中和(1)
葬送曲だ、と広史はぼんやりと思いながら、理科室に足を踏み入れた。
日曜日の徳利高校内、吹奏楽部の演奏が聞こえる。卒業式が近い。桜がテーマの楽曲といった三年生を送るための演奏曲を練習しているのだ。今聞こえているのは「蛍の光」。別れの曲にふさわしい。
広史はガラスカッターを取り出し、淡淡とした気持ちと手つきでガラスに傷をつけていった。理科準備室の棚の鍵は壊せなかったが、理科室の横の棚にあるガラスを割ることならできると踏んでいた。そのガラスの向こうには、塩酸がある。手に入れたいのはそれだった。
ガラスに円を描いていき、ぱきぱきと音が聞こえ始めたとき、広史の背中に声をかけた女子生徒がいた。
「ちょっと、後輩。なにやってんの」
女子生徒は、振り返った男子生徒と視線を合わせる。
ぎくりとした広史は、とっさに体を翻して、自分が割りかけているガラスを隠した。
「べつに、なにも」
広史の言葉など聞く気がないように、女子生徒は「あ、そ」と素っ気なく返し、
「特にいる必要がないなら、今から備品整理をやるから、外に出てもらえたらありがたい」
と、言った。
広史は、机を回り込んで近づいてくる女子生徒から目を離さないようにして、
「別に手出し口出ししないなら、いてもいいんじゃないですか」
もう少しで割れそうだった背後のガラスを思う。チャンスは今日しかないのだ。引き下がれない。なにかうまい言い訳はないか。
にしても、と彼は考える。こんな先輩、見たことがないような気がする。着ているのは確かにここの制服だが……。
「えーっと、手出し、もうしちゃっているよね」
にやりと笑い、女子生徒は目線で広史の背後を示し、次いで指差す。
「ガラス、割ってなにするつもりだったのかな」
詰問ではない。見通した上で素知らぬふりをして尋ねているような口ぶりだった。
「それは」
広史が言葉に詰まると、女子生徒は、
「いろいろ当てることできるよ、わたし」
唇の端を持ち上げて、手近な机に、「よっ」と座った。
「こんな先輩いたっけ、って思っているよね。いたんだな、実は。三年生。名前は留惟。とりあえず、ガラスカッター、手放してくんない?」
むすっとふくれた感情を表に出さないようにして、広史は隠していたガラスカッターを留惟の足下に投げる。
「後輩、名前は?」
ガラスカッターをゆるく蹴り飛ばし、余裕で訊く留惟に広史はかすかにいらだつ。
「日立です」
「そっかぁ、日立くんね。日立くん」
そっかー、と繰り返し、留惟は、尋ねる。
「日立くんの趣味は、ガラス?」
「は?」
*
※本文中に登場する人物・組織などは架空のものです。
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