急車を呼んでくれたのも、担いでくれたのも、消防士も警察官も、医療関係者も、誰もかれもが全員他人だった。
見ず知らずの人にわたしは助けてもらって生きている。

最近、ある言葉を繰り返し、呪文のように口に唱えるようになった。たぶんマイブームである。「愛ある言葉の力」に認定したいその言葉とは、


「同席対面五百生」(どうせきたいめんごひゃくしょう)


意味は

「たまたま偶然、隣り合ったり、同席したり、対面したりする人は、見知らぬ人のようであっても、実は過去世に500回は会ったことのある相手なのだ。生まれ変わり死に変わりしてきたこれまでの前世の、どこかで、何度も何度も、五〇〇回くらいは出会っている人なのだ。いま対面、同席しているその人は、遠い過去世に、自分と一緒に生きた人・なんども出会ったことがある人なのだよ」

という意味。

「袖の振り合うも他生の機縁」とほぼ同義語。

袖を振り合わせてすれ違うだけの人でも、目には見えない、深い深い縁があるということば。

とすれば、家族は、どれほど深い縁なのか。この世で親子となり家族となり、また夫婦となる相手というのは、もう500回どころの縁ではない。千回、1万回、それ以上、長い永い魂の旅を共に流転輪廻している存在。そう思うと、相手を大切により感じてしまう。 

ということで、
うざい親、うるさい親類も、少し違った視点で眺めてみた。身近な人ほど「一期一会」の貴重さを、おろそかに考えがちでもある。 

些細なことで喧嘩になり、ありふれたことで、すれ違い、誤解もする、軽率に扱うことも多い。前世、その前の世、もっともっと遥か遠い過去世からの深いえにしがある人なのに、粗末に扱っていないか。過度に言い過ぎていないか。
ああ、なるほど、だとすれば、口げんかの絶えない母とわたしは、どう考えても、相当の大昔から、恨みをはらしあう仇同士だったに違いない。ますます感慨深い。

「同席対面五百生」

今、目の前にいるのは、見知らぬ人ではなく、
はるか遠い過去世から、
遠い遠い未来に続く、
己の魂の旅の同伴者たちだ。

相手も、また私も、お互いにお互いのために、何らかの大切な役割をもつ縁者たち。ならば、見知らぬ人へのふるまい、態度、ことばも見つめ直してみようか。 


「同席対面五百生」

もしわたしと同じように今、死別、離別の悲しみの中にある人が居て、なんとはなしに、訳もなく、ホロホロと泣きながら日々を生きているのなら。

いつも行くコンビニや天ぷら屋のレジで対面する人も、美容院の待合室で同席した見知らぬ人も、飛行機で隣り合わせた見知らぬ人も、「同席対面五百生」あなたの人生の同伴者、縁者であるらしいので、いつもと違う視点でながめて、感じて、接してみることをお勧めする。

そう思うとなぜか、楽しくなる。

すべての人は、私のために存在してくれる、カモミールのような人なのだ。

言葉を繰り返し唱えて、口癖になるまで習慣化する。すると「愛ある言葉の力」のおかげで、メンタルはぐんぐん柔らかく、しなやかに変化する。



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