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夏のおわる夜。

「これは絶対私にしか分からない、っていう感情があるんです」

数年前のお盆の集まり、法要で来てもらっていたお坊さんが言っていた。
この悲しみは
この苦しみは
怒りは
喜びは

「誰だってそういうの、ありますよ」

お経の後、ちょっとした小話をするのがお決まりのお坊さんだった。
身の上話を織り交ぜて語られるその言葉に、周りのおばさま方は毎度深くうなずいていらっしゃる。

おぼろげながら、その時も何かの話の流れで冒頭の言葉に至ったのだと思う。
最終的にどんなオチだったのかは覚えていないけれど。

私はそういう有難いお言葉を聴いているとき、心ここに在らずみたいな状態になってしまう。
素直に「ほほーう、なるほど」と聴ける真っ直ぐな心は持ち合わせていない。

その日も、意味もなく仏壇の装飾をボーっと眺めていたのだけれど、やけに力の入ったその言葉が耳に残った。

✳︎

『すべて真夜中の恋人たち』
という本を最近読み終えた。

「私にしか分からない」というような主人公の感情が、独特の色彩を放って語られる。
色彩と言っても、限りなく透明に近く、とらえどころのない彩りだ。
それらを丁寧にすくいとり、隙間なく本に敷き詰めたような、そんな小説のように感じた。

本というのは、心を鎮めることもできれば、解放することもできる魅力があると、私はよく思う。
この本は後者だろうか。

この物語に、主人公とは対照的な、自分の価値観や思いを理路整然と表明できる女性が登場するのだけど、彼女の言葉に考えさせられることがたくさんあった。
彼女は、自分の感情とは、どこかの誰かが書き記した文章の引用にすぎないのではないかと、日々そんな気持ちになるのだという。

「だから、この『しょせん何かからの引用じゃないか、自前のものなんて、何もないんじゃないか』っていうこの気持ちも、やっぱりどこかからの引用じゃないかっていうような気がしていて、まあ、なんかいろいろ、だめなのよ」

(すべて真夜中の恋人たち/川上未映子)

私も似たようなことを考えたことがある。
実際にこうやって引用しているのだから。

でも、果てしない言葉の海から、心を奪われるたったひとつの文章にめぐり会うというのはある意味奇跡じゃないだろうか。
その奇跡を感じられる自分というのはきっと、肯定的にとらえて良いはずだ。

能動的に読まなければその‘’感じ‘’だって得られないのだ。
心には、言葉に引っ掛かかりを覚えるトゲがいくつも張り巡らされていて、それ自体が私を形成しているのだ。
トゲの数や鋭さ、感度、みながそれぞれ違うものを持っていると思いたい。

✳︎

個人的に小説で興味深いのは、名前の付いた感情が書かれているものより、描写で語られるものの方が何故か心の中で尾を引くということだ。

昔、『蹴りたい背中』を読んだときから、「さびしさは鳴る」という書き出しが、ずっと心に残っている。
これは知っている人も多いかもしれない。

さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を閉めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。

(蹴りたい背中/綿矢りさ)

彼女にとって、‘’さびしさ‘’は鳴らせる必要があったんだな、とか。
さびしさとは内側から発生するものでなく、外側から鳴り響いて自分の耳にも届いてしまうものなんだな、とか。

嬉しいとか寂しいとか、それだけで済ますことの出来ない人たちが物書きをしているのだろうと、そういうとき感じる。

嬉しい、楽しい、悲しい、苦しい
端的に伝えられる便利な形容詞はたくさんあるのに、それらを遠ざけようと言葉を紡ぐ姿勢の小説が、私はとくに好きみたいだ。

さびしさとは、ひとりのときに感じるものとは限らない。
好意を持った誰かと笑っているときにだって、湧き上がってくることがある。
何をするから、どこにいるから、誰といるから、とかいう理屈とはお構いなしでやってくるものだ。

そんなときに、私は本を読む。

✳︎

8月31日。
当たり前のように通り過ぎる夏の終わり。
「明日からもう9月かぁ、早いなー」なんて言いながら、普段どおり眠りにつくのだろう。

去年の今ごろ、「8月31日の夜に」というテーマを知って、いろんな人の夜を思った。
人は明日という言葉に支えられることもあれば、鉛のような重さを感じることもある。

よく考えたら、自分にだってそんな日はある。
8月31日に限らずある。
大人になっても。
でもそんな人たちの思いの総量で考えると、8月の最終日は特別な日なのかもしれない。

私が10代の頃の私に何かを伝えるとするなら、「本はいいぞ」と言いたい。
叫べなかったことの代弁者は、本の中に必ずいる。

例えば、なんで自分はこんなに苦しいのかと、説明できる術があればいいよね。
そこに明確で決定的な出来事があれば、説明しやすいし、理解してくれる人が現れる可能性は高い。
他者からの「共感します」という言葉ももらえるだろう。

しかし、感情というのはそんな体験や周りの環境だけで説明できるものでもない。
私自身、物事と感情の揺れとが不釣り合いなまま、理屈的につながらないときがある。

いろんなものが絡み合ったこの感情は伝わらない、きっと分かってもらえないというもどかしさを抱えはじめると、得体の知れないモヤモヤが大きくなる。

でも安心していいのは、恐らくほとんどの人がそんな感情を抱いたことがある。

だって、あの日のお坊さんもかなり強めの口調で言ってたからね。
仏教という東洋哲学を極めてる人でさえ堂々とそんなこと言ってんだからね。

本に没頭するのもいい。
静かに、けれども強くたしかに、自分の気持ちを代弁してくれる本や文章は必ずある。

思いの発露が、引用でもいい。
私にしか分からないという感覚は、大切にしていい。
大切にできた人たちが、きっと本を書いている。

文章によって自分の気持ちをぴたりと言い当てられたとき、もう一人自分がいたと思う。

輪郭を帯び、手に触れられそうな思いがそこにあることに胸が高鳴る。

自分にしか分からない思いを抱えた人へ
届くべき本が、文章が、夏のおわりまでに届くといい。




ここまで読んでいただいたこと、とても嬉しく思います。