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人のこだわりを笑うな。

「こだわりの強い人」
大半、この表現はネガティブな意味で使われるよね。

"こだわり"とは、
粗めにブレンドされた執着と固定観念が抽出する、特別な思い入れの事。
僕は"こだわり"のことを、↑のように定義している

売れない喫茶店のマスターの平日昼間のぼやきっぽい言い回しになってしまったけど、濃いか薄いかでいうと"濃い"し、単純か複雑かでいうと、煩雑だ。

ルーツを「生きてきた環境」と呼んでしまえば抽象的で数秒後に消えて無くなっている。みんな主観的に然としてきた事は客観的に見れば、それは然ではないし常でもない、単に未知でしかない。

その"未知の断片"に触れられる瞬間や輝きがあるからこそ、
僕たちは当たり前に他人を愛せる。

こだわりを持つようになった理由や根拠なんて大抵は存在しないし、本人に至っては覚えていないと断言し、こちらは軽くあしわられる始末だろう。
僕は思う、「違う、そうじゃない」と。

僕は"こだわり"というものの概念について、以下のような感覚を持っている。

すでに塗り潰されたこだわりというキャンバスに、無意識に何十色も混ぜ合わせてしまった色彩で、あなたは新たなこだわりを殴り書く。いやむしろ、流し込んで破壊しているのかもしれない。そして乾燥もさせないままその作品に名前をつけ、オークションに出し、買手がつかないまま数ヶ月が経過し、最終的には出品を取り下げる。作品はただの塗られた何かとなり、またそこに手が加えられ、こうした衝動や奇行は繰り返される、こだわりがこだわりであり続ける。

執着とは、「直感的に心から好きであること」
固定観念とは、「きみ特有のフィルターを通して見える、唯一無二の世界」

何か自分の執着している部分に、固定観念が混ざり、振り返ってみるとそれは全て、「特別な思い出」になる。

だから僕はこだわりの強い人と会うと、本人すら気付いていない様なそのこだわりの先に隠れる、「特別な思い出」を覗いてみたくなる。そんな好奇心が湧き上がってくるから、僕はこだわりの強い人は好きだ。

よくある「スタートラインにすら立っていない論」風に表現すると、好きか嫌いかなんて、近づける所まで近づいて、見て触れて感じてからがスタートで、みんな大体はスタートラインにすら立たずに退場している。

表面的な付き合いは居心地が悪くて嫌いだからこそ、
ぼくはこう結論づけた。

だからこそ、親しくなりたい人には自分のこだわりを全面的に押し出す笑
人間関係の話を考えるとそれって、ある意味等身大の自分でもあるし、せっかく好かれるなら自分という人間を好きになってもらいたいから。と感じる人は世の中に山ほど息を潜めているはず…。


そして、僕のこだわりはまだ秘密。

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