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「武道館」を読んで考えた"推し"について


アイドルでも2次元でもないけれど、私には応援している人たちがいる。

どのジャンルまでを"推し"という言葉の対象にするかは、最近いろいろな意見をみかけます。私はそれについて明確な答えが見つかっていないし(どちらかというと抵抗なし派かな?)、いろんな人が言っているようにそれにかわる言葉も見つからないので、ここでは便宜上"推し"としておきます。

朝井リョウさんの小説『武道館』。女性アイドルグループが主人公のお話。

「武道館」が私の中でタイムリーなワードなので積ん読から引っ張り出してきた。アイドルファンに限らずとも、なんらかの"推し"の存在がいる人たちには刺さるんじゃないかな。

(ということを、10年ほど韓国アーティストを追っかけている妹に言ったら「私はもう悟りをひらいているかも」と返された。何が起きてもたいてい大丈夫だと。古参は強い)

ファンとの距離感とか世間のルールとか応援の仕方とか、最近考えていたことばかり。私も活動や発言に一喜一憂するし応援もしたいからお金も使うけれど、極端なことがない限り、その人たちの決断や意志を否定することはしたくないなと思った。例え何かあっても、だいたいのことは「傷ついた」だけで「傷つけられた」ことではないと思うから。

例えば私は「自分と同じだ」という共感性も好きになる理由の一つです。なので、推しの中で何か変化があったときに、置いていかれたような、さみしく虚しい気持ちになることがあると思う。でもそれを振りかざして、「傷つけられた」ということにはしたくない。そのときは、私が勝手に「傷ついた」だけなんだと思う。

私も、推しも、人は変わるからいつか交わらなくなる日がくるかもしれない。でも、それまではできる限りの応援をしていきたいなと思う。

あと応援の仕方についても、推しが不快に思わないかを考えたい。

最近、ファンアートと呼ばれる自分の推しのイラストを描く行為について、OKかそれとも推しにとって不快なのかということがSNS上でちょっとした議論になっていた。

それに関して思うところはあるけれど、長くなりそうなのでここでは割愛します。

とにかく応援は、自分がされて嫌なことはもちろん、推しの性格や状況を想像して配慮しつつやっていく。想像しつづけることはやめたくない。誰かの不幸の上に成り立つ自分の幸せはいやだなと思うから。

そんなのキレイゴトで、誰も傷つけることなく生きていくことが無理なのは重々承知です。でも、だからこそ、できるだけ配慮して、学びながらベストを尽くしていく姿勢は持ち続けたいなと思っています。

一番言いたいのは、生きる楽しみになっているすべてのジャンルの推したちに感謝です!!!!みなさんにたくさんの幸せがありますように!!!!


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