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『ヴェルヴェン』

ヴェルヴェン。

彼が最初に教えてくれたフランス語は「ヴェルヴェン」だった。
サトミは、はじめなんのことを言っているのかわからなかった。
半円形にカットされ、ほどよい光沢感のある黄金色の金属に、柔らかく暖かな太陽光があたっているような彼の声でその言葉を聞いた。
彼の視線の先にはサトミが使っているハンドクリームがあった。彼はそこに書かれたverveineの文字を読んだのだった。
喉の奥から発せられるフランス語のRの音を伴った深い響きとは違って、ヴェルヴェンの香りがするハンドクリームはレモン様の爽やかな香りがする。

僕はこの植物をヴェルヴェンという名で覚えてるんだ。

空調の音が静かに響いている。
その風に乗って彼の首筋あたりから発せられるスパイシーで力強いウッディノートは、「ヴェルヴェン」という音と結びつき、「ヴェルヴェン」はハンドクリームではなく、瞬く間に彼の香りとなった。

彼の耳元の髪が汗で少しクセづいていて、サトミはその髪に触れてみたいと思った。
彼の髪に触れることができるなら、指先にはこのレモンやハーバルな香りのするハンドクリームではなく、甘く少し苦味のある魅惑的な香りが良いだろう。
もしも今それが現実となりその魅惑的な香りが彼を満たすのなら、サトミのバニラ香のような感情はすぐにでも昇華するのだろうか。

時折、ヴェルヴェンの香りはコーヒーの香りに遮られた。
トクトクと話し出す彼に惹きつけられながらコーヒーを一口含む時、まるで香水売り場のカスカスになったコーヒー豆を煮出したような香りが彼のヴェルヴェンを遮り、その度にサトミは夢と現実の世界を行き来せねばならなかった。
おそらくそれで良かった。
もしこのコーヒーが素晴らしくふくよかな香りを放っていたら、彼が言葉を発する度にヴェルヴェンの香りと融合してサトミを夢の世界へ引き摺り込み、もう戻れなくなるだろう。
いや、しかし、いっそのこと、その方が良いのかもしれない。水晶に閉じ込められたルチルが永遠の美しさを得るように、成就しないであろう恋心に「ヴェルヴェン」と名を付けて永遠に閉じ込めてしまいたい、彼の心と共に。

だが、時はそれを許さなかった。
時間は、刹那に夢を見させてくれるだけで、止まることも戻ることもなかった。
サトミは彼を駅まで送っていき、何事もなかったように軽く手を振った。
彼の背中が遠くなり、やがて消えていくまで、サトミの足はしばらく動きを止めていた。
どれくらい経ったのか、おそらく彼を乗せた列車が出発した頃、サトミはようやく歩き出した。そして、さっきまで自分の目の前から香っていた彼の香りがどうしても恋しくなり、その足で百貨店の香水売り場へ向かった。
整然と並ぶ香水のボトルたちは、シーツをギュッと掴んで離した時にできるシワのようなサトミの心模様などおかまいなしに、誇り高くそれぞれの香りを放っていた。
サトミは彼のヴェルヴェンの香りを手に取った。そのヴェルヴェンはもちろん「ヴェルヴェン」とは書かれておらず、ミニマムなフォントで商品名を示す無機質な数字だけが羅列されている。
ボトルの吹き出し口からは先程の彼と同じ匂いがした。
サトミの心には再びギュッと握られたシワが刻まれた。
サトミは強く欲したはずの彼の香りを買って帰ることを諦めて、匂いのする液体で満たされているボトルをそっと棚に置き戻した。

外に出ると雨が降った痕跡があった。
アスファルトから立ち昇るペトリコールが、まだモゥっとする夏の暑さと皮膚の表面に僅かに感じるスッとした秋の空気と共に道行く人を包み込んでいた。
それは彼の「ヴェルヴェン」と少し似ているような気がした。
サトミもまた、死にゆく夏の香りに包まれ、雑踏を構成するひとつのパーツとなっていった。

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