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スリリングな『知と愛』

本を手にする時、何故その本を手に取ったか、明確な理由があったりする。
書店で手にする時は、何かピンとくるようなものがあるときだ。そんな時、本自身が「私を手に取って」と言っているような気がする。
『フォン・ノイマンの哲学』がそうだった。
カフカの『変身』を探していた時、たまたまその隣の棚にあった本で、一度は買わずに帰ったが、しばらくしてから、「買う」という意思をもって再び書店に足を向けた。


『知と愛』については、そういうふうにして選んだ本ではない。
明確な理由があって手に取った。
手に取ったという言い方は正しくはなく、私は電子書籍で購入したから、物理的に私のそばにあるわけではない。
とりあえず、手に取ったと表現しておく。

何故その本を手に取ったか、その理由はあまりにも個人的過ぎる故、あるいはもしかすると誰かを嫌な気持ちにさせてしまう可能性がある故、はっきり書くわけにはいかないが、私はこの本から「あること」のヒントを見いだそうとしている。
今のところ、何となくわかったようなわからないような、最後まで読んでわかるかもしれないし、結局わからないかもしれない。
それでも、私は今この本を読まずにはいられない。

さて、ヘッセである。
むかしむかし、『車輪の下』を読んだような読まなかったような、数ページめくって挫折したような、そんなヘッセである。
私の知的レベルでは解読しきれないヘッセである。

しかし、意外にも私はどんどん読み進めている。
スリリングなのだ。
私は、詩人として名高いヘッセが、朗々と性愛を描いているなどと考えたこともなかった。
文学にそのようなものが書かれるとは思っていなかった。

考えてみれば、源氏物語は壮大な性愛の物語であるし、高校を卒業する時に国語教師からプレゼントされた本は、性に目覚めた青年を書いたコレットの『青い麦』である。
村上龍も山田詠美も、きっと私がまだ手にしていない多くの文学や芸術が、性愛の世界を描いている。
私は、そのことに少し驚いている。

しかし、この本から明らかにしたい「あること」は、性愛とは関係ない。
母親の愛のことか、惹かれあい、反発しあう磁石のような2人の友情のことか、あるいはもっと別のことなのか、私は人の秘密を知ってしまうような好奇心と恐れを持って読み進めている。
そういう意味でも、スリリングだ。

読後、たぶん読書感想文もしくはレビューを私は書かない。
私の陳腐な文章力では、きっと書き表せないと思うからだ。
ただ、この本を手に取るきっかけとなった「あること」が、解明されれば良い。

解明されるのかな。

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