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過去は変えられないけれど、過去の意味は変えられる
成人の日の青空はいつもと少し違って特別だ。
当時、間違う事が若さの特権だと思っていた。
今もそれは変わらない。
けれども若くはない今だからこそ、間違ってはいけないという自己暗示が強く効き過ぎていて、日々を自ら退屈にしてしまっている。
結局、何歳になっても過ちは起こすからそれに対してどう向き合うかでしかない。
たくさん間違ってたくさん迷惑かけたなら、今後同じ過ちを繰り返さないように変化していけばいいんだよ。
僕らは永遠に純潔で無垢な存在であり続けるべきだ。
振り返ると、一番大きな過ちは人間関係にあった。
自分が不快な思いをしたくない、事をより穏便に済ませたい為に、「〇〇してほしい」「〇〇したい」というような気持ちを随分と蔑ろにしてきた。
自己防衛を優先した僕は、他人に誠実である事を怠った。
すべき努力と意志を完全に放棄してしまった。
それが相手に伝わってしまった時、それは想像もつかないほど酷い仕打ちでしかなかった。
世の中には"過ち"が人の数だけ散らばっている。
「すぎさる」と書いて「あやまち」とも読むように、僕らの過去は過ちに溢れているのかもしれない。
裏を返すと、過去の存在によって間違いを正す努力と意志を持つ事がが出来る。
よく善悪と素直さが同じ盤上で用いられるけれど、それは全くのお門違いだと思う。
物事には遵守されるべき順番が備わっている。
自分の心に従う素直さを選択した場合、初めてそれが善悪の天秤にかけられる状態に変わる。
善悪と素直さは同じ盤上で扱うべき対象ではない。
そして善悪の判断とは本来、他者との関わり合いの中で形成されるべき事柄なんだろう。
誠実さが導く素直さを「実直」と呼ぶ。
実直である努力と意志を現在に反映させる事で、過去の意味を変えてみせる。
これは僕というだらしのない大人の決意表明なのかもしれない。
過去の意味を変える事は現在の自分を受け入れる事にも繋がっていく。
斜めに傾いた青かった20歳の自分に、今はこんな風に人生を進んでいるよとそっと耳打ちしたくなった。