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長く、伝わりにくくても、きっと人生のどこかでこの物語をそっと抱きしめたくなる時が来る。

2月8日、22時18分。
アカデミー賞のノミネーションの発表が始まった。

そして、その数十分後には『ドライブ・マイ・カー』の4部門におけるノミネートが日本のメディアでも大きく報道されていた。

『偶然と想像』(2021)で、ベルリン国際映画祭の銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞されている濱口竜介監督は、名だたる監督たち(スティーブン・スピルバーグ、ケネス・ブラナー、、、)と並んで監督賞にノミネートされた。

ポン・ジュノ監督の『パラサイト』、クロエ・ジャオ監督の『ノマドランド』など、アジア系の監督による作品の受賞が続く流れがある中で、『ドライブ・マイ・カー』はどのように評価されるのだろうか。


そして、改めて2回目の『ドライブ・マイ・カー』を観に行ってきた。

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アカデミー賞ノミネートの効果もあってか、平日ながらほぼ満席の客席。

2回目の観賞を終えて、また振り返ってみる。


まず、主人公・家福悠介の緑内障について。

家福の視力について、医師はこう告げる。(セリフは記憶をもとに)

緑内障になると視界がだんだんと狭くなっていくのですが、もう片方の目でその狭まった視界を補ってしまうから違和感を感じづらい。
気づいた時には失明寸前なんてこともあるんです。
早めにわかってよかったですね。

気づいた時には、失明寸前。
気づいた時には、もう全てを失いかけている。

それは、家福の妻・音との向き合い方にとても近いものがあるように感じたのだ。

音は一人娘を失い、家福とは違う次元の悲しみの中に落ちた。
もちろん、家福も辛く、悲しかっただろう。
だが、音は自分のあまりにも深い悲しみを家福と分かち合うこと、家福に踏み込んでもらうことができなかったのだろう。

それは家福が音を失い続けることの始まりだった。
知らないうちに、でも確かに大切なものが永遠に失われていく。


音は、家福以外の男たちと体を重ねるようになる。
そして、家福とのセックスの後には奇妙な「物語」を無意識のうちに吐き出すようになるのだ。

音は、家福にとって美しく、落ち着いていて、時にミステリアスな、大切な女性だ。だが、音は確かに美しいが、彼女自身は自らをそうは思っていなかったのではないだろうか。家福が思う以上に激情的で、感情に囚われて行動していたのかもしれない。音は、自分がどういう人間なのかわかりすぎているからこそ、家福が本当の自分を見つめようとしないことが息苦しかったのかもしれない。

音が家福に吐き出した、思いを寄せる少年の家で空き巣を繰り返す少女の話。その結末は家福ではなく、不倫相手だった高槻に告げられる。
そして、家福は高槻から告げられる。

ある日、いつものように空き巣に入った少女は、本物の空き巣男と鉢合わせし、暴行されそうになるのを抵抗して殺してしまうのだ。彼女は、返り血をシャワーで流して、その場を去る。
次の日、少女が殺した空き巣男の死体を見たはずの少年は、いつも通りの爽やかな笑顔で登校している。
確かに、確かに、殺したのだ。
だが、少年はいつもと変わらない。
少年の家の前を気づかれぬように通る。
すると、そこには監視カメラが設置されていた。
空き巣男を殺した彼女が、少年の家にもたらした唯一の変化だ。
少女はカメラに向かって叫ぶ。
「私が殺した」

音は声にならない声で家福に、「私が殺した」、私はこんなに汚く、醜いと訴えていたのかもしれない。

娘の法要の後に交わる2人の心は、あまりにも遠く、離れていた。

音は、家福を心から愛していた。
そして、数々の男たちとも寝た。
それは、音の中で矛盾していなかった。
家福が愛している「音」であるために、音は家福が目をそらすであろう「音」として男たちと交わった。

家福は、それを1人の音として受け入れることができなかった。


高槻は言った。
他人をよく知るためには、まず自分の気持ちをよく知る必要がある、と。
高槻は、家福とは対照的な人間だった。
自分の思いを胸の深いところに留めておこうとする家福に対して、高槻は自分の思いがすぐに行動になってゆく。
捉えがたい存在を前にしても、未来がどう変わってしまうか分からなくても、向かって行けるのだ。
それが、高槻の魅力であって、恐ろしい部分だ。

高槻は、音と家福の脚本と演劇について「細かすぎて伝わらない」という共通点を指摘した。


伝わらなさ」、それは本作の大きなテーマだ。

声が出せず、韓国手話を使って話すユナは、「自分にとっては伝わらないことも、周りが何を言っているか分からないことも当たり前だ」と言う。その分、言葉以外から感じるものがたくさんあるのだと。

また、ユナの夫・ユンスは日本に住むことになって周囲とのコミュニケーションが難しくなってしまうユナを想い、「僕が百人分、聞いてあげようと思いました」と話す。

コミュニケーションとは、全て言葉にして話さなければ成立しないというものではない。

相手を真実見つめよう、自分の想いを伝えようとする姿勢があれば、コミュニケーションはそれぞれの形として成立していくのではないだろうか。


みさきと家福は広島から上十二滝村に向かい、みさきの家の跡に立つ。
みさきは、母が彼女をひどく叱った後によく現れた、母であって母でないような「さき」という少女の人格を心から愛していた。それでも、自分を確かに苦しめた母が瓦礫の中に埋もれているのを目の前にして、何もしなかった、できなかった。

君は悪くない、と家福は言う。

家福は気づく。
音と、もっと話がしたかった。
だが、それはもう永遠にかなわない。
家福もまた、何もしなかった、できなかった。

2人はお互いが手放してしまったものを想って、互いの存在を確かめるように抱きしめ合う。

生きていかなければならない

僕たちは大丈夫だ

僕たちは大丈夫だ。

私は大丈夫だ、2人を見つめながら私も何度も何度もそう心の中で繰り返した。



ユナ演じるソーニャが、家福演じるワーニャ伯父さんを後ろから包み込むようにして、手話で語りかける。

でも、仕方がないわ、生きていかなければ
ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。
長い、果てしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね
運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。
あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉うれしい! と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち――ほっと息がつけるんだわ。
わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの。
ほっと息がつけるんだわ!
アントン・チェーホフ(1967)神西清訳『かもめ・ワーニャ伯父さん』青空文庫より, https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/card51862.html, 2022/2/14閲覧)

生きるということ、誰かを愛することは、ひどくすばらしく、そしてひどく辛い。

それでも自分を、愛する人を、しっかりと見つめて

いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと、じっと生き通してゆこう。

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