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だって、すぐ行けるんだから

私は昨日のちょっとした「旅」について、どう書き表そうかと思案していた。
清澄白河駅で降りて、深川めしを食べ、東京都現代美術館に行く、この何気ないことが、車椅子の私にとってはそこそこ手間と時間とお金を必要とする行為だ。しかも、天気予報は雨。地下道やアーケードのない街への外出は、時に行先を変えるという選択を余儀なくされる。

通りで見たあれやこれやを、どんなふうに伝えようか、表現や構成を練りつつ、パソコンに向かおうとしたとき、ある人の言葉が記憶から静かに取り出された。

「だって、行けるじゃないですか」

私が、当時やっていたコミュニティラジオのために録ったインタビューの中で聞いた言葉だった。
どこにでもすぐさま行ってしまう身軽なその人に「(どこにでも)サッと行きますよね」と言った時の返答がそれだった。
私はこの時にちょっとばかりの嫉妬と心からの羨ましさと、砂粒ほどのモヤっとしたものを感じていた。

私には行きたくても行けない場所があるんですよ。

ひと言で表すならそれだ。その言葉が口から飛び出ることはなかった。そんなちっぽけな感情で、この素晴らしいインタビューをぶち壊しにするつもりはなく、私はニッコリ笑って同意した。

健常な人と比べ、私が外出するには時間とお金をかけなければならない。
介護者が2人必要なため、交通費は毎回2倍だ。天候によって諦めなければならない場所もある。通れない道、入れない店、見えないモノ、嫌な言葉や態度、そんなものに出会う度、私は障害者であることを社会から認識させられる。
なぜ障害があるというだけで、こんなに苦労を強いられるのか。

そんな私からしたら
「だって、行けるじゃないですか」
は、少しばかりチクンとする言葉のように感じたのだ。

ふと周りの人を思い出した。
雑談の中で、誰かが「私コレやってみたいんですよね」と言う。しばらくして会った時に「やってみました?」と尋ねると、たいていの人は「まだです」と言う。
また、私が何かの提案をして、その場では「良いアイデアですね!やってみます!」と賛同を得ても、それをすぐ実行する人はまずいない。
そんな時、私は相手の言葉を真に受けたことに少し腹を立てる。

「今日からすぐやれるじゃないですか」

私はそう思うのだ。

しかし、雑談の中での、「やってみます!」は、I'm going to do it! ではなくて、場をまとめるための緩衝材にすぎないのだから、腹を立てる方が間違っている。

そこで気がついた。
私が言った
「今日からすぐやれるじゃないですか」

「だって、行けるじゃないですか」
と同じなのだ。

私にとって確かに外出は簡単ではなく、行きたくても行けない場所はある。経済的負担も大きく、無理解に出会うことも多い。
それでも、私は、行きたいところに行き、したいことはすぐする。
「私には行きたくたって行けない場所があるんですよ。」なんて捻くれたことを思わなくたって、私はその人が聞いたら驚くぐらいのことはしてきているのだ。


清澄白河は、2~3回車椅子のタイヤを転がせば寺にあたるというほど、寺の多い街だ。時が止まったような静かな通りに面する民家や店舗の前には、ゼラニウムやら一重のヤマブキやらが咲いていた。
小さくてまだ青いビワも見えた。
素敵な街だった。
また行ってみよう。

だって、すぐ行けるんだから。

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