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滴る雫


 冷えた地酒の瓶の蓋をぷしゅっと開けたとき、久世由真は、胸の中に蓄積していた今日一日分の鬱屈がほんの少しだけ外に出ていった気がした。八月末の夜風が部屋に吹きこむ。
 今日また、上司のミスだのに、由真が取引先に頭を下げた。アストロ製薬に勤めて三年。新入社員が入らないため、未だに由真は下っ端のままだ。
 しかも、彼女の浮気も発覚した。昼休憩にスマートフォンに届いていたメールを確認していて、彼女からのメールに気付いた。
「題:今度の日曜 本文:トシ君がくれたルビーのネックレス着けていくけん! 今からむっちゃ楽しみ!!」
 見たときの感想は、おれいつからトシ君になったん、という淡泊なものだった。事実を飲みこめていなかったのかもしれない。「宛先を確認してください」と返信を打って、仕事に戻った。あとから、「弟に送ったメールやったんよ! ゆう君、間違えてごめんねー!」と返信が来ていたが無視した。確かに彼女には弟がいるが、今度の日曜日の由真との約束を断るとき、親戚の法事があると言っていたのだ。ルビーのネックレスを喜喜として着けて行くほど楽しみな法事があるならお目にかかりたい。
 疲れ果てた体で、最寄りの徳島駅で下車し、ポッポ街商店街にさしかかった。何店舗か先にある、酒屋が目に入った。
 タヅツミ商店。
 なぜかあの店の灯りが気になる。吸い寄せられるように由真は歩いて行った。
 ポッポ街商店街のタヅツミ商店といえば、クレーンゲームしかないゲームセンターの隣にあって、小学校の帰りに友だちと寄ってラムネを買っていた記憶がある。
(君枝おばちゃんがやさしかったんや)
 ジュースなんかも振る舞ってくれて。
 社会人になってから行ったことはないし、毎日欠かせない晩酌の酒はスーパーで買っていた。
 久しぶりに寄ったタヅツミ商店は、どことなく暗かったイメージが払拭され、明るい蛍光灯の下にずらりと酒類が並んでいた。ワンカップの焼酎、缶ビール、酎ハイ、意外にもボトルワインまで揃っていた。
「いらっしゃい! あらぁ、由真くんやが、えっとぶり!」
 前掛け姿で出てきた田堤君枝は、しわの寄った目元を細める。齢七十とは思えない背筋の伸びた立ち方だ。
「おれの顔も名前も覚えとるんですか」
 驚く由真に、君枝は笑う。
「年取れば取るほど、記憶力がようなっとんよ。やけん、ここいらで会う子たちの顔と名前は、すぐ出てくるわ」
 由真は店内を見て回った。スーパーとは比較にならない品揃え。地元徳島の、勢玉やら御殿桜やら、鳴門鯛やら、様様に並べてある地酒の瓶のうち一本だけ手に取り、小銭で支払った。
「これも、よけりゃぁ」
 差し出された黒いビニル袋を出されるまま受け取る。重みに戸惑いつつ中を覗くと、濃い緑の丸い果実が入っている。ああ、もうスダチの時期か。
「妹が作っとって。露地物のスダチ。お酒によう合うんよ。知っとった?」
「いいえ……」
「絞って飲んでみたらええよ。味が一気に引き締まるし、すっぱさがすっきりとお酒を立てるき」
 由真はお礼を言い、そうして酒の瓶とスダチの袋を手にしてアパートに帰ったのだった。
 地酒をあおり、鬱屈を捨てるように音を立てて酒の瓶を机に置く。酒の味を知ってもう八年ほどになるが、スダチを搾って飲んだことはなかった。
由真はビニル袋から、ころんとしたスダチを一個出して、包丁ですとんと半分に割った。外気に触れて潤んだように果汁が染み出す。酒の上できゅっと絞って果汁を落とす。種まで落ちそうになったので、角度を変えて、もう少し、酒に絞ってみる。指に付いたスダチの汁を舐める。
(ああ、すっぱい)
 スダチ入りの酒を口につけてみた。脳を支配するような強さの日本酒が、スダチによって引き締まり、同じく脳や体も心地よく絞られる。はは、と由真は笑った。旨い。
 ほどよく酔ってきた。酒は良い。今日あったすべてのことを、まるで夢だったかのように遠いところにやってくれる。気持ちよく寝付けそうだった。


 タヅツミ商店にも寄るようになった。
 スーパーで缶ビール。商店で日本酒。休日の前日は酒をまとめ買いし、足りなければ、追加を買うために閉店時間ぎりぎりでも商店へ。
 めんどうなのが、商店で出くわす、店主の孫だった。中学生で、津麦という名前らしい。学生鞄をかったるそうに肩に背負って、昼夜問わず酒を買いに来る由真に冷たいまなざしを向ける。あの子が居合わせると、よろしくない。店主の背後からじっと由真を見つめてくる。一挙一動見逃さないという、息の休まることのない視線。買いにくいったらない。
 酒屋の孫として接客の挨拶はしてくるが、いらっしゃいませ久世さん、と決まって名前付きだ。名前は祖母の君枝から聞いたのだろう。蔑みなのか哀れみなのか、悲しみなのか、一瞥して、高く結った焦げ茶色の髪を揺らして奥へ消える。
 余計な言葉がないぶん、気障り。その子に対してそんな感情を抱く理由に由真は目をつむった。


 十月になった。ここのところ吐き気がひどい。胃がくつくつと痛む。あまりにも不快で洗面所にこもって、不快感を吐き出す。大きな曖気が出てしばらくはすっきりするが、十分もすると再び気持ち悪さがやってくる。
 仕事のストレスや、と胃薬を口に放りこんだ。
 少しだけ、毎日の深酒に思いが及ぶ。(気のせいだ。)
 慌ただしく日日が過ぎていく。いっぺんに消費しきれないと思っていたスダチも、残すところひとつだった。
 一昨日より昨日、昨日より今日、由真はひどくなる症状に本心では怖気を振るいながらも、習慣を変えられなくなっていた。酒を飲みたくないのに、手が止まらない。仕事中は夜に買う酒の種類を考える。休日には目覚めたらすぐに、酒がほしくなる。
 だんだん、酒への執着が強くなっている。(気のせいだ。)
 あの喉を焦がす痛く快い飲み物がほしい。(なぜ手元にない。)
 定時に帰れるようにアストロ製薬での仕事を終わらせる。職場から徳島駅までが待ち遠しい。タヅツミ商店へ追われるように向かう。アパートまでの時間がもどかしい。
 酒を買う罪悪感。記憶をなくすまで飲む罪悪感。仕事には支障がないようにと電卓を使ってまで弾き出すアルコールの残存時間。
 いつからかこうなっていた。由真は、睡眠と仕事と飲酒を繰り返す。


 ある日、無愛想な津麦に「いらっしゃいませ久世さん」以外の言葉をかけられた。
 津麦は、客の顔色の悪さと、背をやや丸めた不自然な格好、財布から小銭を出そうと震える手、なにかに取り憑かれたようなうつろな目を見てきたが、もう黙っていられなかったのだ。待って、と店から走って追いかけてきた。「待って!」
 振り返る。津麦は由真を見上げた。
「久世さん。もう、いかんのやないですか?」
 由真は動きを止める。津麦の目がまっすぐ自分を見ている。
「……」
「お店としては売らんなんてこと、ようしません。やけど、やけど、久世さんは、もう」
 袋に入った酒を隠すように背に持ち替える。津麦ちゃんやったっけ、と確認するでもなく言うと、由真は、「ごめんな」と言った。悲しげな目をされた。どうしろというのだ。そのまま、由真は歩き去った。
 酒を買うのは前のようにスーパーだけにした。どこまでも見透かしている目に見つめられたくなかった。
 そしてその出来事から一週間も経たないうちに、由真は急激な腹痛で病院を受診した。病名は、アルコールによる急性膵炎だった。


 もう昼やな、と病院食のにおいに由真は溜息をつく。酒がないと気が狂いそうになっていたのは昨日くらいまでだったか。
 ノックのあとにドアが開いた。覗いたのは、
「津麦ちゃん? なんでここに?」
 津麦は、自分を見る由真の力のない問いに、「暇やったけんです」と返す。「ツーピースの最新刊、読みますか?」
 ポッポ街商店街の本屋で買った最新刊をオーバーテーブルに置いた。輸液バッグからルートを目で追って、由真の腕を見る。由真はもう一度尋ねた。
「おれが入院しとるって、なんで知っとった?」
 自分とこの子の接点なんてまるきり思いつかない。拍子抜けする答えが返ってきた。
「あたしのお母さん、ここで働きようるんです」
「ここ……病院で?」
「そう。お母さんが家を出る前に忘れ物をしたけん届けに来て、偶然、久世さんの病室の前を通りかかって」
「ほういうことか」
 自嘲的に笑いかけた。酒の飲み過ぎやったよ、と。
「ほれみーだ。忠告したのにって。ひとさまに迷惑かける社会のお荷物やろ」
 津麦にはただ痛ましかった。
「弱えだろ。みっともねぇだろ。人間やない、くずだろ。津麦ちゃん、そう思うだろ。なあ、そう言ってくれよ」
 勢いを増すつぶやきに、津麦が何も言えないでいると、不意に、由真が顔を覆った。
「……苦しいんよ」
 考えるよりなにより先に言葉がこぼれおちた。目の前の中学生を困らせるだけだからもう口を閉ざさんと、と思ったのに。
「こわいんや」
 声が、震える。
「酒を飲んどらんと。忘れられん。自分で自分をとめられん」
「……」
「津麦ちゃんの言った通りや。身体がやめてくれって言ようる。これ以上痛めつけんでくれ、限界が近いぞってな。体力は落ちる、記憶力も落ちる、いつも吐き気がする。身体のほうが酒を拒否しとるんと反対に、脳が、心が求めっちまう。飲まんとおられん」
 声を詰まらせた。
「……気付いとるよ。分かっとったよ。酒に呑まれとることくらい。はずかしうてたまられん。みっともない。せやけど止められとうない。おれ自身がまだやめたくない。怖いんや。もう本当に後戻りできんところにいるんじゃないかって」
 津麦は、おとなの涙の吐露に戸惑った。泣かんでよ、と思った。困ってしまうけん、どうしたらええか。
 後ずさりして、病室の外に出た。息を整える。掲示物、足音、廊下の向こうの配膳車、ご飯のにおい。
 久世さんは、まだ泣くんやろうか。ぽつりと思った。
(たったひとりで、泣くんやろうか)
 絞られたように胸が痛んだ。津麦は、病室のドアに手をかけて、ゆっくり横に滑らせる。
「久世さん」
 由真は身じろぎした。出て行ったんやないのか。おれに呆れて見放したんやなかったのか。
「久世さんは、くずじゃないです」
 おずおずと口にする。津麦は、もっとはっきりした声で言いたかったのに、と深呼吸を挟む。喉が痛い。
「まぎれもない、……人間やよ」
 掠れた声で、「そうか」と息に混ぜて由真は応えた。
 静かにドアが開き、静かに閉まる音がした。

 退院して数日が経過した。明日から仕事に復帰する。
 由真はスーパーで、人参と豆腐と卵と牛乳、スポーツドリンクを買った。まだこってりとした食べ物は受け付けない。だが、――買い物かごの一番下にワンカップを入れた。誰が見るでもないのにレジを通った後は真っ先に買い物袋に入れた。
 ポッポ街商店街の入り口で、由真は酒の瓶を握った。
 背後を、自転車に乗った男子中学生たちがはしゃぎながら通り過ぎた。
 開缶しようと指をかける。購入したことにうしろめたさを覚え、ためらった。
 由真の腕を握った人があった。
「……あっ」
「この時間、この場所。あたしが通りかかるの、待っとったんですよね」
「……どうやろうね」
 津麦の瞳は、責めるのでなく選択を委ねていた。
「久世さん」
 ためらったのち、由真は酒を口にした。焼けるような熱さを伴う飲み物。苦かった。ふたくち飲み下し、息を吐いた。
「飲んだな」
 笑いが漏れる。
「これでもまだ、おれはくずやないって?」
 自嘲的な笑みに、津麦は初めて友好的な笑顔を向け、名を呼んだ。
「さあ。久世さんがどう思うかじゃないですか」
 津麦は由真の背を一度たたいた。
「まだ昼間の暑さ、残っとりますね。スダチのシャーベット食べていきませんか? おばあちゃんとあたしが作ったんです」
 くったくなく笑う津麦に、由真は詰めていた息を吐き出してから言った。「ありがとう」


実在する人物・団体等とは関係ありません.

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